江戸城 =その1=
所 在 地
東京都千代田区千代田1−1
(上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)
現 状
大都市・東京の都心にある広大な城跡、それが太田道観の創建に始まり徳川幕府の政権中枢であった江戸城跡です。
現在は皇居と呼ばれ、天皇のお住まいである御所、公式行事の場である宮殿などのほか宮内庁などがあります。
皇居ではありますが、外郭、本丸、二の丸などは一般に公開されています。宮殿などを含め江戸城の遺構の数々も内部にこそ入れませんが、宮内庁職員の案内で見て回ることができます。
左の写真は
富士見櫓
です。徳川幕府時代、天守閣が大火で焼失した後は天守代わりに使われたといわれます。
別 名
千代田城、一時、東京城ともいわれた。
遺 構
天守台、伏見櫓、富士見櫓、富士見多聞、桜田二重櫓、大手門、桜田門、田安門、清水門、半蔵門、平川門、乾門、桔梗門、坂下門、道灌堀、桜田堀、桔梗堀、石垣、土塁など。
田安門、清水門、桜田門は国指定の重要文化財です。
右の写真は
富士見多聞
と
蓮池堀
です。本丸はこの石垣の向こうですが、このように総石垣と堀に囲まれており、15棟もの多聞がありました。
多聞は防御と装飾を兼ねて建てられましたが、武器庫や倉庫などの実用に使われました。いまはただ1つ、この富士見多聞が残っているだけです。
蓮池堀は名前の通り蓮が一面に生えており、夏には大輪の花が見られるそうです。
築 城
江戸城創建といえば太田道灌の名前がまっ先にあがりますが、12世紀初め頃の平安末期、関東の豪族平氏の分流秩父氏が現在の本丸あたりに居館を構え、江戸氏を称したのが原点です。
室町時代の長禄元年(1457年)扇谷上杉定正の家臣太田道灌は居館程度の作りであった江戸城を整備し、関東制圧のための要害として再構築しました。
左の写真はいまも残っている
道灌堀
です。上の蓮池堀の写真の左の方、道路を挟んだ位置にあり、堀の奥の方、左側が紅葉山、右側は吹上御苑になります。
道灌の死後、時代は変わって城は北条氏の領するところとなりますが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原討伐により北条氏が滅亡、代わって徳川家康が関東に入国、江戸城を本拠としました。
関東5カ国、250万石の大大名の城として大規模な拡張、増築が始まりました。豊臣滅亡、徳川幕府の開設により天下を統一した権威の城としてさらに大きく、また幕府の政務を司る城として整備されていきます。
約40年掛けて出来た城は道灌当時に比べると40倍の広さ、東西約5キロ、南北約3.9キロにもなるといいます。
内城として本丸、二の丸、三の丸、西の丸、紅葉山郭、中郭として吹上郭、北の丸、西の丸外郭、的場郭、大手前郭、さらに外郭として山の手総構え、下町総構えという縄張りで、本丸には地下1階、5層の大天守が聳えていました。この天守は明暦3年(1657年)の火事で類焼してしまいました。
百人番所
大手門を入ったところににあるのが右の写真のような百人番所です。
大手門は甲賀組、根来組、伊賀組などが警備しており、各組100人ずつが所属していたので百人番所と名付けられました。
現在のものは旧来の建物を修理復元したものです。
中の門跡
左の写真が中の門跡の石垣です。
上の百人番所の左端に内大手門跡の石垣が少し見えます。この門を入り百人番所の前を通って右に(写真では左の方に)進むと中の門に至ります。
大手門から中の門へのコースは江戸城の正門になるわけですから巨石を使い、きれいに切りそろえた石を使い石垣を築いているのがよく分かります。
白い石は小豆島より運んできた御影石ということです。
大 番 所
左の写真は中の門を入ったところにある大番所です。
百人番所よりやや格が上の同心・与力が警護し詰めていたところです。
番所としては百人番所、大番所の他に同心番所も残っており、合わせて3つ残っていることになります。
この写真は2002年10月4日撮影。
写真はいずれも2002年4月8日撮影。
2002年11月11日記す。
江戸城 =その1=
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江戸城 =その3=
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