
別 名 鮫ヶ城、関城、螺城、高陽城
築 城 慶長19年(1614年)
越後を治めていた堀忠俊がお家取りつぶしになったあと徳川家康の六男・松平忠輝が信濃国川中島から入封しました。忠輝は入封3年後の慶長18年に入城した福島城(上越市港町)に代わる新城を計画、翌19年に当時菩提ヶ原といわれた現在地に着工しました。
徳川・豊臣の争い激化する中のことであり、忠輝の着工というよりは徳川幕府の天下普請であり、伊達政宗を総裁に前田利常、上杉景勝、蒲生氏郷ら13の大藩が工事にあたり、わずか4カ月で完成しました。
とはいっても完成したのは大まかな城郭、内部の一部のみで、実際に完成したのは50年後、松平光長の時代といわれます。当初二重の櫓であったものも現在見られるような三重櫓に建て直されました。

特 徴 関川など3つの川を付け替えなるなどする大工事でしたが、他の城と違って天守閣はなく、石垣も築かれませんでした。代わって一番高い西南の三重櫓が城のシンボルとなっています。
また延長約1キロにも達する土塁が城を囲んでいます。幅の広い外堀を含めると総面積は約60ヘクタールにも達する堂々たる城で、上の写真のように幅の広い堀に囲まれ、土塁の上に建つ櫓はなかなかに風格があります。
右の写真は本丸側から三重櫓に入るところですが、かなりの石段であり、土累が結構高いものであることが分かります。
本丸御殿、櫓などは幾度かの地震、火災に遭い、その度に復興されました。明治3年(1870年)に全焼したあとは再建されなかったのですが、平成5年に上越市発足20周年記念として三重櫓は史実に基づき内外とも木質構造で復元再建されました。
遺 構 堀、土塁など

案 内 所 3重櫓に登る石段の近くには写真のような立派な案内所兼売店があります。
城内の長屋式の建物風に造られていました。売店にはお決まりのお城グッズなどがあり、城の解説書、歴史書などもあります。

内堀・極楽橋 右の写真は本丸の南側にある内堀で、木造の橋は極楽橋です。
この橋を左に渡ったところに大手枡形跡があり、そこを左に回ると三重櫓に行きます。
極楽橋は当初の築城の際に二の丸から本丸に渡る橋として造られましたが、明治時代に廃城のあと陸軍が師団司令部を設置し橋の代わりに埋め立てて渡れるようにしました。
平成14年に発掘調査に基づいて元の位置に木造の橋が昔どおり復元されました。長さ38.4メートル、幅5.46メートル、ヒバ造りです。
内掘の幅は38−58メートルもあり、水深は2−7メートルということです。外堀はさらに幅の広いところがあります。


写真はいずれも2003年6月24日撮影。
2003年7月5日記す。
2003年11月29日追加、更新。
高田城 =その2= に続く。