
所 在 地愛媛県宇和島市丸の内1丁目3
(上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)
築 城 文禄4年(1595年)、豊臣秀吉から当時は板島といわれていた宇和島の地を与えられた藤堂高虎が近世城郭を築きました。築城の地は中世期にあった板島丸串城の跡地です。
慶長6年(1601年)高虎は今治に加増転封されましたが城の完成を待ち名前も宇和島城と改めてから移転しています。その後、富田氏の統治を経て、慶長19年(1614年)に伊達政宗の長男である伊達秀宗が入封し以後明治維新まで伊達氏が城主を勤めました。
寛文4年(1664年)に伊達家2代目の宗利が天守閣はじめ城郭全体の大修理をしました。現在の天守閣(独立式層塔型三層三階)はこのときに建てられたもの(左の写真)ですが、縄張り、建造物など基本的なところは高虎当時のものが受け継がれています。
別 名 丸串城、板島城、鶴島城、鷹城

遺 構 天守、門、石垣、井戸、縄張など。廃藩後、周囲の矢倉は大部分取り壊され、昭和20年には戦災で追手門(国宝)も焼失しました。現在はわずかに天守と上り立ち門などを残すのみです。
築城当時は東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接していましたので「海城(水城)」ともみることができます。
藤堂高虎の穂張りという五角形の堀なども埋め立てられましたが埋め立てられた水堀に沿う形で国道が走るなど今に至るも町そのものが五角形になっており、高くて立派な石垣などにも往時が偲ばれます。
この不等辺五角形の縄張り(下の地図) は寄せ手に四角形の城と錯覚させ防御と反撃に役立てるためといわれます。
宇和島城の概略図
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以下の解説は ウィンドウのタブを使って、このページと概略図とを切り換えながらご覧頂く と分かりやすいでしょう。
上り立ち門 城は城山と呼ばれる小高い丘の山頂にあります。私たち一行は城山の南・搦め手口にある上り立ち門(上の写真)から登城しました。
この門は規模は大きくありませんが武家屋敷の正門である薬医門形式、切り妻、本瓦葺きです。かつては南登城口から天守まで7つの門がありましたが、残っているのはこの門だけです。
門の前は駐車場になっており付近は住宅などが建て込んでいますが、一帯はかつての三の丸跡で、ここに御殿があったそうです。残念ながら往時の面影はありません。
搦め手からの登城路 城山は山といえるほどの高さではありませんが、 下の写真 のように登城するにつれ幾重もの石垣が見られ、樹木も茂っていて堅固な城構えの感じです。
やっと見えてきた天守 かなり登ったところで 下の写真 のように樹木の間から天守(画面の中央)が見えてきました。
この城は市街地のどこからでも天守が見られるというわけではないそうで樹木がこんもり茂った城山全体が見られるだけといいます。ビルの屋上などに上がればともかく、簡単に天守が見られないというのは寂しいものです。

一の門跡 二の門跡を通り二の丸に入ってまた大きく左にUターンしますと一の門跡=櫛形門跡=(下の写真)となり、ここを抜けると本丸に入ります。
写真の中央にある数段の石段を上がり左に折れると本丸で、正面に天守が聳えています。

本 丸 下の写真ではかなりの広さがあるように見えますが、それほどの広さはなく御殿もありませんでした。

登城の際にもらったパンフレットに正徳元年(1711年)の絵図を基にしたという地図が出ていますが、それを見ますと櫛形門矢倉、御弓矢倉、御鉄砲矢倉など数多くの矢倉に囲まれ、中央に御台所があったようです。
訪れたときは桜が満開で装飾性の高い天守とあいまっていい眺めです。
天守に近寄ってみると、このページのトップの写真のようになります。

天守の内部 木造三層三階の内部に入ってみますと・・・。
太い梁、荒削りな柱など、どれも木肌は磨きこまれたように光っています。昭和時代に入ってからも解体しての修理が行われているのですが、いずれも古材を使っているのでしょう。
天井は比較的高いような気がしましたが、階段は急傾斜しており登るのが大変です。
どこのお城にも見られるように資料館的な展示物があります。廃城になり解体される前とか戦災で焼失する前の建造物の写真がある程度です。
見ものは その3 のページで紹介する天守の骨組みの模型ぐらいです。
写真はいずれも2012年4月9日撮影。
2012年4月19日記す。
2013年1月15日追加、更新。
宇和島城 =その1=このページ。
宇和島城 =その2= に行く。
宇和島城 =その3= に行く。
