
所在地 愛媛県松山市丸之内1
(上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)
築 城 伊予国正木城主であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いで東軍に属し戦った戦功により慶長7年(1602年)、伊予国20万石を与えられ、それを機に道後平野の中心部にある城山(勝山)山頂に新しい城を築き始めます。最終的には山頂の本丸、山麓に二の丸、三の丸を設けた広大な平山城となりました。
嘉明は翌年の慶長8年(1603年)に伊予正木から勝山に移り地名を「松山」と改め、城も松山城となります。寛永4年(1627年)に一応の完成をみたのですが当時の天守は五層で威容を誇っていたと伝えられています。しかし嘉明は松山城の完成直前に会津藩へ加増転封となり、そのあとへ出羽上山藩の蒲生忠知が入り松山城の完成に力を注ぎました。
寛永12年(1635年)伊勢桑名藩主松平定行が入封、伊予松山15万石の藩主となります。これ以降松平家が明治維新まで続きました。

城は寛永年間の大改修で天守閣が三層に改められましたが、天明4年(1784年)に落雷のため天守はじめ主な建物が焼失、財政難のため再建に時間が掛かり安政元年(1854年)にようやく完成しています。
上の写真・中央がその大天守で、連立式層塔型三層三階地下一階という構造です。
別 名 勝山城、金亀城
遺 構 大天守、一の門、二の門、三の門、隠門続櫓、野原櫓、乾櫓、戸無門、隠門、紫竹門、塀、石垣、土塁、水堀、井戸など
左の写真は本丸を囲む石垣と巽櫓で、石垣は10メートル余の高さがあります。大天守などの建物群と共に石垣も松山城の見所の一つで高くて堅固、それでいて美しい石垣の数々が見られます。

伊予松山城の古図 右は本丸内にあった古図を利用した案内図です。画面の右が北になります。尾根筋に設けられている細長い本丸で南北の長さが300メートル余もあり、北端に天守などがあります。
右の図をクリックしてください。別のタブ・ウィンドウに大きい図が表示されます。
以下の説明は タブでウィンドウをこのページと概略図とを切り換えながらご覧頂く と分かりやすいでしょう。

ロープウェイで登城 登城には本丸の南西山麓にある二の丸からのルートがありますが、東側の山麓には左の写真のようにロープウェイ、リフトが整備されていて簡単に本丸まで行けます。
ロープウェイを降りると下の写真のように整備された緩やかな登城路になります。訪れたときはちょうど桜が満開、城内のあちこちで花見ができました。

本丸にある門、櫓など 松山城には天守はじめ櫓、門、塀など江戸時代からの現存建築物がたくさんあり重要文化財に指定されているものが21、その他に戦災や戦後に焼失したものなどを復元したものが30もあります。
以下に登城し見学した順に写真を添えて説明します。解説では現存建築物で重要文化財に指定されているものは(現存)、復元されたものは(復元)と記します。復元は鉄筋コンクリートなどではなく木造で往時の通り作られています。

戸無門 本丸に向かって進みますと最初に通るのが左の写真の戸無門(現存)で高麗門という簡単な作りの門です。名前の通り戸がありません。本丸を守る重要な門なのにどうして戸がないのかは不明です。
この戸無門に入る前に大手門、中門があるのですが、現在は門跡だけで現存していません。

筒井門と続櫓 戸無門を抜け左に曲がるとすぐに、大きな筒井門(復元)となり隣に隠門(現存)があります。上の写真の戸無門の左上に少し見えているのが筒井門です。
筒井門は右の写真でも分かるように松山城最大の櫓門で、大手を固める重要な門です。松山城に移転する前に居城していた正木城から移転したものと伝えられています。

この筒井門の石垣に隠れるような形で左の写真の隠門があります。
埋門形式の門で筒井門を攻める敵兵の横手とか背後を突けるように配置されています。

太鼓櫓と太鼓櫓続西塀
隠門を抜けると正面には右の写真のように太鼓櫓(復元)と太鼓櫓続西塀(復元)があります。
続塀にはたくさんの狭間があり、石落としもあって厳重な構えになっています。
桜と太鼓櫓を鑑賞しながら塀に添って右に進み次いで左にUターンすると太鼓門になります。
太鼓門と太鼓櫓 下左の写真は太鼓門(復元)です。太鼓門は門の南北にある続櫓(復元)、太鼓櫓(復元)、さらに巽櫓(復元)と一体になって本丸への侵入を防ぐ一つの防御単位を形成しています。

写真はいずれも2012年4月10日撮影。
2012年4月20日記す。
2013年3月7日追加、更新。
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