しとしとと朝から小雨が降り続いていた。その小雨が夜になり、少し強くなってきた頃、バスに30代と思われる母親がベビーカーと一緒に赤ちゃんを抱いて入ってきた。 赤ちゃんは最初から大きな声で泣いていた。バスの車内は雨ということもあり、そこそこ混んでいる。 恐らくバス車内にいる、自宅に帰るであろう全ての客の視線が一気にその母子の元へと集められた。
バスはゆっくりと次の目的地に向かって、走り出した。石か何かにでもタイヤを乗せたのか、がたんとバスが揺れた。その途端、赤ちゃんの泣く声は更に大きくなった。 その母親は赤ちゃんが泣いているのが申し訳ないと思っているようで、眉をへの字に曲げ、必死に子供をあやしている。赤ちゃんが泣き止む気配はない。 くしゃっとした顔をして、全身で母親に何かを訴えている。
母親はバスに設置されている次のバス停で降りるためのボタンを押した。
「それが本当に降りるバス停で良かったですか?」
何か感じることがあったのか、前を見つめていた筈の運転手がそうたずねた。60代近いであろうその運転手は自分の両親とそう変わらない。 母親はバスに入ってすぐにボタンを押した。傘を母親は持っていない。
「四つ目のバス停なんですが、子供が泣いているし、迷惑になるので次で降ります」
母親はそう申し訳なさそうに言った。
窓の外では、雨が降り続いてる。
運転手がマイクを手にバスの中にいるお客様に呼び掛けた。
「皆様に連絡します。赤ちゃんが泣いています。ですが、乗っててもいいですよね。赤ちゃんは泣くのが仕事ですから」
有無を言わせない意志のこもった声が、バス車内に広がった。バス車内の空気が、一瞬して変わった。



母親が目的地のバス停で、運転手に丁寧に頭を下げてバスから降りていった。赤ちゃんは泣き疲れたのか、その頃にはもう泣いてはいなかった。
私はバスの座席に腰掛けていて、そのやり取りを最初から見ていた。私の座っている座席は、バスの中で一番前の席の為、そのやり取りの全容が見やすい位置にあった。 私は最初疲れで目を閉じていたが、やがて目を開き、傍観者となっていた。
「運転手さん、いい人ですね」
つい、そんな言葉が出ると、運転手はちらりと私を値踏みするような視線を向けた。一瞬怯んだのは、罪悪感からなのか。
「お客様を目的地まで安全に送るのが仕事ですから」
確かに、とそう思いつつも、何だか少し、感動してしまった。 いつからか、仕事がただ単に生活をしていく為だけの手段になってしまっていた。 たまたま早く帰れた水曜日だったからこそ、こんなことを思えたのかもしれない。いつも、朝、夜共に疲れてバスの中では眠っていた。 そんな自分を頑張っていると思う一方、何でこんなに頑張っているんだろうと自問したくなるそんな日常を送っていた。
全てのことに関して、どんどん無感動になっていく自分。
物事全てをただの事象としか捕えられない自分。
今、その自分が少し剥がれたような、そんな感覚があった。
「ありがとうございました」
バスを降りる間際、私は今まで仕事だから当然と言わなかった言葉を口から出した。
歩道を自宅へと帰るであろう人々が傘を手に歩いている。今、私もその中に混じろうとしている。 独特の雨の臭いがそこには満ちていた。アスファルトに落ちる雨の音は、少しずつ優しい音に変わっていた。そろそろ雨がやむ気配を感じた。
「こちらこそ、いつもご利用ありがとうございます」
無愛想かと思っていた運転手が少しだけ、笑ってみせた。その笑った顔は、意外に人当たりのいい顔をしていた。