所 在 地 岡山県高梁市内山下(うちさんげ)1
築 城 松山城は高梁市の市街地の北端にある臥牛山の山頂を中心に築かれた近世城郭です。臥牛山は4つの峰からなっており、そのうちの小松山(標高約430メートル)に天守などがあります。
城の歴史は古く鎌倉時代の延応2年(1240年)にこの地方の地頭に任じられた秋庭三郎重信が臥牛山のうちの大松山に砦を築いたのが始まりです。その後、縄張りは変化し出丸も多く築かれるなど臥牛山全体が砦となっていたようです。
戦国時代には備中を征する拠点として攻防が繰り返され城主が次々と代わりました。関ヶ原の戦いで毛利氏は西軍側になり敗れたため備中国を没収され、徳川幕府は代官として小堀正次を入城させ、その子・正一(遠州)の時には城の修築が行われています。
その後も次々と藩主が代わりますが伊勢亀山藩主の板倉勝澄が5万石で入封して以降は明治維新まで板倉氏が8代続きました。最後の藩主・勝弼は藩知事となり松山を高梁と改名しています。
特 色 日本の3山城の1つ(岩村城=岐阜県、高取城=奈良県、松山城=岡山県)に挙げられていて、現存天守としては全国で最高所にあるという山城です。江戸期には山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿が設けられ藩主はそこで起居して藩の政務をとっていました。

構 造 天守(左の写真)は2層2階、西面(写真では左側)に半地下のようにして付櫓(廊下)がある複合式望楼型になっています。山城のことですから小振りな天守です。
左の写真のように山頂に露出した岩盤の上に石垣を築き建ててられています。木の根が岩盤を割って成長しており岩盤、さらには石垣が崩落の危険もあるためペルー・マチュ・ピチュ遺跡などで地滑りの観測をしているのと同様の不安定岩盤斜面監視システムを設置して調査・観測しているとのことです。
遺 構 天守、二重櫓、土塀の一部が残っており、国重要文化財に指定されています。平成6年(1994年)より本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元されて現在の姿となっています。
詳細な解説とその他いろいろな写真は近日中に掲載します。
写真はいずれも2013年12月7日撮影。
2013年12月27日記す。
2014年1月4日追加更新。
