注意書き。
この話には一部過激な描写が含まれています。
12歳未満は読むことをお勧めしません。
夢語り
何処かで鐘が鳴っている。
鉱夫たちの交代時間を告げる鐘の音だ。
それを自覚しながらも、怠惰な身体は動こうとしない。
「鐘が鳴ってるな」
直ぐ近くで男がそう囁いた。
帰れと暗に言っているのだ。
しかし、戻ろうとする気力はなかった。
いや、戻りたくなかった。
身体に回されていた手が外れて、男は自分を押し出した。
鐘が鳴った以上、客が傾城屋にやって来るのは確かだ。
いつ死ぬのか知れないその身は、遊女にむしゃぶりつかずにはいられないのだ。
下町にある銭湯でその身の汚れを洗い流した後、遊女の自由は拘束される。
いや、遊女に自由などありやしない。
自分は、未だ夢を見ているのだろうか。
口元が自嘲で彩られたのを見たのか、男が自分を抱き寄せた。
鉱山で掘り子として働いているせいか、男はなかなか逞しい。
しかし、会った時よりも、衰えてきたように感じられる
「身請けできたら良かったんだが」
しがない鉱夫が遊女を身請けできる筈がない。
しかし、今までの嵩んだ借金を清算するには、身請けが一番の抜け道だ。
――吉原にいた頃は、自分の容姿にかこつけ、身請けを申し出る輩がいたというのに。
そんな思いが湧き上がる。
吉原から転落した後の自分は惨め以外の何でもなかった。
「じゃあ、金でも掘り当てるんだな」
自分は夢を語っているのだ。
好きな男と一緒になれれば、越したことはない。
遊女は誰でも夢を見ている。
「こんなところ、掘ってても金なんて出てきやしない」
それは漠然と考えていたことだった。
近々鉱山は廃山すると言う話もちらほら遊女が客から聞き及んでいる。
そんな山に金があるとは考えられない。
しかし、鉱山の山締めである山先は、未だ山を掘り進めている。
もしや、と考えてしまうのは自分が弱いからだろうか。
現実の前で、俺の気持ちは挫けてしまう。
それに、男には親方の借金があった。
返さないことには友子を抜けることができない。
友子とは、鉱夫たちで作る助け合いの会みたいなものだ。
毎月、いくらかの金で積み立てて、病気や怪我の時には見舞金が出る。
鉱夫の殆どは友子に入っていて、任侠世界のような厳しい親分子分関係に組み込まれていた。
友子の仕組みは殆ど鉱山にあり、その掟は厳しく、反すると殺されることあると聞いていた。
金、金。
全ては金が支配している。
「明日も来てほしい」
今まで自分を掴んでいた手が離れていく。
男はそう言うものの、そう簡単に長屋に来られないことを知っているだろう。
長襦袢を着て伊達巻を締めると、俺は誰にも見つからないように、土間の戸をそっと開いた。
長屋から出て少し歩くと、そこは目抜き通りとでも呼べるところとなる。
そこには、風呂屋や小物屋、酒屋や麹屋や鍛冶屋が狭い店を構えている。
その間から白い煙がたなびいている。
歩き回っているうちに銭湯が見えてきたのだ。
表通りに出たというのに、人気がない。
元気で野心のある鉱夫が山を離れたからだろう。
それでからめ婦たちも、離れていく。
男の言っていた通り、山には何もないのかもしれない。
他にいくあてもない者や借金で縛られた者が、安い賃金で山に縛られている。
俺とて人事ではない。
鉱夫がいなくなれば、別のところに移る他なくなってしまう。
しかし、落ちぶれた自分がここよりましな傾城屋に行くことはないだろう。
下町の店屋は閑古鳥が鳴き、見かけた者は誰もが浮かない顔をしていた。
表通りの先には、門番小屋のついた立派な門が置かれている。
鉱山町の表門だ。
鉱山町の鉱石や品物、人の出入りを厳しく取り締まるために開いているのは、明け六つから暮れ六つの間だけだ。
吉原にも大門があって、遊女の監視をしていたが、同じようなものだろう。
銭湯の暖簾をくぐると、女湯の方から笑い声が響いてきた。
下駄を脱いで番台に小銭を置き、脱衣所に入ると、先に出たらしい遊女が腰巻を締めていた。
「この頃、来るのが遅いわね」
揶揄しているのでないことは、彼女の性格からも声からも解っている。
しかし、心が波打つのはどうしようもなかった。
