
所 在 地 愛媛県今治市通町3―1―3
(上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)
築 城 関ヶ原の戦功で伊予半国20万石を領した藤堂高虎が慶長7年(1602年)に築いたのが今治城です。三大水城の一つに数えられています。
宇和島城主だった高虎は加増、転封されると国分山城に居城を移しました。しかし領国経営のためには交通の要衝で港もある現在地、今治が最適として新しく城を築きます。本丸、二の丸、三の丸を中心に三重の水堀を設け海水を引き込み、中堀には広い船溜りを作るなど海や川を巧みに利用した水城です。
慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封された際、天守も移築の予定でしたが天下普請となった丹波国亀山城に移築され、そのまま明治維新まで残っていたとのことです。また高虎移封後も今治領2万石は飛び地として残り、養子の高吉が居城しました。
高吉が伊賀国名張に移ったあとには伊勢国長島城から松平(久松)定房が入り、明治維新まで久松氏の居城となりました。
広大な城郭は江戸時代もそのまま存続しましたが明治維新で建築物は破却され、現在は本丸と二の丸、一部の堀や石垣が残るだけです。

別 名 吹揚城、美須賀城
今治城の案内図 右は城内にあった案内図を撮影したものです。画面の斜め右上が北になります。
右の 案内図をクリック すると別のウィンドウに大きい図が表示されます。主要な建造物などには地図の上に番号入りの赤い丸 を付けてあり、解説の中にも同じ番号 を記載しています。
以下の説明は このページと大きな案内図をタブで切り換えながらご覧頂く と分かりやすいでしょう。
遺 構 縄張、石垣、水堀。築城以来の建物は何もなく模擬天守と復元された櫓、門などです。

築城当時の天守は移築されましたので長らく幻の天守といわれてきましたが、昭和55
年(1980年)今治市制60周年記念事業として再建されました。このページトップの写真 @、また左の写真の画面右端(塀の向こうに最上階だけが出ています)で見られるようになりました。
天守は5層6階、本丸北隅櫓の台座石垣を改変して鉄筋コンクリートで建てられました。往時の姿を忠実に再現したものではなく模擬天守です。
他に鉄御門、多聞櫓、櫓門、御金櫓、山里櫓も復元されています。
今は二の丸、本丸を囲む内堀 C が残っているだけですが海水を取り入れた広い水堀、藤堂高虎の築城によく見られる犬走のある石垣などが見どころであり、この城の特徴でもあります。
水堀と御金櫓 上の写真の左端に建っているのは御金櫓(郷土美術館)E です。鉄御門に続く多聞櫓(自然科学館)B から御金櫓まで白壁の塀が続いてます。
築城当時は海水を引き入れた三重の堀に囲まれ海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっています。

鉄御門と武具櫓 上の写真から首を右に回しますと右の写真のように堀を横切って設けられた登城路 D があります。これをまっすぐ進みますと右側に鉄御門があります。画面中央にあるのが A 鉄御門で、右端は武具櫓 F です。画面左端の多聞櫓の上に天守が頭だけ出しています。

黒鉄門 左の写真は鉄御門 A で二の丸表門です。平成19年(2007年)木造で復元されました。柱、木造の扉などには短冊状の鉄板がびっしりと鋲で止められていて防備を固めており、黒鉄門の名前の由来でもあります。20万石の城郭らしい堂々たる構えの櫓門です。

天守と藤堂高虎像 黒鉄門をくぐり抜けると二の丸 H になります。かつてはこに藩主の居館がありました。いまは広場になっており、入るとすぐのところで藤堂高虎の騎馬像 G が出迎えてくれます。

本丸へ 広場になっている二の丸から左の写真のように櫓門 I を抜けて本丸 K に入ります。

天 守 天守は慶長9年(1604年)に完成し、慶長15年(1610年)には亀山城に移されたといいますから6年ほどしか存在しなかったことになります。
天守がなくなったため四角形の本丸四隅のうち北隅櫓(2重)が天守の代用となりました。そして天守と各隅櫓は多門櫓によって連結され本丸の守りを固めていました。
再建された天守(右の写真) @ は亀山城に移築された天守の古写真や平面図が参考にされたといわれますが、実際にはその姿がかなり変わっているそうです。
亀山城天守は層塔型だったのに再建天守は望楼型で大入母屋破風で飾られているなどが相違点です。
写真はいずれも2012年4月10日撮影。
2012年4月20日記す。
2013年5月5日追加、更新。
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