
所 在 地 滋賀県蒲生郡安土町下豊浦
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築 城 天正4年(1576年)、天下統一を進めていた織田信長が丹羽長秀を総普請奉行にして、当時は琵琶湖に面していた安土山(標高199メートル)の山頂に築かせました。
築城を始めて3年後の天正7年(1579年)完成した城は五層七重の天主をもつ大城郭でした。
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が討たれたあと焼失してしまいます。完成からわずか3年後のことでした。
現在、往時をしのばせるのは城跡に残る石垣と天守跡の礎石などだけです。
右の写真は大手口から真っ直ぐ本丸、天主に向かって延びる幅の広い大手道です。
遺 構 石垣、土累、天主跡、本丸跡、伝豊臣秀吉邸跡、伝前田利家邸跡など。
1989年(平成元年)から安土城跡の学術的な発掘調査と整備計画が20年計画でスタートしており、発掘調査に基づいて城跡の整備が進んでいます。
大手道入り口を固める秀吉、利家の邸跡 大手道の石段を上がり始めるとすぐ左側には羽柴秀吉邸跡、向かい合う形で右側には前田利家邸跡があります。
下左の写真の羽柴秀吉邸跡は大手道から撮ったもので、上下2段に分かれている邸跡の下段の部分であり、馬6頭を繋ぐことが出来る厩のあったことが発掘調査で分かっています。入り口には2階建ての櫓門があるという堂々としたものです。
画面右側には高いところでは3−4メートルはありそうな石垣が築かれており、上段の屋敷があります。この上段には大手道に面して高麗門があり、隅櫓が付属していて防備を固めています。

上左は 羽柴秀吉邸跡 上右は 前田利家邸跡
上右の前田利家邸跡は秀吉邸跡から撮ったものです。秀吉邸に比べると急峻な勾配の地形のため数段に分かれています。建物は秀吉邸とほぼ同じようなもの・・大手道を防備する隅櫓をはじめ厩、多聞櫓、奥座敷、台所などです。まだ発掘調査の出来ていない部分があるとのことです。
幅が広くまっすぐな大手道
天主に通じる大手道は普通、防備を固めるために幅があまり広くなく曲がりくねっていて要所には門が作られいるのですが安土城では幅が広く、ほぼまっすぐに出来ています。

左の写真は3分の1ほど登って振り返ってみたところです。新緑のころとて樹木が茂り見通しが悪いのですが、ほぼ一直線になっているのが分かります。
このようにまっすぐなのは軍事目的よりも天下統一の象徴としての役割を重視し、また天皇を迎える計画があったために、その通路として幅広く緩やかに作ったともいわれています。
もっとも、もう少し登ると急な石段が続くようになり、登るのに一汗かきました。

石段に石仏 大手道の石段のあちこちに下の写真のように石仏が使われています。
付近から切り出した石では足りずに石仏まで利用したわけです。いかにも信長流という感じがしました。

黒金門跡 大手道を上り詰めると右の写真の黒金門跡になります。写真は大手道を登り切ったところから左を向いて撮ったものです。
ここまで登ってきたときに見た石垣に比べて石も大きく丁寧に・・というか、きれいに組み上げられています。
二の丸、本丸などへのルートは大手道からいうと写真に写っている方向・左に曲がり、写真の正面突き当たりで右に曲がります。もう一度右に曲がりますと本丸御殿跡へと続きます。反対の左へ進みますと信長廟があります。
黒金門は本能寺の変の直後、天主とともに焼け落ちたことが発掘調査で分かったそうです。菊の紋、桐の紋の金箔瓦が出土しています。

信 長 廟 黒金門を入ってすぐ左へ進み石段を登っていきますと二の丸跡で、ここに秀吉が建てたという信長廟があります。
左の写真の門を入った正面にあるお墓は大きな石組みで、幅3−4メートルもあろうかというりっぱなものでした。
信長は本能寺の変で討ち死にし燃え落ちる伽藍とともに亡くなっています。遺骸は見つからなかったのですが、廟・・お墓はこの安土城のほか本能寺などにもあります。

本 丸 跡 右の写真は「千畳敷御殿」ともいわれた本丸御殿があった本丸跡です。
東西約50メートル、南北約34メートルの敷地に多数の礎石が見つかっています。
礎石の配列などから中庭を囲んで3棟の建物があり、御所の清涼殿によく似ているとのことです。
信長は安土城への天皇行幸を2度も計画していました。本丸御殿は、それが実現した際の天皇のための御殿・・ともいわれています。
写真の中央、樹間が広がり明るくなっているところに天主への登り口の石段があります。
写真は2006年5月8日撮影。
2006年5月10日記す。
2006年5月18日追加更新。
安土城 =その2= に続く。
