島原城


所 在 地 長崎県島原市城内1丁目
  (上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)

遺  構 曲輪、石垣、堀、復元天守、復元櫓 など

別  名 森岳城、高来城

築  城 元和2年(1616年)大和から島原に4万石で移封された松倉豊後守重政が元和4年(1618年)から7年余掛けて築城しました。

 松倉重政は当初、有馬氏の居城・日野江城に入城したのですが、手狭であったために島原森岳に五層の天守閣を中核にして大小の櫓を要所に配置した壮麗な城を築きました。

 この城は安土桃山期の築城様式を取り入れています。石高には不釣り合いな城で、築城のための苛酷な夫役・重税とキリシタン弾圧が重政の子勝家(重治)の時に島原の乱となりました。


 この乱の終結後、勝家は責任を問われ切腹し松倉家は断絶しました。しかし城は廃藩置県の時まで続き4氏19代の居城となっています。

 明治維新で廃城となった城ですが、昭和35年にまず「西の櫓」が、続いて39年に「天守閣」が復元されました。


本丸、天守へのメイン通路 左の写真は本丸西側の堀を渡って天守に至るメインの通路です。

 元々はこの通路はなく観光客用に造られた道路です。本丸は四方を堀で囲まれており二の丸から本丸へ廊下橋を渡って入るようになっていました。

 二の丸まで攻め込まれたときは橋を落として本丸に立て籠もるという要害堅固な利点がある半面、袋のネズミになるという欠点もあります。







本丸石垣・堀 本丸は右の写真のように高い石垣、深い堀で囲まれています。

 右の写真は本丸西側の堀、石垣で、画面の奥に向かってカギ型に曲がっており、その先の右側が二の丸の堀、石垣になります。

 さらにその先に三の丸があったのですが、今は小学校、高校が建っています。このページの下の方にある地図をご覧ください。



最初に復元された西櫓 太平洋戦争後、最初に復元されたのが右の写真の西の櫓です。

 上の堀と石垣の写真は本丸に入る幅の広いメインの通路から撮ったものですが、その背後、振り返ったところの角に西の櫓があります。

 島原城にはパックツアーの際に立ち寄り、大急ぎで天守などの写真を撮りました。時間がなく、この他の櫓、天守内部、天守からの眺めなどの写真はありません。

城と武家屋敷 お城の見学に先立って城下にある武家屋敷を訪ねました。



 左の地図(画面の右が北になります)で分かるように歩いて城と武家屋敷は10分ほどのところです。

 築城の時に計画的に造られた鉄砲隊士の屋敷が並んでいるところです。その名も鉄砲町で、昔のままの屋敷が今も残っています。










現存する武家屋敷 右の写真が現存する武家屋敷の1つ・山本邸で、写真は隣接する無料休憩場から撮った全景です。左側が玄関、右が裏庭になります。

 藁葺き、一部瓦葺きで建坪は90坪です。鉄砲町の屋敷はすべて同じ建坪で、扶持も山本家が17石だったのを初めほぼ同じようなものです。




武家屋敷のある鉄砲町 左の写真が町並みです。石積みの塀が続き、道路の中央を水路が走っています。

 島原はきれいな湧き水が豊富です。鉄砲町の水路も2キロほど離れたところから引いた湧き水で、生活用水に使われていました。

 この町並みの一角には初代藩主が造らせた時鐘楼が復元されており西虎口門跡、桜門跡もあります。

写真はいずれも2007年12月7日撮影。
2007年12月24日記す。   
2008年3月9日追加更新。