
所 在 地 徳島県徳島市城ノ内
(上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)
築 城 南北朝時代、室町幕府の管領・細川頼之が小城を築いたのが徳島城の始まりです。永禄年間(1558−1569年) には山上の渭山城に森高次 麓の寺島城に福良吉武が居城していました。
四国征伐をなしとげた豊臣秀吉は軍功により阿波一国を蜂須賀小六に与えましたが高齢を理由に子の家政に譲り、家政が藩祖となりました。
その後、関ヶ原の合戦・大阪の陣で徳川方に属した家政は阿波を安堵、淡路一国も加増されて以後、蜂須賀家の居城として16代300年続き明治維新を迎えます。
家政は新しく製塩・製藍工業を起こし盛んに日本中に売り広め、また全国に知られる阿波踊りは家政時代に始まったと伝えられます。

徳島城は二城式平山城で、家政が天正13年(1585年)に山の上にあった渭山城と麓の寺島城を合わせて築いた城です。そして地名を徳島と改め、城の名も徳島城としました。
上の写真は表御殿に通ずる下乗橋 (1) で、橋を渡ったところには枡形 (2) があります。橋は元々は木造でしたが現在は石造りになっています。画面の左端、橋詰の石垣が太鼓櫓跡、右側は月見櫓跡です。
別 名 風光の美しさが中国の渭水に似ていることから渭山(いのやま)城、渭津(いのつ)城といわれました。
徳島城の案内図 右は城内にあった案内図を撮影したものです。
右の 案内図をクリック すると別のウィンドウに大きい図が表示されます。主要な建造物などには地図の上に番号入りの赤い丸 を付けてあり、解説の中にも同じ番号 を記載しています。
以下の説明は このページと大きな案内図をタブで切り換えながらご覧頂く と分かりやすいでしょう。
遺 構 徳島城跡は現在、徳島中央公園として整備され市民の憩いの場所となっていますが、建物として残っているものはなく、堀、石垣などがあるだけです。

水 堀 城の北を流れる時任川 (13) 、南西の寺島川(現在は埋め立てられてJR線= (15) )が天然の堀となっていますが、東を守るのが堀川とも呼ばれている内堀(左の写真) (2) です。
この堀は時任川と通水しており、堀には黒鯛、ボラ、ウナギなどの泳ぐ姿を見ることができるとのことです。

数寄屋橋 城の鬼門(北東)にあたる門が数寄屋門です。不明門ともいわれ凶事の際以外は開けられることのない門でした。
その門の東側で堀川に架かっていた橋が数寄屋橋 (16) です。太鼓橋だったそうです。現在は昔の姿をしのばせる木造の橋(右の写真)が掛けけられています。
枡 形 このページのトップにある堀川に架かる下乗橋 (1) を渡り城内に入りますと、すぐ枡形(下の写真)(2) になります。

左の写真に見られるように大きな枡形です。乱雑な積み方のようにみえますが、ところどころ大きな石が使われていて堅固な様相を見せています。
枡形から道なりに進みますと下の写真のように右手に徳島城博物館 (4) が見えてきます。表御殿跡に建てられており、博物館の裏が表御殿庭園 (5) になります。

城 山 徳島城は海抜62メートルの城山に築かれた山城と麓の城とが合体した城ですが、徳島城博物館を右手に見ながら進みますと右の写真のように本丸のある城山 (10) が正面に見られます。
こんもりとした森におおわれていますので本丸、二の丸などの石垣は全然見えません。

花見の宴 城跡は徳島中央公園として市民に開放されており、桜満開の時季のことですから登城路の途中のあちこちで花見の宴が真っ盛りでした。
今の宴会は気楽です。ブルーシートを敷いて場所だけ確保しておけば酒などの飲み物、つまみ、弁当などは携帯で連絡すれば簡単に宴会場所まで運んでくれるようです。
出前の人たちがせっせと差し入れに通っている姿を見かけました。あとのごみ処理が大変でしょう。

藩祖銅像 花見の宴を見下ろすように藩祖蜂須賀家政の銅像 (6) が立っています。
戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝(家祖)の銅像が立っていましたが、太平洋戦争中に金属供出で姿を消しました。このため昭和40年(1965年)に裃姿の家政の銅像が新しく立てられたのです。

本丸目指して 藩祖の銅像を過ぎるとやがて登城路は急坂となり折れ曲がった急な石段 (7) が続きます。
登城路の山側は左の写真のようにしっかりと石垣で固められていました。
両側とも樹木が密集しており視界の開けたところがありません。本丸目指す登城の途中に市街の様子などが全く見られないのは残念です。
写真はいずれも2012年4月8日撮影、
2013年7月25日記す。
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