明石城



所 在 地 兵庫県明石市大明石町、県立明石公園内
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別  名 喜春城、錦江城、鶴の城

築  城 天正13年(1585年)キリシタン大名として知られる高山右近が摂津高槻から明石の地に封ぜられ明石川の河口に船上(ふなげ)城を築きまし。

 元和2年(1616年)になって家康の外孫にあたる小笠原忠真(ただざね)が10万石を与えられ信州松本から、この船上城に入ったのですが・・。

 西国雄藩の押さえとして新城を建設するように徳川秀忠から命じられ、船上城から1キロほど離れたところにある海岸に張り出した丘陵を利用して築いたのが今に残る明石城です。

 工事は元和4年(1618年)に始まり、姫路城主の本多忠政が総監督となり同6年(1620年)に一応完成しました。

 その経緯からして幕府の多大の援助を受けて築城されましたが、小笠原忠真のあとの歴代城主も譜代親藩が勤めています。天和2年(1682年)に越前松平氏が入封すると明治維新まで10代に渡って城主を続けました。

 上の写真は明石城の未申櫓です。隅櫓のうちで一番大きいこの櫓が天守代わりに使われました。


遺  構 本丸の南側にある隅櫓のうち未申櫓(右の写真=重要文化財)、巽櫓(左下の写真=重要文化財)が残っているほか石垣、堀などが残っています。

 この2つの櫓は阪神・淡路大震災で櫓台の石垣も含めて大きな損傷が出たのですが、1995年から5年がかりで修復工事が行なわれました。

 櫓を鉄骨で串刺しにしてジャッキで持ち上げ現状のまま移動、石垣の修理をし、その修理が終わってから櫓を元の位置に戻して白壁などの修復をするという大工事で、偉容を取り戻しました。








 上右の写真は未申櫓を本丸側から見たところ、同じく左の写真は高山右近が築城した船上城の遺構という巽櫓です。

 この2つの櫓を結ぶ白壁の土塀(上の写真)は100年ぶりに復元されたものです。大震災の修復の際の調査で明治の初めに取り壊された土塀の資料が宮内庁で見つかりました。その資料で構造も明らかになりましたので復元されたのです。




 明石城は織田・豊臣の時代も終わり徳川の天下になってから築城されたのですが、西国への押さえという狙いがありながら天守は作られませんでした。作る予定はあったのか天守台だけは作られ、今に残っています。

 右の写真が天守台です。

 この天守台を撮影した位置を中心に、写真の右手から撮影位置の後方に掛けてが本丸跡になります。








 本丸、二の丸の南側は、左の写真のように高石垣になっています。なかなかに見事なものです。







展  望 2つの櫓を結ぶ白壁の土塀に沿って本丸側には展望台が設けられています。

 ここに登ると左の写真のように土塀越しに眼下には芝生広場があり緑の大木も茂る公園が、その向こうにはJRの明石駅が、そして明石の中心部のビル群が真正面に見えます。

 写真の中央に横に一直線に白く光っているのがホームの屋根です。このホームからの明石城の眺めが一番・・・といわれますが、残念ながらマイカー利用で来ていますのでホームには行っておりません。

写真はいずれも2002年3月10日撮影、
2003年1月7日記す。