
所 在 地 滋賀県大津市下阪本3丁目
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写真は琵琶湖の湖岸にある坂本城二の丸跡に隣接する公園で、ここには遺構は何もありません。明智光秀の大きな石像が立っていました。
公園にあった説明の看板によると、公園の北方、約300メートルのあたりが二の丸のようです。現在は会社の研修所が建っていて城址としての面影もありません。
国道を挟んで西北約300メートルのところに下の写真のような城址の石碑が建っています。
写真の正面、突き当りが東南寺で、このあたりが本丸跡といわれます。

築 城 織田信長配下の明智光秀は、比叡山焼き打ち直後の元亀2年(1571年)、下阪本の湖岸に水城を築きました。
比叡山の麓の坂本は古代より比叡山の門前町として栄えたところで、叡山に対する押さえ、さらには北国へのにらみなどを考え築城させたとみられます。
坂本の南には穴太(あのう)という地名がありますが、ここには穴太積みで知られる「穴太衆」と呼ばれる石工集団が住んでいましたから、この掌握も兼ねていたのでしょう。
城は大天守、小天守が連立しており、宣教師ルイス・フロイスによると豪壮華麗で安土城に次ぐ名城とのことです。光秀はここを本拠に約10年間に渡って活躍しました。
天正10年(1582年)本能寺の変後、光秀は坂本城に落ち延びる途中で土民に殺されます。城を守っていた娘婿の明智秀満は秀吉方の堀秀政軍に攻められ、天守に火を放って自刃しました。
焼失後、丹羽長秀が再建しましたが浅野長政のときにこの城の資材を使って大津城ガ築かれ坂本城は廃城となりました。

遺 構 遺構としては石垣くらいで何も残っていません。
光秀の石像がある公園に石垣が少しありますが、往時のものかどうか説明書きなどがなく分かりません。平成6年夏、200年に一度という琵琶湖の異常渇水があり湖底から城址の巨大な石垣が露出しましたが今は水中です。
城址から数キロ北西にある全国の山王さんの総本宮・日吉大社から少し北に行った所に天台宗三派の一つ西教寺の総本山があります。右の写真にあるこの寺の表門は坂本城から移築されたものといわれます。
昭和59年(1984年)老朽化進んだため全面的な改修が行われましたので新築のように見えます。説明の立て札にはそれまでどおりに復元したと記されていました。

この西教寺には左の写真のように光秀と一族の墓があります。
光秀は領主時代に細川ガラシャの名で知られる娘のお玉らとともに参拝のためによく訪れたとのことです。

また城址から数百メートル北に行った所には聖衆来迎寺があります。
右の写真にあるこの寺の表門も坂本城から移築されたものです。
写真はいずれも2008年11月7日撮影。
2008年11月9日記す。
