彼女の理由。
※
「何処に行ってたの?」
既に気付いていた。
少女が何をしに傾城屋を抜け出したのかは。
「別に、何も」
それは間違いなく嘘だと気付いていた。
水音が響いていた、そのことを彼女も気付きもしなかったとはとても思えない。
それとも、わざと聞かせていたのかもしれない。
そうしたら、誰かが疑問に思ってあの遊女に話をふるかもしれないとそう考えて。
しかし、それが私だとは思いもしなかったのだろう。
声が幾分震えている気がした。
彼女が何処を洗っているかは見当がついている。
客が他の客の残した匂いを嫌がるため、洗っているのだろう。
「そんなことをして、自分が嫌いにならない?」
少女が誰のところに忍んでいったのかは知っていた。
以前、銭湯に寄ろうとしたときに、見かけたのだ。少女が長屋へと足を踏み入れたのを。そして、偶然にも見てしまったのだ。その相手が自分の同年代の遊女とどんな関わりを持っているかを、知らないわけではないだろうに。いや、知っているから、敢えてそうしたのだろう。他の者を見ぬふりをしていた。
少女は直ぐにそのことに気付いたらしかった。
その歳には似合わない凶悪な笑みを浮かべて、彼女は彼女なりの自分の行為の正当性を主張した。
「私たちの命なんて石ころじゃない。それなのに、馬鹿じゃない。男に縋り付くなんて。そのことを教えてあげるだけよ」
自嘲に染まった唇には紅の跡がかすかに残っている。
はだけた着物の奥で、白い太腿が射し込む光によって鈍く照らされた。
「あなたはそうなの?」
「そうよ、みんなそうじゃない」
挑んでくる瞳に、かすかに冷笑を浮かべる。
「あなたがそう思いたいだけでしょう」
そう、彼女にはもう何も残されていないのだ。
何もかも彼女一人が負わされて、ただ一人で借金を返済していかなければならない。
しかし、それは私も同じなのだ。何処までも絡みつく蔓を追い払っていかなければならない。
「知っているのよ。貴方好きな人がいるでしょう。いつも夕方になると窓を開けてるもの。
その人を見ているのよね。でも、その人だってここに来れば、私ともしているのに」
最後の砦が崩壊してしまった。
破綻が来るのが目に見えていた分、私はそれを壊すことに一役を買ってしまった。
わかっていることをどうして口にせずにはいられないのだろう。
「あなた妊娠していることに気付いてた?」
「え…?」
知らないだろうと思っていた。
出産の経験がないからだろう。
下腹部に目を落とす。
「その子はどうするの?おろすの?産むの?おろすのだったら、私が手伝ってあげるわ。
方法は知っているから。とっても苦しいけど、避けて通れないもの。遊女をしているのなら」
「え?」
「……産むつもりだったら、どうなるかはわかるわね?」
現実を突きつけられたことは、以前自分がされたことだった。
そして、少しずつ諦念が沈殿していくのだ。少女は未だ諦め切れてない。しかし、この妊娠の発覚は少女に現実を促すだろう。
戻れなくなってしまったことに対して。
踵を返して、歩き出したそのとき、少女のか細い声が聞こえた。
「………………帰りたい」
言葉の端々は涙が混じっていた。
背中越しでもずるずると床に屈みこみ、現実に喘ぐ少女の姿が瞼に浮かんだ。
「母さん、父さん、何で迎えに来てくれないの?もうこんなとこやだよ……」
そして、それも昔私は願ったことだった。
自暴自棄になり、少女がその身体の明らかに負担にかかるくらい客をこなし始めたのはそのときからだった。
資本が身体のこの商売では明らかに無茶なやり方だった。
それでも、やらずにはいられないのだろう。
少女が自殺したのは、それからまもなくだった。首を吊っていたのだ。
私はそれを少女が首を吊った二階のその手すりの下から眺めた。
隣には楼主も、他の遊女も集まっている。楼主は店の看板のことをひたすら気にしていた。
そう、確かに私たちの命など石ころだった。
私はふと話をしたくなって、近くにいた遊女に顔を向けた。その遊女は、あの少女と同年代だった。
しかし、違うのは経験だろう。五年もの差があった。だからこそ、少女は自分と比較せずにいられなかったのだろう。どうして、と。
