夢語り
髪結い女が何を言う、とふと思った。
それなのに、言葉は決して間違ったものではなかった。
だからこそ、視線が鋭いものへと変わった。
「私、あの子が死んだのって納得がいかないんです」
髪結い女は未だ二十を超えたばかりだった。
歳が近い遊女と仲が良くなることもあるだろう。
髪を櫛で梳きながら、目は確かに鏡の中を覗いていた。
それなのに、行動と心は別だとばかりに、女は口を開いた。
「あの子、他の遊女と言い争いをしていたんです」
口に出した名は、つい先日身請けされた遊女。
そして、その後に少女は死んだ。
「じゃあ、何?じゃあ、その遊女が彼女を殺したというの?」
「だって、そうじゃないと納得が出来ないんです」
もし、今の会話を楼主に聞かれてでもしたら、とそう考えてしまう。
しかし、楼主は気にしないのではないだろうか。
警察をうまく丸め込んだ手腕は楼主のものだ。
誰もが、心の底ではあること思っている。
彼女は殺されたのだと。しかし、誰もそのことを口に出す者はいなかった。
少女の死体には手の跡がついていた。
縄によって圧迫されたものではなく、人の手によって圧迫されたもの。
縄の跡も勿論あったが、それは恐らく、後から細工したのだろう。
ぶらんぶらん、と二階から足が揺れていたその白さ。
一瞬、あまりのなまめかさに目を奪われた。
澱が、心の底に溜まっていくのがわかる。
殺されたのだとしたら、その原因は――――。
「自殺したのよ、彼女は」
その彼女の顔を振り払うようにそう言うと、ぎゅっと髪結い女が唇を引き結ぶのがわかった。
こんな苦界で、自殺しない者を知らない。
自分だとて何度苦界から逃げ出そうと自殺を考えたことだろう。
飛び降りようか。
手首を切ろうか。
舌を噛もうか。
それでも、躊躇われたのは、自分がいなくなれば、家族が苦しむからだ。
金の蔦に絡まれて、身動きなど取れやしない。
それが、遊女なのだ。
しかし、もし、彼女が殺されたのだとしたら。
それは。
思い耽っていた私の耳に力強い言葉が響いた。
「他の人だってそう思ってます」
どうして、そこまでこだわるのだろうか。
それは、あの少女を助けられなかったからなのだろうか。
きっと、一番あのとき気付けたのは、彼女だったから。
「誰もそんなこと…」
「少なくとも、あの男はそう思っています」
「誰のこと?」
特定の誰かを指している言葉に私は反応した。
「あの、遊女を身請けしてった人です。だって、何人かに聞いてましたもの。そんな不吉なことして。それなのに、身請けするなんて
絶対何かあるんです」
遊女が自殺することは稀なことではない。
しかし、わざわざ聞き出したのだという。
それは、もしかして、殺された遊女と何か関係があったのではないか。
「絶対何かあるんです」
「いい加減にして」
不愉快だった。
これ以上何を掻き回そうというのか。
「あなたはお喋りにきたんじゃないでしょう?仕事をしなさい。手が止まっているわ」
借金を返さなくてはならない。積もり積もっていく鎖。
「だって」
そう続けて言おうとした言葉を髪結い女は止めた。
話をしても無駄だと踏んだのだろう。しかし、続けた彼女の目には涙が溜まっていた。
「だって、あの子帰りたいってずっと言ってたんです。好きな人も故郷にいるって。
その人の女房になるって約束もしてるって。すごく嬉しそうに話してて、その為にずっと頑張ってて、それなのに」
そんな可哀想です、しかも、妊娠してたなんて。
感傷に浸るわけにはいかないのだ。
遊女の事情など皆似たようなものなのだから。
日課の、窓からの景色をふと眺めた。
もう見る必要などなかった。
私が見たかった景色はもうない。
一度、二度、抱き合っただけの男が見たかった。
その男はこの前の落盤で死んだのだとそう聞いていたから。
それでも、どうしても、見てしまう。
人の死などたくさん見てきた。
いつか、私も死ぬのだ。
泣きじゃくっていた少女の姿が浮かんだ。
妊娠のことが衝撃だったばかりではなく、死の予感を感じていたのだろう。
「母さん、父さん、何で迎えに来てくれないの?もうこんなところやだよ…」
その後も泣きじゃくる声は続いていた。
しかし、誰も彼女を助け、慰めてくれる者などいなかった。
その後、彼女がそれでも、助けを求めたのは誰だったのだろう。
咽喉の奥で呟いたその名は確かに男のものだった。
頬をぴしゃりと叩かれたようだった。
今、思い出した。
彼女が口にした男の名前と、この傾城屋で遊女を身請けした男の名前は同じだった。
※
少しだけ、話をしてもいいですか、とそう切り出したのは、遊女だった。
時間は夕刻。
そして、彼女は長屋へと入ってきた。
人の目をあまり気にしていないようだった。
風呂上りだから、あまり時間がないとそう言ったものの、彼女は居座る気なのではないだろうかとそう訝った。
「彼女は殺されたんです」
