築 城 熊本には文明年間(1469−1487年)に築かれた千葉城、ついで隈本城がありましたが、天正19年(1591年)加藤清正が千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に新城を築き始めました。
7年掛かりで完成した城は連結式望楼型三重六階の大天守、小天守(右の写真)はじめ数多くの櫓、城門などを持つ堂々たる構えで、周囲5.3キロメートル、広さ約98万平方メートルもありした。落成を機会に名前が隈本から今のように熊本と改められました。
熊本城は大天守はじめ天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な造りで、漆喰壁に柿渋塗りの下見板張りがあり、黒い外観が特徴です。
清正は優れた築城家でもあり、右の天守の写真の石垣にも見られるように「武者返し」と呼ばれる美しい曲線を描く石垣が随所にあり、自然の地形を巧みに利用した独特の築城技術を用いた城となっています。
肥後52万石の領主加藤家は2代で改易となり、その後に入ったのは豊前小倉城主だった細川忠利です。以降、明治の廃藩置県まで細川家が領主を務めましたた。

遺 構 明治期まで城郭は残っていたのですが、西南戦争の直前に原因不明の火災で天守、御殿などが焼失してしまいました。また、その後に取り壊されたものもあります。
しかし現在でも、宇土櫓(右の写真)をはじめ幾つかの櫓群、門、塀などが残り、堀、石垣なども原形をとどめて残っています。
熊本城には大・小天守の他に五階櫓といわれる大きな櫓が合わせて6基もありました。この中で往時のものが残っているのは宇土櫓だけです。宇土櫓は第三の天守ともいわれ三重五階地下一階です。熊本城では最大の櫓で、他の城郭なら天守に匹敵する規模があります。
焼失していた大天守、小天守は昭和35年(1960年)にコンクリート建てで外観復元されました。平成20年(2008年)には本丸御殿が完成、今も築城当時の姿を目指して幾つかの復元工事が進んでいます。
案 内 図 下の図をクリックしてください。別の窓で大きく表示されますので天守、櫓、御殿、堀などの位置が確認できます。

旅行会社のパックツアーで訪れましたので時間的な制約があり、広い城郭内で全ての建造物を見て回ることは困難です。
熊本市の観光案内にあった熊本城1時間コースを基準に幾らかの枝道を付け加え写真の撮影によい場所なども選びながら見て回りました。
西大手門から入城 二の丸駐車場でバスをを降り西大手門(下の写真)から入城しました。

西大手門の左右には長い堀が設けられていました。その堀に沿って石垣が築かれ、その上に長い塀が設けられています。
門の左の方の堀は下左の写真のように水があります。石垣は土盛りの上に築かれたような形のため水は石垣の下にまでは達していないのがちょっと変わっています。築城当時の形かどうかは分かりません。
石垣の上には西出丸を防備する長い長い塀があり、写真では小さくてちょっと見にくいですが、その塀の先に戌亥櫓が建っています。木造二重三階の隅櫓で、平成15年に復元されました。
一方、門の右の方の堀には下右の写真のように水が見られません。かつてはあったのでしょうか。奉行丸を固める石垣、塀の先には未申櫓が聳えています。木造二重三階の隅櫓で、戌亥櫓と同じく平成15年に復元されました。


上左の写真で遠くに見える戌亥櫓に望遠レンズで近寄ってみると、右のようになりました。
写真に見られる塀の内側−西出丸の戌亥(北西)の方向にある隅櫓(すみやぐら)です。
天守に向かう正面入口・頬当御門

鎧武者が観光客を迎えてくれる天守への正面玄関が頬当御門(左の写真)です。
私たちが入城した際は休憩時間だったのでしょうか残念ながら鎧武者は立っていませんでした。
闇御門を通って本丸へ 本丸へは最近完成した本丸御殿の地下にある闇(くらがり)御門を通っていくことになります。

清正が築城した際から、このような変わった構造になっていました。
もともとは石垣に挟まれた通路(右の写真)が本丸を二分する形で通っていました。その上に御殿が建てられたというわけです。
写真の正面・石垣の上に建っているのが本丸御殿の一部です。

右の写真の正面の石垣に沿って左に曲がり、突き当たりの右側が闇御門の入り口になります。
左の写真が闇御門の地下通路です。天井の上が御殿の大広間になるそうです。地下通路から御殿に上がる階段もあります。

地下通路を抜けて本丸広場に出たところから見た天守(右の写真)です。
銀杏城のいわれの木

左の写真は熊本城が別名・銀杏城といわれるようになった清正手植えの銀杏です。
逆光のために写りがよくありません。
右上の写真の画面左端にも枝の一部が写っています。
清正はこの銀杏を植えたときに「天守の高さほどに成長したときに兵乱が起こるだろう」とつぶやいたとの言い伝えがあります。
その言い伝えを裏付けるように明治初めに西南戦争が起こりました。そのとき銀杏はちょうど天守の高さほどだったといいます。
西南戦争で銀杏は城とともに焼けたのですが、後に息を吹き返し現在の高さにまで成長しました。
復元された櫓の数々

頬当御門を入って直ぐの平左衛門丸の南端には数奇屋丸二階大広間(左の写真)があります。
平成元年(1989年)に復元されました。中に入れるのですが、時間がなくて外観のみ写真に撮りました。

右の写真は長局櫓(ながつぼねやぐら)です。
本丸御殿大広間の隣(東側)にあり、外観だけの復元で無料休憩所として使われています。

左の写真は南大手門です。頬当御門から西出丸に入り天守に向かう際に右側に見られます。
この写真は出丸側−−内側から見たものですが、平面的に見ると二つの大手門は食い違いの平行に並んだ形で設けられています。
熊本城には3つの大手門がありますが一番大きい門だそうです。平成14年に木造で再建されました。

公園となっている二の丸広場
二の丸は西出丸、奉行丸の西側にあります。観光客が天守に向かうときに利用する大駐車場は二の丸の一隅にありますが、ごく一部で、大部分は公園で広場になっています。
この二の丸(右の写真)は家老など重臣、側近の屋敷がありました。この外側にはさらに広大な三の丸があります。
明治期の鎮台を母体に太平洋戦争終了まで陸軍第6師団が二の丸に置かれていました。
右の写真の画面中央よりやや右の樹間に戌亥櫓が見られます。櫓に続く長い塀、石垣が画面の右の方に延びています。
写真はいずれも2009年2月7日撮影。
2009年2月11日記す。
2009年3月27日追加更新。
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