
所 在 地 奈良県奈良市市柳生町
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築 城 柳生の城といわれるものには柳生古城山城、柳生城、それに柳生陣屋があります。
南北朝時代、大和・柳生荘の豪族だった柳生氏が山上に城を築いたのが始まりといわれます。
戦国時代、柳生氏は大和統一を目指す筒井氏に攻められ、その麾下に入り、豊臣時代には隠し田が露見して所領を没収されています。柳生氏が旧領を回復するのは柳生宗厳(石舟斎)の時です。
宗厳は柳生新陰流の祖で、文禄3年(1594年)徳川家康に見い出され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦の功により、柳生の旧領2千石を与えられました。
柳生の里は南北の谷筋に沿ってあり国道369号が走っています。この国道から標識に従って東へ緩やかな坂道を上っていきますと程なく柳生新陰流の正木坂剣禅道場があります。さらに少し登ると左上の写真のように「石舟斎塁城址」の碑があります。
この碑と向かい合うような位置・小高い山の少し開けたところが柳生城の主郭があったところで、道場、碑のあるあたりも城域でした。城跡は今はわずかに空堀があるだけですが、もともと柳生城は土累と堀で固められた程度のものだったのです。
柳生古城山城は、この柳生城の少し北の古城山の上にありました。ここも遺構としては空堀がある程度です。

芳徳寺 柳生宗矩は亡父宗厳の菩提を弔うために柳生城域に沢庵和尚を開基として芳徳寺を建立しました。
左の写真が芳徳寺です。上の写真の画面右奥に見られるものを近寄って撮影したものです。
石段を上がって境内に入り本堂裏に回って少し進みますと柳生一族の墓所があります。石舟斎はじめ宗矩らの墓がずらりと並んでいました。
柳生陣屋 宗厳の後を継いだ柳生但馬守宗矩は徳川将軍家の剣道指南役として1万2千5百石の大名となりました。宗矩は柳生城とは別に居館としての陣屋を築きます。
これが柳生陣屋で、城とは谷を挟んで反対の南西側にありました。現在は公園として整備されていますが、ここにも建物の遺構はなく柳生陣屋跡と柳生城址の2つの碑が建っています。

柳生の里 右の写真は芳徳寺脇から柳生谷筋の集落、柳生の里を展望したところです。
画面中央の山麓にある高い石垣の屋敷は江戸末期の柳生藩国家老小山田主鈴の屋敷です。
太平洋戦争後、作家の山岡荘八が買い取り別邸として使用、ここで柳生一族を主人公とした『春の坂道』を執筆したといわれます。
後に奈良市に寄付され、現在は一般に開放されていて見学出来るようになりました。
右上の写真の画面左側のさらに左の方に・・・、写真には写っていませんが山を背に柳生陣屋跡があります。
吉川英治の「宮本武蔵」で、また映画化されたりTVドラマでお通が身を寄せる石舟斎の居館・柳生陣屋は度々登場しますが今は当時を偲ばせるものは何もありません。
写真は2003年3月12日撮影。
2003年3月15日記す。
2007年8月18日追加更新。