何か勘付いているのではないかと思ってしまうのだ。
勘付いているとしても、楼主に注進することはないだろう。
彼女が関心を持っているのは、自分の借金と年季明けの時間だ。
彼女は他の遊女とあまり変わることなく、借金で売られたのだろう。
それでも、心が荒むことなく、聡明な顔をしている。
そんな彼女が眩しかった。
そんな彼女は、しかし、物憂い顔でこちらを見上げた。
「この頃あの子の様子がおかしいの。何かあったんじゃないかって。良かったら聞いてあげて」
「あの子が?」
あの子と言われて思い当たる人物は一人しかいない。
そういえば、と俺は思い出した。
この頃、その遊女は気が触れたかのように、毎晩七、八人ものもの客をこなしている。
小柄な身体をしているのにもかかわらずのその姿は、痛々しいくらいだ。
彼女は自分たちと違って楼主が連れてきた少女だ。
如何にも薄幸なその少女を見ていると、昔の自分を思い出された。
時々意味なく思い起こされる過去の一つだ。
特に、初夜を迎えた娘が驚かないための忍棒を股の奥に貫かれ、
自分は道具なのだと知らされた時の冷たさは、忘れることはできないだろう。
着物を手早く脱ぐと、がらりと風呂場の戸を開けて、俺は手拭いと糠袋を手に風呂場へと入っていった。
四角い湯船には、幾人かの遊女が漬かっていた。
洗い場の隅で、その遊女は黙々と身体を洗っていた。
ちゅんと食べているのかと思うほど、少女の身体をしている。
かかり湯を浴びた後、俺は湯船に入った。
いずれ、遊女はこちらに来るだろうという思いがあり、彼女の元へはわざわざ出向かなかった。
彼女とは歳が近いこともあり、よく二人で話をしたこともあった。
思ったとおり、はこちらに目を向けると、少しだけ嬉しそうにこちらへとやって来た。
湯船に漬かると、彼女は身体を伸ばしつつ、こわごわと話しかけてきた。
「これから日増しに寒くなってくるんですね。この町の冬、初めてなんです。どんな風なんですか」
雪が降るんでしょうね、と口にする遊女はまるっきり少女だ。
これで何人もの客を取るのだから、楼主はさぞかしありがたがっているだろう。
「…冬は、店の一階なんかは雪ですっぽり埋まる。それで、若い者を雇って雪堀りをする」
答えるつもりはなかった。
しかし、俺はすっかりその遊女に魅せられていたのだと思う。
俺が遊女として磨き上げたのは、言葉でも閨の中でのことでもなく、悪意だった。
それをずっと研いでいた。
しかし、彼女はそうではなかった。
他の遊女とは違う、何かを彼女は持っていた。
「生まれは江戸なんですよね。話してくれませんか?」
彼女の瞳には媚がある。
江戸の事を聞きたいのではなく、吉原の事を聞きたいのは解っていた。
田舎に来れば来るほど、吉原出といった過去は売り物になっていく。
「吉原の遊郭は――」
何故話す気になったのだろう、と俺は思う。
いずれ此処からいなくなるのを知っているかのように。
「大きな建物が道の両側にびっしり並んで、一晩中灯が消えることはない」
彼女が本当に聞きたいのは、もしかしたら自分の転落なのかもしれない、という危惧が突如沸いた。
しかし、俺は過去を閨で売り物にしたりするが、本当の過去は話さない。
男にも話していない。
俺は客から聞いた話と数少ない経験を混ぜて、遊女に披露した。
こんな鉱山町で江戸のことを知ってるものはまずいない。
どんな嘘を並べようが、少女は騙されるだろう。
「吉原ってすごいところね」
案の定、遊女は俺の話を信じ込んでいる。
少しだけ哀れにも映ったが、俺は話を訂正しようなどとはしなかった。
誰だって夢は見たがるものだ。
「私も、吉原だったら」
――こんなことにはならなかっただろうに。
そんな言葉が少女の口から漏れた。
彼女が恨み言を言うことはなかったので、少なからず俺は驚かされた。
もしかしたら、最近の彼女の客取りに根があるのかもしれない。
確かに、早く借金を返したいだろうが、身体を壊しては意味がない。
その時、俺の胸に閃いたことがある。
俺は彼女の下腹部を見下ろした。
彼女は鬼子を孕んだのではないだろうか。
俺は傾城屋戻るなり、楼主に声をかけられた。
