田辺城


所 在 地 京都府舞鶴市字南田辺15―22
  (上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)

築  城  天正6年(1578年)織田信長の命で細川藤孝と明智光秀が丹後に攻め入り丹後の守護であった一色氏を滅ぼして丹後を平定しました。これにより細川藤孝は丹後一国を与えられ12万石の領主となります。

 天正7年(1579年)、藤孝は宮津城を本城として築き、同時に交通の要衝であり東西に河川があって要害の地と見られた田辺にも新城を築きます。

 田辺城は慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際、石田三成方の大軍1万5千人に攻められました。城に立て篭もったのは藤孝以下わずか数百人の兵ですが、要害の地の堅固な城であったことにも助けられ50余日も善戦しました。

 このあと嫡子忠興は関ヶ原合戦の功により豊前中津に加封され、代わって京極氏、ついで牧野氏が入り、牧野氏は明治の廃城まで10代続きました。

 城は京極氏、牧野氏が拡張、改修を続け、本丸を二の丸、三の丸、外曲輪とそれぞれが持つ堀で囲む輪郭形式の平城として整備されました。

 右の写真は復興された大手門です。

別  名 舞鶴城


遺  構 現在、本丸跡などは舞鶴公園として整備されており、天守台の一部、石垣、堀跡などが残っています。

  下右の写真は公園にあった城郭復元図ですが、図の中央にある濃い赤で記された本丸の中心部と濃いピンク色の二の丸のわずかが残っているだけです。










 上の写真の左側の櫓はは昭和15年(1940年)には復興された二層の彰古館で内部には地元の文化財の錦絵などが展示されていました。

 その右に続く門が平成4年(1997年)に復興された大手門で、2階部分は田辺城資料館となっています。




 もっとも、この大手門は本来の位置ではなく外堀のあった場所に建てられています。天守台などに比べて大きすぎ、かつての城門には程遠いのでは・・という感じがします。また彰古館も模擬隅櫓です。











天守台 上の大手門の写真に見られるように門を入ると直ぐに本丸の石垣があり、この石垣に添って右に進みますと天守台になります。左にぐるりと回りますと天守台の上に出られます。

 規模はさほど大きくはありませんが、発掘調査で天守台の石垣の外側部分には内堀のあったことが確認されています。




本丸石垣と模擬隅櫓 隅櫓に続く本丸北側の石垣は高さはさほどありませんがよく保存されており、上を二人並んで歩くことが出来るほどの幅があります。

 今では駐車場になっていますが、この石垣の下にも内堀がありました。













二の丸の石垣 左の写真は本丸に続いている東側の二の丸石垣です。

 外側には堀があったはずですが埋め立てられて、石垣そのものもわずかしか地表に出ていません。

 写真には写っていませんが、画面の右端手前から右奥に向かってJR舞鶴線が走っています。




資料館 右の写真は彰古館から見た大手門・資料館です。















城郭模型と細川幽斎像 資料館にはお決まりの城郭模型(左の写真)、そして隠居して幽斎と号した細川藤高の像(下の写真)がありました。模型を丹念に見たのですが門、櫓などの配置と現在の姿がうまく繋がりませんでした。
 

古今伝授の開城 田辺城といえば幽斉(藤孝)による関ヶ原合戦時の籠城戦、そして勅命による和議、開城が知られています。

 幽斎はぬきんでた武将であるとともに優れた文人であり、文化・芸術の第一人者でもありました。

 田辺城に篭城した際、古今和歌集の秘事口伝の継承者であった幽斉の討ち死を憂慮した後陽成天皇が勅使を送ったことにより和議が成立、包囲網が解かれ幽斎は城を出たとのことです。

舞鶴公園 下の写真は彰古館から見た舞鶴公園です。








 本丸のほとんどと二の丸の一部が公園になっていて、広いグラウンド、自由広場などがあります。写真では全容が分かりませんが、画面左の木の茂っている向こうにも広がっています。

 石垣などの遺構のほかに内堀の名残である池、古今伝授にちなむ心種園という庭園などがあり、市民の憩いの場所になっています。

写真はいずれも2010年5月16日撮影。
2010年5月25日記す。
2010年8月2日追加、更新。