上田城 == その1 ==



所 在 地 長野県上田市二の丸3番3号
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別  名 尼ケ淵城、伊勢崎城、真田城、松尾城

築  城 上田市の北、長野県小県郡真田町を本拠とする小土豪だった真田氏が戦国時代末に勢力を伸ばし、織田、武田の滅亡という混乱期にさらに支配地を拡大しました。

 こうした中で真田昌幸(幸村の父)が天正10年(1582年)、上田盆地の中心で千曲川支流の尼ケ淵の河岸段丘上に上田城の建築を始めました。

 城の完成間近い天正13年、徳川軍に包囲されることとなりましたが、これを死守、さらに慶長5年(1600年)にも徳川軍の攻撃を受けましたが、このときも抗戦し、秀忠を関ヶ原合戦に遅らせる戦功を上げました。

 この二度に渡る勝ち戦で上田城は、また真田氏は天下に知られることになります。

 上の写真は上田城の大手門に当たる東虎口櫓門と南櫓(左側)北櫓(右側)です。

遺  構 関ヶ原の合戦後、真田氏の上田城は徹底的に破却されますが、時代は移って徳川幕府の世になり、元和8年(1622年)仙石忠正が小諸から入封、寛永3年(1626年)城の復興工事が始まりました。しかし忠正の死で工事は中断、その後入った松平氏も城を再建することはありませんでした。

 現存する上田城の隅櫓や石垣は、寛永3〜5年にかけて仙石忠政によって新たに築きなおされたものです。現存する3棟の隅櫓も仙石忠正時代のものです。この他、石垣、堀などが残されています。






真田石 真田昌幸が上田城築城の際、太郎山から掘り出したこの大石を「真田石」(右の写真)と名付けました。

 その子信之は松代への移封のときこの石を家宝として持っていこうとしましたが微動だにしなかったと伝えられています。

 以来、現在まで上田城に備わる礎石です。櫓門を入るところの右手にあります。





北櫓と南櫓 右の写真は北櫓を城内側から見たところです。城内から見ているので櫓門は写真の右手、樹木の茂る向こうになります。


















 左の写真は北櫓の2階から櫓門、南櫓を見たところです。手前が櫓門、その向こうが南櫓になります。

 この2つの櫓は明治時代の初めに民間に売られ移築されていたのですが、太平洋戦争の末期に買い戻しの話が進み、戦後になって城跡の元の場所に再移築され昭和24年(1949年)落成しました。その後、残存していた西櫓と合わせて博物館として公開されたということです。

 3つの櫓の構造はいずれも同じで、二層二階・桁行五間・梁間四間の妻入り形式です。屋根は入母屋造りで本瓦葺き、外は白漆喰の塗り壁で腰下見板張り、また内部も白漆喰塗となっています。

 本丸東虎口櫓門と袖塀(このページ一番上の写真参照)は、明治時代の初めに撮影された古写真と石垣の痕跡、発掘調査などを基に平成6年(1994年)に復元されたものです。






本丸跡 右の写真は本丸跡、北側の上段部分です。

 本丸は北側部分がやや高い上段、南側が下段に分かれていて、この段差の部分には創建当時のものと思われる2メートルくらいの高さの石垣が一部残っています。

 また周囲は全体に渡って土塁、一部は石垣で囲まれています。

写真はいずれも2001年11月5日撮影。
2001年12月28日記す。   




 上田城 =その2= に続く。