そう言う目の前の女を、俺はどうしようもない気持ちで見つめていた。
「どうしてそんなことを言うんだ?」
「どうして殺されたのか貴方はその原因を知っている筈です。殺したのは、貴方が親しかった」
女の名前が出される。
今は、この山では見かけない、身請けされた遊女の名前だ。
長屋での逢瀬だ。
知らない者がいない筈がない。
それなのに、黙っていたのは波風を立てたくなかったからではないのだろうか。
「どうして、そう思う?」
「本当にわからないんですか?」
わからない筈がないのだ、という彼女の瞳は鋭いものだった。
「だとしても、俺に何をして欲しいんだ?」
「それは…」
言いよどむその女に言うべき言葉を見つけられない。
早く、眠りたかった。
仕事が終わったばかりで徒労が染み付いているその身体を休ませたかった。
次第に咳が激しいものへと変わっていくのを実感していた。
殺されたと言ったのは、間違いなくこの前、死んだ遊女のことだろう。
殺されたという。
殺す理由はどこにあるというのだろう。
ふと、いつも抱いていた女の姿瞼を過ぎった。
抱いたのか、とそう言った女の姿を。
暗い瞳がただ、俺を見つめていた。俺の裏切りを静かに責めていた。
もし、本当にその女が殺したのだとしたら。
それは。
「この前、彼女が身請けされたことを知っていますね?その旦那は殺された遊女の幼馴染でした。
嫁に貰うと約束もしていたそうです」
「だから、何だ?」
「その旦那は色々と調べていたそうです。勿論、少女の死の原因を。それなのに、何故あの遊女を身請けしたんでしょうね?」
「そんなの俺が知るわけないだろう」
「ええ、そうですね」
でも、とずっと立っていた遊女は形の良い唇を少しだけ上げた。
「彼女の死の原因を突き止める為じゃないでしょうか?」
「酔狂だな」
「そうですね。でも、誰だって大事な人が死んだら、何で死んだかその原因を突き止めたくなるんじゃないでしょうか?
受け入られますか?」
「もし、その話が本当だとして」
俺は何で聞いているのだろう。
「もし、原因が間違いなくあの女にあると知ったら?」
その質問に、遊女は答えなかった。
恐らく、答えはもう見つけていたのだろう。
山はもう廃山になる。
その前に山から去った女のことを思った。
そして、俺も山から去らなくてはならない。
目の前の遊女も同じだ。
去ったところで、自分の生き方はもう決まっている。
そのうえ、自分の寿命が短いことを俺は知っている。
身請けできないか、とそう夢物語のように女に口にしていたことを思い出した。
夢を叶えてやりたいとそう思ったのだ、そう口にしていたときは本心から。
俺が死にたいとそう思っていたときに、手を差し出してくれたのはあの女だったから、助けたいとそう思ったのだ。
※
俺が見つけたのは薄汚い道端に転がっている男だった。
俺は特に気にしなかった。
別に珍しいことでもない。そのまま通り過ぎるつもりだった。
他人を構っていられるほど自分の立場をわかっていないわけでもなく、その男は俺が通り過ぎた途端に、
ただの事象と片付けられた筈だった。
しかし、俺の何が作用としたのかはわからない。唐突に、俺の中で膨れ上がったものは、苛立ちだった。
こんなところで朽ちようとしている男に対して、苛立ちを覚えたのだ。男の姿は昔の俺を連想させた。
俺は不意にその男の身体を足で軽く蹴った。反応はなく、この男は死んでいるのかとそう確信させるには十分だった。
「死んでるのか?」
そう、男に問うた。
それでも、反応しない男に俺は焦れた。
男の腕を肩に持つと無理矢理、力任せに立ち上がらせた。
男の体格もあってか、女の力では重い。
それがきっかけになったのか、男の意識が浮上したらしい。
「――――君は?」
自分で立てる、と男がそう言ったので、俺は男の腕を振り払った。途端に、男の身体が崩れ落ちる。思った以上に疲弊していたのだろう。
「何に見える?」
「女郎」
「じゃあ、それでいい」
風呂上りの格好ではあったが、男の目には自分はからめ婦には映らなかったのだろう。着物も男を立たせたときに、汚れてしまった。
そう言うと、何故か男は笑ったように思える。
失礼な奴、というのが第一印象だった。
その後、男が住んでいるという長屋へと連れて行き、簡単に粥だけ作り、男に与えた。
ただ、それだけのことだった。
その後は特に話をするわけでもなかった。
もう会うこともないだろう、と漠然と思っていたのだが、生憎と外れていたらしい。
次に再開したのは、傾城屋だった。
指名された俺は室内に篭り、男が部屋に入るのをただ待っていた。
入ってきた男に俺は目を瞠った。
「何で、あんた…」
「女郎だと言っただろう?ここには傾城屋は一つしかないからな」
「金はあるのか?」
相場を知らないのか、とそう言いそうになった。
しかし、男はただ笑っていた。幼さが残る容貌に、笑みが似合う。
