生徒を受け持つようになって、約二年という月日が流れた。教師という仕事の大体の部分もわかるようになってきた。 要するに慣れが生じてきた頃のことだった。

小学四年生のクラスを繰上げで受け持つようになって、一年過ぎたある女の生徒が、一人ぽつんと椅子に座っている姿が目立った。 通知表に自分が前、何と書いたのかは覚えている。記録にもなんと書いていたのか覚えている。 明るくて、友達が好き。勉強もよく出来る。 他の生徒たちはその女の子が空気であるかのように、寄り付かない。 たった十五分の休憩時間、それでも、邑社会を学校は形成している。

その女の子と仲が良かった数人の生徒に聞いてみると、「私たちと話したくないみたい」とそう少し怒ったように言っていた。 まるで私たちは悪くない、というように。

あまりにもの豹変振りに、気にかかった。教師の領分なのかはわからなかった。それでも、声を掛ける事にした。
「どうしたんだ?最近元気がないみたいだけど」
いじめに遭っているんじゃないかと一瞬、懸念した。 自分のクラスでそんなことはない、とは言い切れなかった。 一部の教師はいじめの事実を知りながらも、公にしない教師もいることを知っているからだ。 昔であったら、そんなことはなかったろうに。だんだんと教師の立ち位置が難しくなってきたとそう思う。 やたら過保護な親も増えた。時々、何で教師になったのだろうとそう思ってしまう。 公務員は安定しているからという理由で選んだのだ。
「何でもありません」
女の子の目が淀んでいる気がした。
「何かあるなら力になるけど」
女の子の目の端が少し、泳いだ。
「先生は」
「うん」
「生きているのって辛いですか?」
一瞬、その女の子は自殺願望があるんじゃないかと思ってしまった。 学校の中にはあらゆる感情が渦巻いている。小さな社会。
「先生は」
カウンセラーに頼んだ方いいかもしれない、とそう思った。 学校の中には専門のカウンセラーがいる。 相談をするべきかもしれない。
「そんなことはないよ」
歯切れが悪くなった。元々、嘘を吐くのは苦手なのだ。
その女の子との会話はそれで、終了した。



「飲みに行かないんですか?」
「テストの採点が終わってないんですよ。どうも、苦手で」
子供たちを点数で判断しているようで、どうも苦手なのだ。 大体、社会に出たところで、役に立つのだろうかと、教師でありながらも私は考えてしまう。 友達の話しか聞いたことがないので、実際のところはわからないが。 同僚がさくさくと仕事を片付けて、職員室から出ようとしている。
「じゃあ、先に行って待っていますね。要領よく仕事は片付けるのは鉄則ですよ」
「わかっています」
赤ペンで丸を打ちながら、ふと、そのテストがあの女の子のものだと気付いた。 国語で100点をとった事がある女の子だったのに、67点まで落ちている。 自然と、私の口から溜息が零れた。 目の端に、ふと、運動場が映った。 その中に、あの女の子がぽつんと所在なさげに座っているのが目に見えた。 もしかしたら、と思う。今まで気付かなかっただけで、女の子はあんな風に一人で過ごすことが多かったのかもしれない。
「もうすぐ帰る時間だよ」
近付いて、一瞬顔を上げた女の子は、直ぐに俯いてしまった。
「お母さんが心配するんじゃないかな」
「帰りたくないんです」
「何で?」
間が長い時間あったが、それでも、私は待った。
「………辛いってずっと言ってるから」
脳内で、生きてるのが辛いと言った女の子の言葉が蘇った。 家庭環境を思い出した。 彼女の両親は一年前に離婚している。離婚する家庭は増えつつある。そのため、贔屓をしないようように他の生徒と平等に関わっていたのだが。 もしかしたら、女の子は母親が辛いといっている中、友達と楽しんで過ごすことが出来ないのかもしれない。 幼い子供にとっては、自分を守ってくれるもの、両親が全てだからだ。本能で知っている。 何か出来ることを、と私は考える。
「お母さんのことは好き?」
こくりと何の疑いも出さずに、頷く女の子を抱き締めた。たぶん、傍目から見たら、ロリコン教師と言われるんだろうな、と片隅で思いながら。職員室にはまだ教師がいるので、もしかしたら、この場面も見られているかのしれない。知ったことか、とその後思った。教師になりたいと思ったとき、これから大人になっていく子供たちの手助けもしたいと思ったのだ。 春に近付きつつあるものの、空気はまだ冷たい。 子供の体温はそれなのに、温かいから不思議だ。
「どんなところが好き?」
「忙しいのに、家のこと全部やってて、休みには色んなところに連れて行ってくれて、風邪を引いたときはおんぶしてお医者さんに連れて行ってくれて、この前はビーズで可愛いトイプードル作ってくれた」 涙声が混じっていたが、女の子はしっかりとした口調で教えてくれた。 赤いランドセルに可愛いビーズのストラップが揺れた。手作りなのかと考えたら、胸がほっこりした。
「じゃあ、お母さんにそのことを伝えようか。意外に気付いてないかもしれないから」
先生も手伝うから、とそう言葉を添えた。 うまくいったのかはわからなかったが、女の子は翌日久しぶりに笑顔を見せた。 女の子の性格を考えたら、これからの学校生活良くなるに違いなかった。


私も、久しぶりに母親に感謝の気持ちを伝えようかとそう思った。 今日は私の誕生日だった。
「俺、今日誕生日、なんだけどさ、生んでくれてありがとう」
たくさんのおめでとうの言葉。自分一人では生きていけないことを思い出させてくれる。 照れくさい。それでも、言ってみた。
「あんた自殺するんじゃないだろうね?」
「しないよ」
25年分の感謝を。




誕生日は両親に感謝を伝える日と教えてもらいました。