
所 在 地 三重県度会郡玉城町田丸
(上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)
別 名 玉丸城
遺 構 曲輪、天守台、石垣、長屋門、三の丸御殿の一部・奥書院など。
右の写真は本丸虎口です。手前にあるゲートは三の丸跡にある中学校のもので、城址のゲートのように見えますが城址とは関係ありません。す。
城址の石垣を広範囲に写すため学校の敷地内から撮影したのでゲートまで写りました。城址は公園になっていますから自由に入れます。
築 城 南北朝動乱期の延元元年(1336年)後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が玉丸山に砦を築き南朝方の拠点としたのが始まりとされています。
室町末期には伊勢の国司となった北畠家は同県一志郡美杉村の多気に館を構えますが、田丸城は支城として伊勢志摩支配の拠点になりました。
室町末期には織田信長の次男信雄が北畠家の養継嗣となり入城しています。信雄は城を大修築し、本丸、二の丸、北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を築きましたが、5年後に焼失しています。
その後、城主は転々と替わり、藤堂藩の支配を経て和歌山領となり明治を迎えます。焼失した天守などは田丸直息、稲葉重通の両城主のころに再建されているようです。

現在残っている城址は信雄時代のものです。
明治の廃藩置県の際に建物などは取り壊されたり払い下げられたりししましたが、縄張りはよく保存されています。
左の写真は、上の写真の左側にある虎口(通路)を入っていったところで写したものです。正面の一番奥、一段と高くなったところが天守台です。
右側にある大きな木の辺りに門の跡との標識がありました。
そこを通って突き当たりの石垣に沿って右に回り、さらに左に曲がると本丸跡になります。

野面積みの本丸石垣 右の写真が本丸東側を守っている石垣です。
本丸虎口を入ってくると写真左側から緩やかに坂を上ってきて低い石垣に突き当たることになります。
突き当たりの低い石垣のところで右折してからUターンし子供たちのいるところを写真の奥の方に進み再び大きくUターンすると下の写真の本丸跡に入ります。
見上げるような高い石垣、野面積みのしっかりした造りで、さすが伊勢国司の城と思わせるりっぱなものでした。

天守台 右の写真が本丸跡と天守台です。
本丸跡はかなりの広さがあり、写真に写っているのは4分1程度です。本丸跡の広さからも大きな城郭であったということが推察出来ます。
訪れた時はちょうど明日から桜祭りというので本丸跡に舞台が設けられていましたし城跡のあちこちにぼんぼりが立ち提灯が飾られライトアップ用の照明器具も設けられていました。
下の写真は天守台への入り口です。。

10数段の石段を上がると踊り場のようなところがあり天守の地下への入り口になります。

天守は3層のものだったそうですが、地下に1階あったことになります。
天守台の石垣の上から入り口方面をみたところで、地下室の全体像です。
正面の石垣が切れているところが入り口で、そこから斜め右に石段が設けられています。上左の写真とは反対から写したことになります。
その先、写真の中央の大きな木の生えている向こうまでが本丸です。さらにその先には同じ平面ある二の丸で通路で結ばれています。

二の丸 左の写真は二の丸で富士見台ともいわれます。
本丸とは地続き、空堀に隔てられていますが、やや幅のある通路で連結しています。
写真の左端からは三の丸跡に建っている中学校のグラウンドが見下ろせます。
本丸虎口から中学校に入りグラウンドに立ちますと正面に二の丸の立派な石垣が見られます。

北の丸 右の写真は北の丸です。本丸を挟んで二の丸とは反対側にあります。
ここは本丸よりはやや低い位置にあります。空堀で隔てられており、現在は大きな樹木が茂っていて天守台から見ますと森林のような感じです。
稲荷社が安置されており、北の丸跡を縦断して参道があります。参道両脇には赤い幟がずらりと並んでいてちょっと異様な感じです。
稲荷社と城とは何か関係があるのでしょうか。ちょっと興ざめです。
写真は赤い幟を避けて撮影したため跡地の半分ほどしか写っていません。
写真は2007年3月29日撮影。
2007年3月30日記す。
2007年5月13日記事、写真を追加、更新。
田丸城 =その2= に続く。