「勿論、知ってるよ。会いたかったんだ」
陳腐な台詞だ。女郎になってからどれだけ聞いたことだろう。その度に、笑いそうになるのを堪えていた。
しかし、今、聞いてみて心の中に点ったのは紛れもなく暖かな光だった。
それは、自分がこの男を救ったからにも要因があるのかもしれない。救ったと言えるようなことは何もしていない。
しかし、男が俺に対して何かを抱いているのは確かなことで、それだけが唯一自由にならない俺の手に入るものだとそう思えた。
「金が勿体無いから、こっちに来な」
そのまま、猫が身体を寄せるように、俺は男に向かって手を伸ばした。男は拒んだりはしなかった。
やがて、俺はそのまま男の長屋へと足を運ぶようになった。それは、別に男を愛しているからでは決してなかった。
俺はただ自分の唯一手に入ったものを、傍に置いておきたかっただけだった。真綿で首を締めるように優しく――。
当然、身体は何度も男の前で晒している。
いつか、二人の間で交わされるようになったのは、甘い甘い約束だった。
決して果たされることはない約束。
「身請けできたらよかったんだが」
決まって、男はそう口にした。叶う筈がないことを知りながら。
「別に、身請けなんてしなくてもいい。こうして、一緒にいられれば、それで」
足を他の男にも開いておきながら、言うような言葉ではないのは実感していた。これからも、他の男に足を開くのだろう。
借金を返し終わるまで。
ぎゅっと男の手を握り締める。そして、男の身体に抱きついた。肌が密着し、汗が混じるのを感じずにいられなかった。
今までどんな遊女を見てきた。いつか、自分もそのどれかに当て嵌まるような気がした。
それでも、こうして二人で一緒に時を過ごしている間だけは、決してそんなことを考えたりはしなかった。
何も考えず、自分が胎児に戻ったような感覚すら、覚える。
「なあ、鉱夫の仕事やめれないか?」
ふと、このまま安らぎを感じたまま、死ねたら、とそう思う。
しかし、このまま死ぬことなど出来ない。
「無理だ」
返答はわかっていた。しかし、言わずにはいられなかった。落盤が続いていた。
それに、いつ男が巻き込まれるのかとそう思うと、せっかく手に入れかけていたものが失われるような喪失感に襲われる。
この男がいれば、いつか手に入るような気がするのだ。自分が今まで欲しかったものが、漸く――。
「なら、いい」
男の身体から、身体を離し、俺はそれを機に、着替えを始めた。未だまどろんでいたかったが、そろそろ鐘が鳴り始める頃だ。
名残惜しいとも思ったが、欲しい言葉をくれない男の傍にずっといても無駄な気がした。
仕事をやめて、ずっと傍にいる、と言って欲しかった。
それでも、俺はずっとこの男の傍にいられれば、何か得られるような、そんな気がしていたのだ。
それはもしかしたら、昔忘れてしまったものだったのかもしれない。
いつからか、この苦界に落とされて忘れてしまったもの。
何故か、そんな昔のことが思い出された。
俺は目を開けて、自分の今いる場所を眺めやった。
大きな屋敷の部屋の中に、私は布団の上で丸くなっていた。
隣には火鉢が置いてある。
何故、今更昔のことを思い出したのだろう。
「拾わなければ良かった」
あのとき、男を拾ったりしなければ。
幸福を掴んだ筈なのに、不意に泣き崩れそうになる。
どうして、今更こんな想いに心が締め付けられなければならないのだろう。
「何を?」
猫の子でも拾ったの、と若旦那が縁側に佇みながら、こちらに顔を向けた。
「いや」
布団の上から起き上がる。
届いてくる日差しが目に眩しい。
「そう」
にこりと笑ってから、若旦那は庭に顔を向けた。
「やめることになったから」
「誰が?」
「子供ができたそうで。もう歳も40近い。大事に育てたいのだろうね」
漸く、誰のことを言っているのかがわかった。
「暇をやらせた。代わりに彼女の姪が君の身の回りを見てくれるそうだ」
「わかった」
奉公人のことだ。
目の前の旦那は物分りの良い主人を演じている。
しかし、その反面、俺はよくわかっていた。
(知っていないとでも思っているのか)
俺は日当たりの良い室内の襖の奥へと目を向けた。
屋敷の一番奥にある部屋には、使われていない部屋がある。
その部屋は誰かのものだった。
しかし、その持ち主はもういない。
奉公人同士が話をしているのを聞いたことがあるのだ。
俺ではない、本当に若旦那の隣にいる筈だった女の部屋だ。
一度だけ入り、そして後悔した。
俺は、その代わりなのだ。
何故、遊女の俺だったのかはわからない。
奉公人にも、本人にもそのことを聞けない。
着物に、奉公人に、休まる与えられた部屋。
全て金で手に入るものだ。
若旦那はこの村の地主だった。
冬の気配が強まる空気に、俺は大きく、息を吸い、吐いた。
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