
築 城 室町時代、小浜は若狭守護の武田氏が治め山城を築いていました。武田氏が織田信長に滅ぼされたあと領主は何人か代わりますが、関ヶ原の合戦で功のあった京極高次が入封、慶長6年(1601年)手狭で不便な山城を廃し小浜湾に臨む雲浜の地に水城を築き始めました。
雲浜は小浜湾に流れ込む北川と南川に挟まれた中州で、西側は直接海に面している要害の地でした。こうした地形から工事ははかどらず京極氏の後に大老の酒井忠勝が入封して築城を継続し、寛永15年(1638年)江戸城の富士見櫓を模した三層の天守が完成しました。
城郭と城下町が完成するにはさらに数年を要しました。以降、酒井氏は15代、260年間、明治維新まで居城しました。
左の写真は三層の天守が聳えていた天守台です。
別 名 雲浜城(うんぴんじょう)
遺 構 石垣、天守台など。明治初年、一時小浜県庁となりましたが、この城に大阪鎮台第一分営を設置する工事中に出火し、城の大部分が焼失してしまいました。
天守は焼け残りましたが明治7年(1874年)に解体され、現在では、河川改修、宅地化などのために城跡が削られて、天守台を含む本丸の一部が小浜神社の境内として残るだけになりました。

小浜神社 左の写真は城跡への入り口で、鳥居をくぐって本丸跡に入ることになります。
本丸跡の7割ほどが残っていて、その全体がは藩祖酒井忠勝を祭る小浜神社の境内になっています。
鳥居をくぐって本殿前で左に向かいますといかにも境内らしく大きな木が茂っており、その向こうに天守台が見られました。

右の写真は鳥居をくぐって入った直ぐのところにあった城郭図です。
この図によると内堀に囲まれた本丸の周囲に御殿のあった二の丸、さらに三の丸、北の丸、西の丸、要所には櫓が聳え、その外側には北川、南川という天然の外堀があるという要害堅固、小ぶりながら堂々たる構えです。
水堀は河川改修、宅地化で埋め立てられてしまい全く残っていないので水城の面影がないのは残念です。

石 垣 堀は埋め立てられてなくなったのですが、天守台、それに本丸の南北と西側の石垣は原形をよくとどめて残っています。
右の写真は本丸西側の石垣と、それに続く一段高い石垣は本丸西南角にある天守台のものです。
この写真の撮影位置の左側に本丸西側に設けられていた虎口の一部が残っていました。

左の写真は天守台の上から見た右上の写真と同じ石垣です。虎口の一部が見られます。宅地化が進み直ぐ近くに住宅の建っている現状がよく分かります。

宅地が進んだ状況は本丸南側も同じです。右の写真は天守台の上から撮影したものですが、石垣の直ぐ下にまで家が迫っています。
境内にあった城郭図付きの「ごあんない」という説明には、これらの石垣について「慶長積みが特色」との記述かありました。慶長積みというのは初めて見た言葉でしたのでネットで調べてみたのですが全然分かりませんでした。
慶長年間の築造ですから慶長積みといったのでしょうか。ともあれ石垣そのものは野面積みに打ち込みはぎを併用した一般的なものですが、なかなかに立派なものでした。
本 丸 下の写真は天守台の上から見た本丸跡です。

大きな樹が茂っていて本丸跡の全容は見難いのですが、小ぶりながらそれ相応の広さはありました。遺構らしいものは何もありません。
城郭図付きの「ごあんない」には本丸の広さが10,329平方メートルとありました。ところが天守台にあった小浜市の城跡についての立て札には10,347平方メートルとあります。どちらが正しいのでしょうか。正確に記してもらいたいものです。
写真はいずれも2010年5月16日撮影、
2010年5月25日記す。
2010年7月29日追加、更新。