帳簿を見ると、俺はいつも牢獄を思い起こされる。
外と玄関に面した二方の窓全体に格子がついているからだ。
縁起棚には傾城屋の守り神、木の陽物である金勢明神が飾られている。
その下には黒光りする帳簿箪笥が置かれており、遊女の名前が書かれた気札や線香立てが置かれていた。
楼主は帳簿箪笥の中から、紙に包んだものを取り出した。
「頼まれていた薬だよ」
俺はその渋茶色の封筒の中を改めた。
黄蓮、甘草、丁字、山椒などで、花柳病の薬だと言われていた。
嘘か誠か解ったものではなかったが、土鍋で黒煎りして飲んでいた。
楼主は俺が薬を懐に入れたのを確かめると、帳簿格子に囲まれた文机の前に座って、帳簿を開いた。
「わざわざ取り寄せたから高かったんだからね。一円十銭。お前の借金に足しとくからね」
「この前のところでは一円でした」
言っても仕方ないと思いつつも、反抗心が湧き上がる。
楼主はじろりと俺を睨み上げた。
こんな時、俺は世間知らずと嘲笑われた気がする。
「前のところは前のところさ」
遊郭にいると、物の値段は楼主任せだ。
着物も部屋で使う湯飲みも急須も、何を買うにもいちいち楼主を通さないといけない。
遊女に要求させる値段は、手数料を上乗せされる。
こうして、遊女の借金は増える一方なのだ。
今では何百円になっているだろうか。
何となく、あの遊女の横顔が思い出された。
「お薬はもう渡しましたか?」
あの少女に、と聞いた。
「いや」
楼主はそっけなかった。
「頼まれてすらいないよ」
遊女は道具だと思っている楼主のことだ。
もし、誰であれ遊女が病気になったとしても、見捨てるだけだろう。
そして、無縁仏の住人となる。
恐らく、遠くない未来に俺もその中に加わることだろう。
俺はふと脱衣所で会った遊女のことが気になった。
聡い彼女は気付いているだろうか。
少女の妊娠に。
自分の部屋へ行きがてら、俺は彼女を訪ねることにした。
二階は、長方形の坪庭を囲んで障子窓の入った廊下が巡らされている。
表の通りに面した側に客座敷が三部屋。
残る幾つもの小部屋は遊女たちの自室に振り分けられ、商売の場でもある。
俺は彼女の部屋の襖を開けた。
「お邪魔します」
目隠しの為の枕屏風の向こうに人影はある。
目当ての遊女は襦袢姿で開け放した窓の縁に腰掛けて、夜気にあたっている。
いや、そうではないかった。
彼女は何かを探しているのだ。
私の声を聞いて、こちらに顔を向けた彼女は銭湯の時と変わらず、物憂い顔だった。
「あら」
「何を見てたんですか?」
「山の変わっていく色合いを見ていたの。知ってた?とても綺麗なのよ」
嘘を言っているのだと解った。
彼女は誰かを見ていたのだ。
それはきっと、彼女が恋している男なのだ。
彼女に対して似合わないと思いもしたが、それは同時に美しいものとして映った。
俺も山を見るのは好きだ。
屋敷のある山小屋町や、杉皮葺きの粗末な長屋や、吹き飛ばされてしまいそうな作業場や、
下町を見るより余程気分が楽になるからだ。
何より、山の斜面にへばりついている鉱山町が夕日の色に染まるのは、壮観だと思う。
「あの子は妊娠していると思いますか?」
俺はそれでも、彼女の恋の顛末などどうでも良かった。
話を逸らせれたことに安堵したのか、彼女は柔らかい声音で話し始めた。
「ええ。私もそう思ってるわ。でも、堕ろしかないでしょうね」
遊女の身分で産むことは適わない。
「仕方のないことには違いないけど」
そう言いつつも、俺の口調は重い。
以前にした子堕しの苦しさが蘇ってくる。
死ぬのではないかと思った。
彼女もその体験を思い出したのか、表情がこれまでにないくらいに曇った。
「それに、あの子は薬代すら払わないみたいで」
あの子を心配しているのではなかった。
未来の自分を憂えているのだ。
「やっぱり」
遊女は口の中でそう呟いた。
「やっぱり?」
俺は彼女の口調の中に何かを感じ取った。
不吉な予感だった。
これまでの五年近い遊郭生活の間に、色々な遊女を見てきた。
先をはかなんで自殺した女、報われない恋に足を取られて心中した女、病気や衰弱で死んでいった女。
あの子はどれに分類されるのだろう。