どうして未だ夢を見ていられるのよ、と。
自分も同じなのに、それをどうしても認めることが出来なかったのだろう。
それが無駄なことだと知っていたから。それは他の者も同じであるのに。
その遊女に負の光が宿っていることに気付いたのは、だから私だけだったのではないだろうか。
明らかにその場に不似合いな笑みも少しだけ覗いたことに気付いたのも。
負の光は、少女のものととても似つかわしかった。
彼の理由。
※
時々、とてもあの女のことを疎ましいとそう感じるときがある。
愛しいとそう思う割合の方が高いのだが、それでも、その割合に変化が現れ始めたことを自分自身感じていた。
女はただ分け与える誰かが欲しかっただけなのだ。
こうしてただ二人で寝床に納まっているときは特にそう感じた。
俺とてそうだ。ただ温もりが欲しかった。鉱山では死を見過ぎている。
「この前、落盤があったんだってな」
ふと、女が口を開いた。俺が今何を考えているのか当てたかのようだった。
聡い女だった。なら、言えば俺がどんな気持ちになるのかわかるだろうに。
「あった」
自然と重苦しい口調になる。鉱山で落盤はつきものだ。山を掘っているのだから、当然の話だった。
「どんどん酷くなってくな、この山も」
俺の心配はしていないらしい。自分の行く末を心配しているのだろう。
山を離れるか、そう思った。しかし、友子に縛られている俺にはどうしようもないことだった。
逃げるか。
そんな思いがふと湧き上がった。
この山に幾らいても、何も出てこないだろう。あまりに徒労だった。
それでも、山先は自分の夢を捨て切れないらしく、この山に依存している。
「でも、落盤は山につきものだしな」
女の言葉は正しい。しかし、今はその言葉が腹立たしい。いや、女の存在そのものが。
お前は見ていないから。
落盤が起き、岩に呑み込まれ、潰れている嘗て同じだった仲間たち。
お互いの境遇から色々なことを喋り、酒も飲み、気安くなっていた。
それなのに、その一瞬で何もかも失われていた。使い物にならないと新たな坑道が掘られる始末だ。
死体は掘り出されることもなく、そのままにして。その何人かに女房も、子供も、父親も、母親も待っていたかもしれないのに。
ただ、自分のことばかり考えている女に酷い苛立ちを覚えた。
お前は何も見ていないから。
女がどれだけの借金を抱えているのかは知らなかった。
身体が資本なのは鉱夫と同じだが、借金が返せると思えるくらいには、容姿も整っており、若い。
身請けされることもあるかもしれない。こんな山に閉じ込められていなければ。
女が起き上がり、着替えを始める。それを隣で無感動に眺めながら、着替えが終わるのを待った。
終わったところで、いつもの台詞を口にした。自分自身本当に望んでいるのかわからない台詞を。
「明日も来て欲しい」
女が僅かに逡巡するのがわかった。
簡単に来られないことを知っているからだろう。
勿論、俺も知っていたことだった。
女が土間の戸を開け、消えた後も俺は暫く寝床に横になっていた。
寝ていなければ身体の節々が痛むのだ。それに、やはりよろけではないのかとそんな危惧に襲われる。
よろけで死んでいった者も多く見ている。
足音が近付いてきたことにふと気付いた。
女が立ち去った後に、別の女が図ったようにやって来るのだ。
それに気付いたのは、先日のことだった。
「入っておいで」
意図して、優しい言葉を掛ける。そうでないと気後れがして、逃げ出してしまうのを知っていた。
未だ少女なのだ。自分がしていることに罪悪感を持ち合わせていることなどお見通しだった。
極端なほどに顔色が悪いのだ。それでも、しなければならない程に追い詰められている少女を手元から放そうとは思わなかった。
少女の胸の内にあの女がいることなど知っていた。
きっと、突き放せばこの少女はもう二度と固執したりはしないだろうこともわかっていた。
それでも――。
がらりと戸がゆっくりと開けられる。覗いたその顔はいつもと同じく顔色が悪かった。女の気持ちを表しているかのように。
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