高知城 =その1=

所 在 地 高知県高知市丸の内1丁目2−1
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築  城 高知城の始まりは南北朝時代に築かれた大高坂山城とされます。戦国時代に入り土佐を平定した長宗我部元親が天正16年(1588年)に大高坂山城を修復し本拠としましたが3年後に浦戸城に移りました。
 慶長6年(1601年)、関ヶ原合戦の功により、遠州掛川6万石の山内一豊が土佐20万石を与えられ初代土佐藩主となりました。一豊は長宗我部氏の浦戸城に入城しますが城下町を開くには狭いため廃城となっていた大高坂山に新しく城を築きます。2年後には本丸、二の丸が完成し浦戸から移りました。


 大高坂山は浦戸湾にも面し、南側には鏡川、北側には江の口川という2つの川が流れ、地の利がありました。その一方、周辺は湿原が広がっており治水工事には大変苦労したようです。

 2つの川に挟まれているため河中(こうち)と名付けられましたが、2代忠義の時に高智に改名され、これが現在の高知となりました。山内氏は以降、明治維新まで16代続きます。

 享保12年(1727年)、火事で天守をはじめ、ほとんどの建物が焼失しましたが、26年もの歳月をかけて再興されました。それが今に残る高知城(右の写真)で、天守こそやや小ぶりになりましたが外観は築城当時のものに似せて再建された悌郭式平山城です。明治の廃城令で現存する本丸の建物以外は取り壊されました。

別  名 鷹城

遺  構 天守は独立式望楼型、4重6階です。追手と搦手の二つの門、本丸御殿、納戸蔵、東西の両多聞、追手の廊下門、搦手の黒鉄門、それらを連ねている矢狭間塀などが残っています。

高知城の概略図と登城ルート
下の図をクリックしてください。別のタブ・ウィンドウに大きい図が表示されます。






 外略図にある赤線のように登城し天守に登りました。
 以下の説明は タブでウィンドウをこのページと概略図とを切り換えながらご覧頂く と分かりやすいでしょう。



詰  門 右の写真は本丸と二の丸を繋ぐ詰門(概略図 画面中央やや右)で、画面の右が二の丸、左が本丸です。

 1階の入り口、出口の扉は筋違いになっており敵が容易に進入できないようになっていました。2階は築城当時は橋廊下ともいわれ家老たちの詰め所に使われていました。

二の丸 右の写真の画面右端の石垣が二の丸で、右折して石垣に沿うように進み、さらに左折しますと石垣の上の二の丸に出ます。

 二の丸(概略図 画面中央やや右上)に出たところが下の写真です。画面中央に天守、右端に詰門への入り口が見られます。









渡り廊下 二の丸から詰門の2階を通って本丸に向かいます。詰門は下の写真のように二の丸と本丸を結ぶ渡り廊下でもあります。生け花が展示されていたためか写真のように手すりが設けられていました。生け花の後ろが部屋になっています。

 廊下を抜け本丸に入るところには廊下門、それを潜ると本丸です。廊下門の左右には東多聞と西多聞などが連なり、さらに搦手門の黒鉄(くろがね)門などに続きます。










本  丸 本丸に入ると下の写真のように天守(概略図 画面の中央のやや左上)が聳え、隣接して御殿があります。

 この城の天守には天守台がありません。本丸上に直に礎石を敷き、そこに天守が建てられていました。他ではあまり見られない形です。










 本丸内にある御殿(概略図 画面の中央のやや左上)は懐徳館といわれています。築城当初、二の丸御殿ができるまでは初代藩主山内一豊と内助の功−−名馬を買って夫の出世の糸口を作ったことで知られる奥方千代・見性院が暮していました。





御  殿 左の写真が御殿内部で、正殿上段の間、溜の門、納戸、玄関などがあります。よく保存されていて当時の大名生活の一端が分かります。

 この城では、本丸のほかにも二の丸(概略図 画面の中央のやや右上)に藩主の暮らす御殿があり、三の丸には(同)年中行事や儀式を行っていた御殿もありました。現在も残っているのは二の丸御殿だけです。


写真はいずれも2012年4月9日撮影。
2012年4月19日記す。
2012年11月5日追加、更新。
2013年1月4日一部修正。


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