「私、あの子の唇に赤いものを見たんです。もしかしたらと思っていたけど」
その言葉が何を指すのか解るまでに時間がかかった。
「あの子が病気?」
だとしたら、薬を頼まないのも頷ける。
そして、自棄になって客を取ったのも。
俺は蒼白になっていく遊女を見ながら、冷めたいものが身体中を通り抜けるのを感じていた。
こんな狭い町なのだ。
俺の方に病気が押し寄せてきてもおかしくない。
俺は算段を始める遊女を尻目に、少女の部屋へ向かっていた。
少女は長湯で俺よりも遅く帰ってきた。
今頃は、髪結い女に髷でも結ってもらっているだろう。
でなければ、客を取れないのだから。
思った通り、少女は鏡台に向かって髷を結ってもらっていた。
その顔は病気だと思えないほど、華やかだ。
化粧が施してあるからだと俺は自分を納得させると、髪結い女にその場をどいてもらうように頼んだ。
不服そうな顔をしたものの、髪結い女は襖を開けて、別の遊女の方へと出かけていった。
その女の姿に髪を引かれつつも、少女はこちらに向き直った。
「どうしたんですか?」
私、準備をしなければならないのに、と少女は零した。
こんな鉱山町の傾城屋では、吉原の遊郭のように張店世もないので、
鉱夫たちはいきなり帳場で七人の遊女の中から一人、適当に指名して、遊女部屋に上がりこむ。
はっきり言って自分を着飾る必要はないように思う。
それでも、彼女は綺麗したいのだろう。
少しだけ、俺は彼女の気持ちが解ったような気がした。
そんな気持ちを振り切るように、俺は少女に近付くと、何も言わずに唇をめくり上げた。
小さな悲鳴がその唇から漏れた。
遊女が見たのは、これだったのだろう。
吹き出物が直ぐに目に入った。
花柳病。
しかも、最も恐ろしい黴毒だ。
放っておくと、やがては鼻が落ちて死んでしまう。
「黴毒病院に行けば助かるかもしれない」
その子に感じたのはどす黒い憤懣だったのに、口に出たのは奇跡に縋ろうとしている自分の愚かさだった。
「どうせこんなところで朽ち果てる身なんだもの。最後の最後まで働いて、私にこの病を移した男たちに移し返してやるわ」
「何言ってるんだ。そんなことしたら…」
――俺も花柳病に。
その思いが顔に出たのだろう。
その少女は不敵に笑った。
唇がめくれあがり、吹き出物が露になる。
もしかしたら、その子は俺以上に悪意を磨いていたのかもしれない。
自分をこんな目に貶めた全てに。
だとしたら、俺と今、目の前にいる少女と解り合える筈だった。
しかし、今ではそれは適わない。
俺の悪意もこれまでにないくらいに膨れ上がっていたからだ。
「何、命を惜しんでいるのよ」
彼女は俺が今まで見ないようにしてきた部分に穴を開けた。
隙間からは風が吹いてくる。
「私たちみたいな者の命なんて、石ころみたいなものじゃないの。惜しむほどのものでもないでしょう。誰も泣いてはくれないわ。
せいぜい、金蔓がなくなって困る家族くらいのものよ。そしたら、却って小気味いいくらいだわ」
毎日、毎日同じことの繰り返しが俺たちの日常だ。
男と寝て、見送って、男と寝て、見送って。
その度に俺の何かが摩滅していく。
俺の悪意はそれにかこつけ、どんどん成長していく。
男の姿が脳裏に浮かんだ。
俺はもう、この遊女に言ってやる言葉を持っていなかった。
言ったとしても無駄に違いない。
「あんたが死にたいのなら、勝手に死ねばいい。だけど、巻き添えにするのは止めろ」
上辺を取り繕う言葉をなくし、俺はその言葉を最後に、襖に手をかけた。
「何よ。吉原出といっても、いじめられてここまで落ちぶれたくせに」
少女が毒づくので、俺は振り返った。
聞いてやる必要はないと思いつつも、ここまで屈辱に塗れた少女を見るのは最後だろうと気が変わったからだ。
楼主に少女の病気のことを言うつもりだった。
「好きな男寝取られたのすら知らなかったでしょ」
その言葉は衝撃だった。
何故少女が男のことを知っているのかもあったが、何より彼女の寝取られたという言葉にだ。
そういえば、と俺は考え込んでしまう。
思えば一週間前、男は何故か自分を追い出した。
いつもなら、喜んで自分の部屋へと上げてくれるのに。
