夢語り
このところ、不審な男を見かけるから、気をつけなさい、と若旦那が土間にいる奉公人たちにそう告げた。
俺は気にしたりなどしなかった。
関係ないことだとそう思っていたからだ。
だから、たまたま屋敷から出て空気を吸いに行ったところ、自分を見る視線に気付いたときはただ、驚くばかりだった。
あの屋敷の奉公人たちは俺が元遊女だということを知っている。
だからか、時々酷く息が詰まる。
視線が何故、こんなところにいるのだと語っているようで。
近付き、深く被った傘の下から覗いたのは、懐かしい顔だった。
花びらのように雪がちらほらと空中で舞っている。季節は冬だった。
「一緒に逃げよう」
そう言われて、男の手が俺の腕を掴んだ。
しかし、逃げたところで行き場などなかった。借金を残して逃亡することは、家族への裏切りだとも思っていた。
その借金を一体誰が払うと言うのか。
借金を払うまで、自分を覆う蔦を払いのけることは出来ない。だから、ずっと息を潜めるように、ただただ生きてきたのだ。
「………行けない、あんた一人で行って…」
力なく、手を払いのけ、俺は地面を見た。雪で埋まった地面を。
「それに、今の旦那はいい奴だし、金持ってるし、奉公人もいる。
何でわざわざ逃げる必要あるんだよ?逃げてどうする?傾城屋から逃げた奴に待っていたのは仕置きだ。
あの屋敷から逃げ出したら、仕置きじゃ済まないだろ?」
あんただって、ただじゃ済まない、そう言外に告げる。そうしないと気持ちが揺らいでしまいそうになる。
一瞬、男の顔が歪んだ気がする。もしかしたら、未だ躊躇があるのかもしれない。それなのに、何が男を駆り立てたのか。
「…………君は殺される」
「は?何だよ、殺されるって。私が誰に?」
「話を聞いたんだ。屋敷の若旦那は何かを探していた」
俺が知らない話をこの男は聞いたというのだろうか。
それは、俺には知られたくない話なのだろうか。
「何で、殺されなきゃならないんだ?」
「少女のことを覚えているか?君と同じくらいの歳の。一緒に遊女をしていた」
「覚えてない」
忌まわしい記憶だ。何度も夢の中で魘された。
「いや、君は覚えている筈だ」
俺は意味なく、今では、俺の居場所となった屋敷を見遣った。屋敷の門にかけられた二つの提灯が頼りない光を放っている。
風を受けて今にも消えてしまいそうだ。
先ほどまでその門の先、土間を通った囲炉裏端で奉公人と話をしていたのだ。
蓑と傘をつけている男は、今にもこの場から離れてしまうようなそんな頼りない気配を漂わせがらも、
その場から消えることはなく、両眼は俺に向けられていた。
「その少女を殺したんだな?」
俺は答えなかった。答えないことが肯定を示していた。理由を男は訊ねなかった。
きっと理由をわかっているのだろう。
なので、代わりに俺が質問した。
「何処に逃げるんだ?」
男が向いた方向には山が聳え立っていた。
俺は驚きに目を瞠った。
あの山には熊がいる。だからこそ、男は逃げ場所に選んだのかもしれない。
しかし、あまりに危険すぎる。それに、雪も積もっているのだ。雪山には慣れていない。
隠れることが出来たとしても、山では狩りも行われている。そこで見つかったら。
ぐるぐると視界が定まらない。
行くべきか、行かないべきか。
行かない方がいい、そう心の中で思っている。
しかし――。
「あの少女は、屋敷の若旦那の幼馴染だ。ずっと探してた。だから、死んだのを知ったとき、いろいろと探っていた」
俺はそのことを知らなかった。閨の中でさえ、あの男は一度としてそんな話をしたりなどしなかった。
そのときから既に疑っていたのだろう。
他の遊女からそのような話を聞いたこともない。その頃には、俺に声を掛ける遊女など余程の用事がない限り、いなかったから。
