
所 在 地 滋賀県東浅井郡湖北町伊部
(上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)
築 城 湖北といわれる滋賀県北部を支配した浅井家三代の居城で、大永4年(1524年)浅井亮政が築いた山城です。
3代目の長政のとき織田信長に攻められ炎上、長政は自刃して浅井家は滅亡しました。
長政に嫁いでいた信長の妹・お市は炎上する城を後に幼い茶々(のちの淀君)ら3人の子供を連れて城を落ちた・・という悲劇の城として知られています。
左の写真は史跡に指定されている小谷城址を少し離れたところを通る国道脇から写しました。小谷城址の看板のある辺りが城の入り口に当たる番所跡、その左の方へ尾根伝いに郭があります。
遺 構 郭跡、石垣、土累、空堀など。
彦根城に今も残る小谷城天守 小谷城が落城した後、攻略の殊勲者・秀吉が12万石相当の小谷城をもらったのですが、2年半後には長浜に移り、小谷城を解体して長浜城を築きました。
その後、長浜城は廃城となり、彦根城西の丸の三重隅櫓として移築されました。彦根城には「元小谷城天守」との説明板があります。
城址への入り口 国道からそれて城址を目指しますと山麓に駐車場、案内図があります。
駐車場近くから城址に至る大手道があります。現在は駐車場から車の通れる舗装した道路が通っています。この駐車場脇には出丸跡のあることが案内図から分かりますが、木が茂っていて確認できませんでした。城の中核からはだいぶ離れていて見張り所的なものだったとようです。

駐車場からさらに上へ少し車を進めますとちょっと狭いですが第2の駐車場があります。この先は徒歩になり、少し歩いた先に大きな案内図が立っていました。
案内図の前にボランティアのガイドさん・男女二人がいて手作りのパンフレットをもらいました。団体の方を対象にしているようで個人の案内は無理のようです。
ここからほぼまっすぐ尾根伝いに郭跡があり石垣なども点々と残っています。
案内図のすぐ手前、写真では左側に金吾丸という砦跡があり、その裾の方を大手道が通っているそうです。

番所跡 写真の番所跡は発掘調査中なのでしょうか、青いビニールシートが敷かれ、その上に落ち葉が一杯でした。
上の案内図のすぐ後ろで、城内への出入りを監視したところです。
ここは尾根の幅が一番狭くなったところで、監視には格好の場所のようです。

本丸への登り道 城内の郭は尾根伝いに頂上に向かって一列につながっていました。
現在は登りやすいようにか途中で分かれて、また一緒になるなどのコースになっています。
それでも右の写真に見られるように、こぶし大の石などがいっぱいあり岩肌もところどころ露出した登山道のようなものです。

馬洗池 名前は「馬洗池」ですが、実際は城内の生活用水の溜め池と考えられています。
年中枯れることがなく葦が茂っていたそうです。
訪れた日はお天気続きの後でしたが、少し水があり湿地帯のようになっていました。

大広間跡 城内で一番広い平坦地で、3,000平方メートルもあります。
武将が会合した屋敷があり、現在も当時の柱間(6尺3寸)の間隔できれいに礎石が並んでいます。
この大広間跡に至る直前に黒金門跡があります。左右にかなり大きな石を使った石垣がありました。ここを通って大広間、本丸に入ります。
写真の中央で一段高くなったところが本丸跡です。

本丸の石垣 本丸は左の写真のように石垣を築いて一段高くなっています。
石垣はかなり大きな石が使われています。写真のように一部は崩れたり土に埋もれたりしていました。
ガイドにもらったパンフレットによりますと、本丸のすぐ下(通路の左下)にお市と子供たちが住んでいたお局屋敷があったとのことです。
左の写真では画面左側になります。

本丸から大広間跡を見る 本丸辺りは麓から見ていると小さい山の中腹ですが、こうして本丸跡から大広間跡を見ますとかなりの広さのあることが分かります。
撮影したのが日没近くであり、画質がよくありませんが明るいときに撮影すれば礎石の様子なども分かったのではないかと思います。
この本丸跡から北側を見ますと、大堀切という空堀があるそうです。
深さ10メートル、幅15メートル、長さ40メートルに渡って残っているとのことです。残念ながら見落としました。
この本丸からさらに頂上に向かって中丸、京極丸、小丸、山王丸があったそうです。
山王丸に行く途中で少し左側に入ると城址内では最大の石垣があるそうですが、帰途を急いだために見られませんでした。
長政自刃の赤尾屋敷跡 番所跡から本丸跡へのちょうど中間あたりまで登ってくると、下の写真のような赤尾屋敷への案内板があります。

案内の標識から右に100メートルほど入ったところが赤尾美作守清綱の屋敷跡です。
織田軍の攻略で長政自身も最後には本丸を出て戦うのですが、本丸の上から秀吉勢に攻められ引き返せなくなったので赤尾屋敷に入り自刃しました。
秀吉が一時城主に 落城ののち秀吉が小谷城主となり、秀吉は初めて城持ちとなりました。しかし2年半後には長浜に移り、小谷城は解体され廃城となりました。
写真はいずれも2006年11月3日撮影。
2006年11月18日記す。
2006年12月28日追加、更新。
