篠山城  =その1=



所 在 地 兵庫県篠山市北新町2―3
  (上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)

別  名 桐ヶ城

築  城 1609年(慶長14年)徳川家康は、松平康重(家康の実子という説もあります)を丹波国八上城に移し、新城の築城を命じましたた。

 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで勝利を収めたあと西国の豊臣方の大名に対する抑えとしての要衝に城を築くわけで、藤堂高虎が縄張を担当、普請総奉行を池田輝政が務めた天下普請の城です。

 篠山盆地中心部の丘陵である笹山が築城地に選ばれ、人夫約8万人が動員され、約10ヵ月間の短期間で完成しました。康重は初代の篠山城主として入城し、八上城は廃城となり篠山城が丹波国支配の中心となりました。

 明治維新後、城郭の遺構はほとんどが取り壊されましたが、大書院だけが取り壊しから免れました。しかし、これも1944年(昭和19年)失火により焼失しています。




 上の写真は大書院、二の丸跡へ入る鉄門(くろがねもん)跡で、三の丸から二の丸へと見応えのある石垣が続いていました。この冠木門は模擬で、本来は門扉のある櫓門がありました。

縄  張 篠山城を中心にした地図、航空写真 (このページの一番上の地名をクリックして下さい) を見て頂くとよく分かりますが、この城郭は二重の堀に囲まれたほぼ正方形をしています。

 資料館にある「ありし日の篠山城」(右の写真)という図面にも、その形がよく表わされています。図の上側が南、下が北です。

 この城は南、北と東側に馬出しがあり、大手門の北側のものは埋め立てられて公園、観光客用の駐車場になっていますが、東と南側のものは原形をとどめてよく残っています。




遺  構 本丸跡、二の丸跡、高石垣、内堀、外堀、馬出などが残っていて、国の史跡に指定されています。

 現在、城周辺の整備が進められており、2000年(平成12年)には左の写真のように大書院が復元され一般公開されています。写真は二の丸御殿跡、庭園跡越しに撮影したものです。

 大書院 については、この項の最終ページ = その3 = でいろいろな写真とともに紹介します。







二の丸御殿跡・庭園跡 上の写真に見られる広い芝生の空間が二の丸御殿跡、庭園跡です。

 画面左には井戸と井戸屋形が見られます。これを含め城内には三つの井戸があり、今もそのまま残っています。

 御殿跡には右の写真のように間取りの説明図や間取り通りに舗装をし白線で区切った実寸大の間取りが作られていました。


本丸・天守台 二の丸の南東角には下の写真のように石垣を築き一段高くなった本丸があり、その本丸の東南角に天守台がありました。



 本丸に鳥居があるのは江戸時代の後半から明治まで6代にわたって城主を勤め老中も出した青山家を祭る神社があるからです。














 右の写真が天守台です。築造当時には建造の意志があったのかもしれませんが、この天守台には一度も天守は作られませんでした。





 左の写真は天守台から見た本丸です。かなりの広さがあり大きな木が茂っています。

 本丸の各隅には天守台を除く三隅に二重櫓が造られ多聞櫓で結ばれていました。












本丸から見た二の丸 本丸は大書院などの建つ二の丸の基盤よりさらに4メートルほど高く石垣で積み上げられています。

 その西側の石垣の上・・多聞櫓が建っていたという場所からから見た二の丸が右の写真です。広い二の丸の一部、南側の半分ほどしか写っていません。




埋  門 二の丸の南側石垣のほぼ中央付近に左の写真のように埋門が設けられ三の丸に出られるようになっています。

 非常の場合には土で埋めて敵の侵入に備える構造になっているとのことです。

 写真に見られる門にはかつては櫓門があり、両側の石垣の上にあった多聞櫓に連なっていました。今は簡単な冠木門があるだけです。


写真は2010年5月15日撮影。
2010年5月23日記す。
2010年7 月21 日追加、更新。


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