湯築城 =その1=


所 在 地 愛媛県松山市道後公園
  (上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)

築  城 南北朝期初頭には湯築城が築かれていたといわれます。室町期以降は伊予国守護の河野氏の居城として伊予統治の中心となっていました。戦国期の天文4年(1535年)河野弾正少弼道直が温付堀(現在の外堀か)を築造し、2重の堀をめぐらせた堅固な城になりました。

 この時期の典型的な平山城で当初は丘の上に望楼程度のものはあったようですが、近世城郭のような建築物・・天守、櫓などはなく堀と土塁だけの城です。

 天正13年(1585年)、秀吉の四国平定の際、河野氏最後の当主道直が城を明け渡し河野氏の伊予支配が終わりました。その後、秀吉配下の福島正則が伊予の大名となりましたが正則は国分山城に居城を移したため湯築城は廃城となります。







 道後温泉、松山城のすぐ近くにあり、小高い丘を中心にした東西約300メートル、南北約350メートルの円形の道後公園全域が湯築城跡です。上の写真は道後公園の正門入り口で、かつての湯築城の搦手口になります。

 昭和62年(1987年)公園内南側にあった動物園の区域で発掘調査が行われ中世当時の湯築城の武家屋敷跡や土塀跡、道、排水溝などの遺構や、陶磁器などの遺物が数多く出土しました。

 このため平成10年(1998年)から4年がかりで武家屋敷や土塀の復元などを盛り込んだ公園として整備され平成14年(2002年)4月、リニューアルオープンしました。

遺  構 水堀、土塁、曲輪、復元石垣、復元土塁など

別  名 湯月城







 上の写真は内堀 (4) です。掘った土を盛ったとみられる土塁が堀に沿って築かれていました。写真の左側の方・・樹木に遮られていますが、その向こうは家臣団の居住地域 (2) です。復元された武家屋敷などがあります。

湯築城の案内図 右は公園のの案内図を写したものです。

 この 案内図をクリッ1ク すると別のウィンドウに大きい図が表示されます。主要な建造物などには地図の上に番号入りの赤い丸 を付けてあり、解説の中にも同じ番号 を記載しています。

 以下の説明は このページと大きな案内図をタブで切り換えながらご覧頂く と分かりやすいでしょう。




土塀・土塁 当時、搦手門だった現在の公園入り口 (3) から中に入りますとすぐ下左の写真のように資料館 (4) があり、資料館の土塀とは道路を挟んで右下の写真のように長く土塁 (5) が続いています。




土   塁 上右の写真は外堀の内側に沿って築かれた土塁で高さが5メートルほどあります。




土塁の構造展示 外堀土塁の南端部には、左の写真のように土塁がトンネル状に切り込まれ、その断面が分かるように展示 (6) してありました。

 土塁は小石混じりの文字通り土砂で積み上げられており、その土砂、断面などから築き上げられた年代なども分かったということです。



















排水溝 外堀土塁の内側は道路が続いているのですが、土塁とは反対側には排水溝 (7) が設けられています。

 溝の両側は大小さまざまな大きさの川原の石のような自然石を積み上げて補強、水の流れをよくするように作られていました。

写真はいずれも2012年4月10日撮影。
2012年4月20日記す。
2013年8月19日追加、更新。


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