加納城



所 在 地 岐阜県岐阜市加納丸之内
  (上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)

築  城 文安2年(1445年)美濃守護代の斎藤利長が革手(川手)城の支城として築いたのが始まりです。天文7年(1538年)ごろには一旦廃城となりましたが、関ヶ原の合戦に勝ち天下を取った徳川家康が慶長7年(1602年)養女亀姫の婿、奥平信昌に十万石を与え岐阜に封じ、新しく城を築かせました。

 廃止した岐阜城にかわり美濃平野の抑えとして縄張は家康自身が行い、近隣の大名を動員した・・いわゆる天下普請で3年がかりの工事でした。

 本丸は方形で、二之丸、三之丸、大藪曲輪などがありました。城の大手門は北側にあり、中山道に面しいます。本丸には天守台がありましたが天守は建てられず、代わりに二之丸に岐阜城天守を移して御三階櫓といわれました。

遺  構 石垣、土塁、堀跡など。
 





 上と左の写真は本丸を囲んでいる石垣です。

 廃城となった岐阜城に代わり加納城一帯は城下町として、また東海道に並ぶ主要街道である中山道の加納宿として栄えました。

 











 奥平家の後 何代か城主は代わりましたが加納藩は明治維新まで存続したのち廃城となりました。跡地は学校用地となったり、陸軍の司令部、自衛隊の駐屯地となった後に加納公園となり、現在に至っています。









加納城の概略図
下の図をクリックしてください。別のウィンドウに大きい図が表示されます。



加納公園 広い本丸跡が公園になっているのですが、これといった城らしいものは何もなく、上の写真のように芝生の広場になっています。

 公園がある北側には今も加納二之丸、加納西丸町、加納大手町などの町名が残っています。




崩れかかっている石垣 このページの一番上と二番目の写真のように本丸外周の石垣はどうにか形をとどめていますが、本丸内周の石垣は下、右の写真のようにあちこちで崩落が進み雑草も生い茂っています。





 崩落のひどい部分には杭が打たれねじれた黄色と黒のロープが張られていました。危険なですから入らないでくださいとか、崩れる恐れがありますから立ち入らないで・・という看板が立てられ注意を促しています。

 この加納城址は国の史跡に指定されているのですが、管理者には史跡として保存していく意志があるのか疑われます。


大手門跡 本丸から北へ500−600メートルのところにある大手町交差点の歩道橋橋の橋脚脇に右の写真のように大手門跡の大きな石碑が建てられています。

 本丸跡からの距離から見て城郭全体はかなり広かったことがわかります。

 この石碑を捜すのには苦労しました。交差点から少し離れて登城者を迎える形で北向きに立てられるており、歩道橋の陰になっていることもあって意識して捜してもちょっと分からない立て方です。


写真はいずれも2012年6月6日撮影。
2012年6月10日記す。
2002年9月22日追加、更新。