その時は、疲れているのだろうと思ったのだ。
そして、自分へのあまりにも優しい態度が引っかかっていた。
それが自分への罪悪感から来るのだとしたら。
俺の顔色が変化したのだろう。
少女が喜びに声を上げた。
彼女は人を傷つける喜びに浸っていた。そうせずにはいられないのだろう。
「泣いてくれる者なんていやしないのよ」
その言葉が何かの引き金だった。
俺は少女を客のために敷かれた布団の上に、押し倒し、首を締め上げた。
お前なんて死ねばいい。
死んでしまえ。
何度も心の中で呪詛を紡いだ。
大切なものが壊れていく音が聞こえた。
少女の抵抗は虚しかった。
銭湯で見た時の、あの身体では当然だ。
どれくらい時間が経っただろうか。
固まったように細い首に絡み付いていた指を、俺はゆっくりと解いた。
俺の中にあったどろどろした感情はその瞬間に消え去ったように感じた。
そして、何かが生まれたのも。
次いで俺は少女の死体を片付けることにした。
自殺に見せかけなければならない。
それで、自分が殺したことは隠せるだろう。
窓の障子を開き、手すりに下帯を括りつけ、その片方に少女の首を縛り上げた。
そして、窓から突き落とした。
どうせ死んでいるのだと思うと、罪悪感など感じなかった。
悔いているのは別のことだ。
何故、俺は男を信じていたのかと。
いずれ、この事態に慌てて楼主が現れるだろう。
その時、少女は自殺として処理される筈だ。
花柳病であったし、おまけに妊娠しているのだ。
妊娠はともかく、病気は不味い。
そんな遊女を誰が哀れんだりするだろう。
未だ使い道のある俺を楼主は捨てたりしない。
例え、自殺ではなく殺されたのだとしても。
髪結い女に対しても同じことが言える。
もし、密告でもしようものなら、その前に殺せば済むことだ。
俺は自分が夢から覚めたかのように、思考が澄み切っているのを感じずにいられなかった。
事の展開は俺が思った通りになった。
警察には、楼主がうまく言ったらしい。
少女は野垂れ死にした鉱夫と共に無縁墓に埋められる事となったのだ。
店の評判に傷をつけられるのを、楼主が嫌ったためだ。
楼主が下男に死体を運び出すように告げてまもなく、俺は顔を隠すようにして、下町に続く坂道を走り降りた。
行く先は男の家だ。
人目のつかない裏道を選んで通る。
何気ないふりを装って歩き回っているとうちに、俄かに男に対する恋情が燃え上がる。
一日に二度も会う機会はなかった。
男が店に来るとしても、場末の傾城屋といっても、線香一本分の時間で十銭。
どんなに短く済ませても線香二本、少し部屋でくつろいでいたら、花代は鉱夫たちの二日分の給金はゆうにかかるのだ。
それなのに、少女を買ったのか。
俺は男に対する恋情に皹が入るのを感じた。
俺たち鉱山町の遊女の生活も決していいとは言えないが、男の家の中はもっと惨めだった。
俺はそれらをに無感動に眺めた。
土間の片隅には小さな竈と水桶。
壁には、堀り大工道具の鑿や石鎚、饅頭傘や蓑がかかっている。
半蔀戸のある四畳半の板の間には行李が一つ。
壁の釘にはくたびれた着物がかかり、部屋の隅には寝床代わりの筵が敷かれている。
俺は筵に横たわっている男に歩み寄った。
僅かに目を見開いている男を無感動に眺めた。
ほんの数刻しか経っていない筈なのに、俺はその男の顔色が悪くなったように感じられた。
少女から花柳病が移ったのかもしれないと思うと、俺の中に恋情ではなく、憎悪がぱっと燃え上がった。
その炎で飛び込んできた虫を殺せそうなくらいに。
身請けできたらいいと言っていたではないか。
あの言葉は嘘だったのか。
俺をずっと騙していたのか。
「身体、大丈夫か?」
それなのに、心とは裏腹に言葉は優しくなる。
ふと、男が口を開いた。まるで夢から覚めたように。
「俺は、よろけだ」
よろけとは、鉱夫の罹る病気だ。
空気の悪い坑道の中で働いているうちに、身体は弱り、息が苦しくなって死んでしまう。
だから、鉱山では、男が二十歳になると、四十二歳の厄除けも一緒にやる。
それだけ早死にする鉱夫が多いのだ。
それで、他の鉱夫と同じように遊女を買ったというのだろうか。
