
所 在 地 岐阜県恵那市岩村町城山
(上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)
別 名 付近は霧が多く発生するため霧ヶ城ともいわれました。
歴 史 戦国時代、岐阜県の東美濃地方に勢力を張っていた遠山三人衆の本家の居城です。海抜717メートルの城山の頂上に本丸があります。全国の山城のうちでもっとも高所にあり、日本の三大山城の一つです。
遠山衆は源頼朝の重臣加藤景廉が文治元年(1185年)に遠山荘を賜り、その子・景朝が遠山姓を名乗り以降、代々居城として東美濃から信州の一部までを支配しました。鎌倉時代は平坦部に築かれた館的なものでしたが戦国時代に入り織田・徳川・武田の抗争が激しくなるとともに本格的な山城が築かれたとみられます。
織田、豊臣時代には城主がめまぐるしく変わり徳川時代にも何度か城主が代わりますが、慶長6年(1601年) 松平家乗が山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備しました。
右の写真は平成2年、屋敷跡に復元された藩主邸の一部で、表御門、平重門、太鼓櫓などです。
遺 構 縄張、本丸跡、二の丸跡、三の丸跡、出丸跡、石垣、井戸など。
女城主の哀史 織田・武田が攻防を繰り返していた戦国時代、遠山氏最後の城主は景任で、景任夫人は信長の叔母にあたります。
元亀2年(1571年) 景任が病没すると信長は5男を養子に送り込みます。幼少の養子に代わって女城主として采配を振るっていた夫人は武田方に攻められた際に守りきれないと見て敵方の武将と結婚して城と一族を守りました。
これに激怒したのが信長です。長篠の合戦後、武田の力が衰えると岩村城を攻め落とし女城主らは長良川河畔で逆さ磔にされてしまいました。
岩村城の絵図
下の図をクリックしてください。別のタブ・ウィンドウに大きい図が表示されます。

以下の説明は タブでこのページと大きい概略図とを切り換えながらご覧頂く と分かりやすいでしょう。
以下に出てくる地図、絵図は出丸にあった案内図はじめ城跡各地にあった立札、案内図などを撮影したものです。

登城路 このページのトップにある表御門、太鼓櫓などを右に見て坂道をたどっていきますと大手門を経て二の丸、三の丸、本丸となります。
大手門脇には三層の櫓が建ち追手門を経て大手門となり虎口を形成していました。登城路は右の写真のように緩やかな坂道で両側には石垣が連なり屋敷が並んでいたようです。

六段壁 三の丸に入りますと正面に右の写真のような見事な石垣が見えます。東曲輪を守る六段壁といわれる石垣です。


二の丸櫓門跡 上左の写真の右端にある立札のところに二の丸櫓門がありました。写真の正面に見えるのは本丸の石垣になります。この櫓門を抜けると二の丸となります。
画面の右端の方、林になっている奥の方が二の丸となります。ここにも二層の櫓はじめ番所、米蔵などがあったようです。
左の絵図は二の丸櫓門です。二の丸側から描かれていますので三の丸側から写した上左の写真とは位置が逆になっています。
絵図の右端の下の方にある石垣が写真では正面に見える石垣です。
本丸埋門 下左の写真は本丸埋門です。本丸の内側から写しました。その右の絵図は本丸の外、正面から描いており、高い石垣の上の二層の櫓を脇にしていますが、実際の石垣は写真のようにさほど高くはありません。
写真はいずれも2011年12月1日撮影。
2011年12月10日記す。
2013年2月12日写真追加、解説更新。
岩村城 =その2= に続く。
