永山城



所 在 地 大分県日田市丸山町月隈山
  (上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)

別  名 丸山城
築  城 慶長6年(1601年)に小川壱岐守光氏が現在の市街地の北にある小高い月隈山に築いたのが始まりで丸山城と称しました。

 元和2年(1616年)に譜代大名石川主殿守忠総が美濃大垣城から移封され、丸山城を改築し永山城と改めました。また城下町も豆田町と名を改めています。

 このあと幕府直轄地となり日田代官が置かれ、麓に陣屋が設けられたため廃城となりました。

 陣屋は江戸中期に西国郡代所となり九州一円を統括する政治、経済、文化の中心となり明治期まで続きました。

遺  構 堀、石垣、縄張など




現  状 山頂に本丸、中腹に二の丸、麓に三の丸が設けられていました。いまも山頂に上る道が整備されており、石垣なども残っています。

 現在は公園として整備されており、丘の南側に上の写真のように水を湛えた堀が残っています。

 また三の丸の一部、堀の西側部分に面するところには隣接する大分県立日田林工高の校舎の一部も建っています。

 右の写真は古い町並の残る豆田町脇を流れる花月川に架かる一新橋の上から見た月隈山です。この山・・・というより小さい丘全体が永山城でした。








堀・石垣・三の丸跡 左の写真は月隈公園入口にあった案内板ですが、城址の説明は別に小さい立て札があるだけで案内の大半は江戸時代の古い町並みが残る豆田地区のこと、代官・郡代のことでした。

 写真からもお分かりのように地図には城址との説明もなく、ただ単に月隈公園とあるのはちょっと寂しい気がします。

 図の中で「月隈公園」と書かれているところが三の丸跡です。濃い緑色のところが小山になっていて頂上付近に本丸がありました。






 城址南側の堀は上の図からも見られるように大手の通路によって東西に二分されています。橋ではなく石垣、石畳で固められた土盛りの通路です。往時の形を残したものかどうかは分かりません。

 東側はこのページの一番上の写真のように満々と水が湛えられていて石垣と塀の内側は三の丸跡で広場になっていました。

 西側は右の写真のように葦らしい枯れ草が一面にあり水面が見られませんでした。石垣の上に見える建物は県立高校の校舎です。三の丸の跡地に建っています。








本丸への通路 上の写真の石畳の通路を右に進みますと直ぐ左に曲がり、また右に折れて・・じぐざぐを繰り返して頂上の本丸にたどり着きます。

 左の写真はその途中の写真です。撮影位置の背後はやや広くなっており、周辺一帯が二の丸広場ではないかと思います。

 パックツアーの途中での訪城ですから時間に余裕がなく数分歩いただけで引き返さなければなりませんでした。

 頂上近くには天守跡と見られる石垣があるそうですが残念ながら見ることは出来ませんでした。



埋め立てられた堀跡 城址の東側には埋め立てられてこそいますが、右の写真のようにはっきり堀跡と分かる箇所がかなりの距離に渡って残っていました。今は何かの花畑、あるいは湿田のようになっています。

 撮影位置の背後はアスファルトで固められた広場になっていて日田市の名物・雛祭りが行われる際の観光バス用の駐車場になっています。ここもかつての堀跡です。

城下町の風情を残す豆田町 城址のある月隈公園から歩いて数分のところに下の写真のような江戸時代の面影を残す古い町並みの残る豆田町があります。








 創業100年とか150年とかの菓子舗、レトロな飲食店、女性に喜ばれそうな土産物店が並んでいました。道路脇にあった電柱は全て取り払われています。

 毎年春、雛祭りの前後には道路沿いの各戸が道路に面した部屋や玄関に雛壇を飾り、通行人や観光客を楽しませてくれます。


写真はいずれも2009年2月6日撮影、
2009年2月14日記す。
2009年5月3日追加・更新。