
所 在 地 青森県弘前市白銀町
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築 城 戦国時代末期、南部氏に従っていた大浦為信は津軽一帯を平定し豊臣秀吉から津軽三郡の所領を安堵され、姓を津軽と改めました。関ヶ原の合戦に際して津軽為信は東軍につき徳川家康から2,000石の加増を受け47,000石の弘前藩が成立しました。
堀越城(弘前市堀越)を築き大浦城から移りましたが手狭なこと、守りに不向きなことから1603年(慶長8年)鷹岡(現在の弘前城)に新城を築きます。
為信の死で中断されますが、2代目の信枚(信牧)が築城を再開し。堀越城、大浦城の建材を利用するなどして1611年(慶長16年)完成しました。これが現在に残る弘前城です。

当初、高岡城といわれたこの城は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭からなる面積約49ヘクタールにも及ぶ大規模なもので、明治の廃藩に至るまで津軽氏の居城でした。
右上の写真は下乗橋と天守です。弘前城は日本の桜の三大名所ともいわれています。満開近い桜が天守を一段と引き立てていました。
左の写真は下乗橋の上から見た天守と内堀です。
別 名 鷹岡城、高岡城
遺 構 天守、辰巳櫓、丑寅櫓、未申櫓などの櫓、二の丸南門、二の丸東門、北の郭亀甲門などの門、再建された与力番所など、石垣、土塁、堀など

築城当時は本丸の西南隅に五層の天守が聳えていましたが、1627年(寛永4年)落雷により焼失しました。
今ある天守は1810年(文化7年)9代藩主寧親が本丸の辰巳櫓を御三階櫓として改築したものです。
丑寅櫓 東北地方ではただ一つ、建造当時の天守、櫓などが残る城となっています。
右の写真はその櫓の一つ、二の丸の北東隅にある丑寅櫓です。中堀を見下ろして建っています。
現存する五つの城門 下の写真は現存する五つの城門のうちの一つ、東内門です。

東門から本丸に向かって真っ直ぐに進むと東内門です。
中堀を過ぎたところにあり、進んできた方向からは右に鍵の手に曲がった形で建てられています。
門の両側は土塁で固められています。

東門 右の写真は三の丸の入り口、外堀を渡ったところにある東門です。
東内門の手前で振り返って見たところです。
二の丸、三の丸 下の写真は左が三の丸跡、右が二の丸跡です。


写真は2008年4月19日撮影。
2008年4月30日記す。
2008年5月30日追加更新。
弘前城 =その2= に続く。