所 在 地 京都府福知山市字内記5番地
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築 城 室町時代後期に塩見頼勝が福知山盆地にある小高い丘陵に築いた横山城が福知山城の始まりです。
織田信長の命で丹波を攻めた明智光秀は天正3年(1575年)亀山城を落とし、ついで天正7年(1579年)には横山城を落としました。
光秀は丹波平定の功で丹波一国を与えられ横山城に入ります。土塁と堀を巡らしただけの横山城を光秀は自ら縄張りして大改修、福知山城と名づけました。
光秀は近江・坂本城を本拠としており、この福知山城には甥の明智秀満を入れました。
本能寺の変、ついで山崎の合戦の後、豊臣時代、さらに徳川時代に丹波は何代か領主は代わります。寛文9年(1669年)、朽木稙昌が常陸土浦から入封し、朽木氏は13代、約200年続いて明治を迎えました。
別 名 臥龍城

右上の写真は3層4階の天守で、昭和60年(1985年)に鉄筋コンクリート建てで復元されたものです。この天守の向こう側に続櫓、小天守が連結された形になっています。
遺 構 福知山盆地の丘陵地の東の先端から西へ向かって本丸、二の丸、伯耆丸、内記丸と続く連郭式の城郭です。
現在は本丸が残っているだけで福知山城公園として整備されており、本丸の石垣上には元々は二の丸にあった銅門脇番所(左の写真、内側である本丸側から撮影)が移築、保存されています。
雰囲気のある登城路 かつては水堀として利用された法川の岸に駐車場が設けられており、法川には下左の写真のように城への通路として太鼓橋が架かっていました。ここから見る天守はいい眺めです。画面右端に写っている多聞風の白壁は佐藤太清記念美術館です。角度を変えてみると隅櫓風の部分もあり、天守などの脇役として城の雰囲気造りに一役かっています。
太鼓橋を渡ったところ美術館の前から下左の写真のように緩やかな坂になった登城路が出来ています。この通路は復元天守などに通じるもので、本来の登城路は現在住宅地になっいている二の丸側にあったようです。

本丸への櫓門 登城路は本丸を囲む高い石垣に沿っていますが、途中に下左の写真のように狭くて急な石段があり、その上に右の写真のように櫓門があります。


天守の東面 右上、右下の写真の櫓門は全くの模擬門で、このような櫓門があったのがどうかは疑問ですが、天守の東側の石垣に門が設けられていたことは古図にも記載されているようです。
この門を入ったところは天守東側の本丸ですが、さほど広くはありません。カメラで天守を画面いっぱいに撮ろうとすると塀近くまで下がっても左のようにしか撮れないという状態でした。

朝暉(あさひ)神社 右の写真の画面中央にある鳥居の奥には朝暉(あさひ)神社がありました。福知山朽木家初代藩主朽木稙昌の父を奉る神社です。
写真はいずれも2010年5月15日撮影。
2010年5月23日記す。
2010年8月7日追加、更新。
福知山城 =その1=
福知山城 =その2= に行く。
福知山城 =その3= に行く。
