大和郡山城1
=その1=
所 在 地
奈良県大和郡山市城内町
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別 名
犬伏城
築 城
天正5年(1577年)、筒井順慶が松永久秀を破って織田信長から大和一国を与えらました。同8年、筒井城を廃して大和郡山に本格的な近世城郭を築いて居城としたのが始まりです。
翌12年、順慶が死ぬと、大和大納言と称された秀吉の異母弟・秀長が、紀伊・大和・和泉三カ国百万石の大名として天正13年(1585年)入城します。
秀長は百万石にふさわしい城をめざして拡張改築を行ない、その際石垣の石が足りず、寺院の礎石、五輪塔、石地蔵なども用いるほどでした。
秀長のあと増田長盛が郡山20万石で入封、長盛は、城の修築を続け外堀(総堀)を普請し、城郭、城下町が完成しました。
徳川時代に入ると本多氏、松平氏を経て、享保9年(1724年)に柳沢吉保の子吉里が甲府から入封し、以後15万1千石の格式を整えた柳沢氏の居城として明治に至りました。
上の写真は二の丸東側の水堀越しに復元された隅櫓、大手門を望見したところです。
復元された隅櫓、大手門
左の写真は木造で再建された隅櫓です。これの右に続く形で大手門 =下の写真= があります。
昭和57年から木造で順次復興されました。
右の写真は大手門で、追手門、梅林門、矢倉追手門とも呼ばれています。南側向いにある櫓は追手向櫓と呼ばれています。
秀長時代はここが大手でした。
本丸・柳沢神社
本丸跡は現在、柳沢神社となっています。神社本殿に向かって右に回るようにして本殿裏に進むと天守台があります。
天守台は東西約17メートル、南北約18メートル、高さ約10メートルの立派なもので、ここの石垣などに石仏、寺院の礎石が使われています。
散策路沿いに見る遺構の数々
本丸、二の丸をぐるりと取り囲むように散策路が設けけられており、この散策路沿いに幾つかの遺構が見られます。
散策路の外側は概ね三の丸で、もちろんかつての城内ですが、今は2つもの高校があります。
右の写真で右側の土塀の向こうが郡山高校です。写真の中央あたりで左折すると柳沢神社への参道となり、本丸に通じています。
左の写真は復元された仕切塀で、左に進むと水堀越しに本丸が望めます。
近くには松陰門跡の標識もありました。
上の写真の仕切塀わきを抜けて散策路を進むと松陰堀がよく見えます。本丸を守る水堀で、石垣も立派なものでした。
写真はいずれも2002年5月24日撮影。
2002年9月3日記す。
大和郡山城 =その2=
に続く。