だったら、何故それは俺ではないのだ。
「風邪をこじらせただけだろ」
そう言いつつも、何度かこの家の中で会う男に、病気の芽を感じなかったわけではないのだ。
「よろけになった鉱夫はたくさん見てきた。ぜえぜえ苦しみながら死んでいくんだ」
止してくれ、と俺は言い出しそうになった。
「だから、あの子を買ったのか?」
男の言葉をどうしても遮りたかった。
このままでは、俺はこの男に何を言えばいいのか解らない。
突破口が欲しかった。
「あの子?」
名前に聞き覚えがなくたって構いやしなかった。
どうせ、男の口から零れ出る言葉は虚偽だ。
「今、やり手で評判の若い女郎だ」
男はかすかに頷いた。
「ああ。買った」
俺はこれで用がなくなった。
例え、隠すのが俺への裏切りだとしても、頷かないで欲しかった。
俺は男と夢を共有したかったのだ。
「エドワード」
エドワードとは俺の本当の名前だ。
俺は、男にそう呼んで欲しかったのだ。
しかし、今の俺にとってはもうどうでもいい。
金銭関係なしの俺をなくした男が遊女を買おうが。
「もう、来ないのか?」
俺を置いていくのか、と男は問うていた。
俺は肯定も否定もしなかった。
それが俺の答えだ。
ふと、俺は少女を殺したことを男に言おうかと思った。
その少女が妊娠していた子供が死んだことも。
しかし、何故そこまで親切に教えてやらねばならないのかという思いに駆られ、止めることにした。
傾城屋への帰途、俺はある子供と出会った。
というよりも、子供が俺の後を追ってきていたのだ。
恐らく、鉱夫の娘なのだろう。
「何か用?」
俺は振り向き、そう声をかけた。
坂道を登れば、傾城屋まであと少しという距離だった。
「あなた、あの人の知り合い?」
「あの人?」
誰のことを言っているのか解らない。
それに、俺はからめ婦のように、子供に見下した視線を投げかけられるのかと思っていたので拍子抜けしていた。
子供は顔に同情を貼り付けていたのだ。
道を行き交うからめ婦は俺を知ってか、忌むべき者にあったという顔をしているというのに。
「そう。貴方が出てきた家に入ってきた女の人」
だとしたら、それは少女のことだろう。
もしかしたら、彼女は買われたのではなく、自分から誘ったのだろうか。
しかし、だとしたら何故男は嘘を吐いたのだ。
少女に同情でもしたと言うのか。
同じ病気同士だからと傷の舐め合いをしたと言うのか。
俺の視線を受けて、子供はいたたまれないように顔を俯かせた。
「だから、そんな悲しそうな表情する事はないわ」
程なくして、山が廃山になったと楼主が言った。
夢を追っていた山先は、山師と共に別の山へと足を向けた。
こうなると、俺は別の店に行かねばならない。
近いうちにそうなるだろうと解っていたものの、心が軋んだ。
しかし、俺には別の道が残されていた。
身請けだ。
少女が無縁墓に埋葬されてから、数日たったある日のことだった。
ふらりと男がやって来たのだ。
男が放っていたのは、金の臭いだった。
それに群がるように、楼主が「ちょっとうちで遊んでいきませんか?」と声をかけた。
指名されたのは俺だった。
その男は、その後、何故か俺を身請けしたいといった。
これは正に千載一遇の好機だった。
それが、例え好きな男でないにしろ――。
俺は今日答えを出すことにしている。
答えは勿論、肯定だ。
しかし、俺の心に懸念の渦が巻き起こっている。
何故自分が指名されたのか、そのことについて。
もしや、俺が少女を殺したことを知って、俺を身請けしたいといったのではないかと思ってしまう。
近頃では、遊女は誰も俺に声をかけない。
だから、どうしたというのだ。
だからといって、俺はいつまでも金の蔦に縛られていたくない。
俺は顔を上げて、その男の顔を見上げた。
その男は整った顔を幾分歪めて、俺の顔を食い入るように見つめていた。
そこに悪意がありはしないかとでも言うように。
俺の中で悪意がいつしか形を持ち始め、化け物になろうとしている。
それを男は知っているようだった。
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