首里城
=その1=
所 在 地
沖縄県那覇市首里当蔵町
(上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)
築 城
沖縄は12世紀ころ中国や日本本土、東南アジアとの貿易で富を蓄えた小豪族が群雄割拠していましたが、やがて北山、中山、南山といわれる3つの小国家・・といっても本土の小藩程度のものとなります。1350年(正平5年)ころ中山王が首里城を築きましたが、当時は支城の1つであったようです。
1429年(永享元年)、中山王・尚巴志が3つの小国家・三山を統一して琉球王国が成立、首里城が王城となりました。
那覇市街、東北の標高約130メートルの小高い丘に築城されています。
右の写真は主郭の正殿・・本土の城でいえば本丸にある天守兼御殿に相当します。
1992年(平成4年)本土復帰20周年記念として復元されました。
全体図
首里城はこれまでに4度全焼しては再建されています。失火、内乱による戦火などですが、4度目は太平洋戦争の沖縄戦で米軍による艦砲射撃、爆撃でした。
首里城の地下に日本軍の司令部が設けられていたために徹底的に破壊されてしまったわけです。
戦後ぼつぼつと復旧されていましたが、正殿はじめ幾多の建造物が次々と再建され、城壁なども復元されました。
左の写真が復元後の全体像です。曲線を描く城壁が本土の石垣と趣が違いますが、その城壁の中にある多くの建物も赤瓦で中国的な感じがします。今も発掘調査が続いており、復旧の工事も進んでいます。
遺 構
石垣、石門などが一部残っていただけです。復元された城門・正殿・南殿・北殿などがあります。
建物として残っているものはありません。ただ1つ、石造物として原形をよくとどめていて世界遺産にも登録されている園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)があります。
左の写真が園比屋武御嶽石門です。守礼門と歓会門の中間、左側にあります。
第二尚氏3代の尚真王の時代(1519年ころ)に築かれた門です。国王が外出する際に道中の安泰を祈願し、また琉球王朝の祭祀を執り行った城内で最も重要な聖地でした。
守礼門
城を見学するには二千円札の図案にも使われていて、よく知られている守礼門から首里城公園内の無料地区に入り、正殿などがある有料地区に行くコースをたどります。
右の写真が守礼門です。パックツアーに参加しての城訪問であり観光客もいっぱいで、城本来の姿を写真に撮るのが難しく観光客を含めての写真になりました。
この門は尚清(しょうせい)王時代の1527−1555年に創建されたといわれています。戦後いち早く米国統治時代の昭和33年(1958年)に復元されました。
中国建築と日本様式の影響が見られ2層の屋根は赤瓦葺きです。2階中央に「琉球は礼節を重んじる国である」という意味の額が掲げられています。
4つの門をくぐって主郭へ
守礼門をくぐって直ぐに最初の城門・歓会門があり、続いて瑞泉門、漏刻門、広福門となります。
上左は 歓会門 上右は 瑞泉門
上左は 漏刻門 上右は 広福門
歓会門は訪れる人を歓迎する意味で名付けられています。歓会門をくぐると緩やかな上り坂となり瑞泉門、漏刻門となります。両側には城壁がそびえ門の前には石段もあって厳重な城門という感じがします。
守礼門を含めて、これらの門は西向きに建っています。訪れたのが午前中のため東を向いての撮影で逆光となり、あまりいい写真が撮れなかったのが残念です。
広福門は下之御庭(しちゃぬうなー)と呼ばれる広場へ入る朱塗りの門で、正殿へ通じる最後の門です。下之御庭の北側に北向きに建っていて、門の左右には役所があったのだそうです。
奉神門
下之御庭から城の中心的な広場・御庭(うなー)に通ずる朱塗りの門です。
入り口は3つあり、中央の門は国王や身分の高い人だけが通るところで、左右は家来などが使います。
入り口の左右は役所になっていて向かって左側には煙草、薬草などを管理する部門が入っていたそうです。
この門から中が有料地区になります。
正 殿
右の写真は奉神門をくぐったところ、門の直下から正殿を見たところです。
一見して中国風の建築と見えますが、細部の意匠や中央にある唐破風などは日本の影響を受けています。
正殿は西向きに建てられており逆光のために暗部のつぶれた写真になりました。
この写真では詳細は分かりにくいかもしれません。
=その2=
の写真をご覧下さい。
写真はいずれも2006年4月8日撮影。
2006年4月9日記す。
2006年4月24日追加更新。
首里城 =その2=
に続く。