旦那の俺に対する態度は優しいものだった。しかし、時々例えようもなく怖くなることがある。
どうして、あそこまで優しく出来るのかわからない。まるで、真綿で首を締めるような優しさが。
絹蒲団に、双六に、友禅の着物に、惜しみなく注がれる金。
背筋がぞくりと冷えた。誰かが俺を背後から見ている気がした。
振り向いたその先、少女の瞳が俺を見つめていた。
少女の瞳は塗り潰されたように黒く、門にひっそりと佇んでいるその姿が無気味だった。
奉公人の娘だ。いつまでも戻らないので、気になったのだろう。
「早く…!」
見られている、そう思った途端、事態は俺の手の届かないところへと向かっているのだ、とそう思った。
手を引かれて、俺はそれに逆らわなかった。
少女が囲炉裏端に勢いよく駆け込んできたとき、若旦那はそれみたことか、と言わんばかりに口元に笑みを浮かべていた。
少女の目にはその若旦那が何を考えているのか計り知れないところがあり、恐ろしかった。
恐ろしい、というものだけではない。時々、目が虚ろになっている気がするのだ。
確か奉公人が他にもいた筈なのだが、囲炉裏端には他に誰もいない。もしかしたら、席を外させたのだろうかとそう穿つ。
「どうしたの?」
それでも、訊かれたら、答えずにはいられない。
唇が震えるのは外に出ていたからなのか、そうでないのか。
「若奥さんが知らない男と一緒に出て行きました」
「そうか」
淡々とした口調に若旦那はこうなることを知っていたのではないかという危惧が湧いた。
様子を見ておくんだ、と初めに若旦那にそう言われたのはこの為だったのだろうか。
出来るだけ傍にいて様子を探りなさい、と。
少女が聞いていたのは、奥方が昔、遊女をしていたということだった。
だから、心配なのだろうかとそう思っていた。
しかし、そのことを奉公人の多く知っていた。
悪く言う者もいた。何故、あのような女を女房にしたのかと。
決まって次に口に出されたのは、仕方ないだろう、好きな女は死んでしまったんだから、というものだ。
何故死んでしまったのかはみな、わからないのだろう。その先になると、口が閉じる。
ただ、若旦那はその女を捜しに、この村を出ることが度々あったらしい。そして、それは奥方が来てから、止んでいた。
何故だか、雪女の話を思い出した。雪女は正体を知られて、帰って来なくなった。
「何処に行ったのかはわかる?」
「山です。山に…」
声が尻つぼみになっていく。
山に二人は駆け出していった。あの山には熊がいる。何人も熊にやられた者を見ている。何となく、二人は死ぬだろうとそう思った。
「そう」
そのとき、少女の目には若旦那は無邪気な笑みを浮かべているように見えた。本当に赤子が見せるような、そんな笑みを。
もつれる足を叱咤し、何とか山の斜面を駆け上がり、岩穴を見つけたとき、迷わずそこに住むことに決めた。
一生住むわけではない。それでも、きっと言葉にするなら、住むという言い回しが一番しっくりとくる。
そこは沢に近く、飲み水にも困らない。
空は灰汁を流したように曇っており、そに下に広がる雪の斜面も同じ色に沈んでいる。
それでも、未だ足りないのか、今にも雪の切片が空から落ちてきそうだった。
俺は岩穴を見遣った。そこに男がいる。
両手を広げたような木々の間にいる岩穴は、すっぽりと雪に覆われ、足跡がなければ、見逃してしまったことだろう。
溜息が白く凍りつく。
「食べ物を捕りに行って来る」
岩穴から出てきたかと思うとそう男は言い、食料を取りに何処かしらに向かっていった。
岩穴に戻り、俺は男がつけただろう火床の前へと立った。
どうしても、考えてしまうことがある。
殺される、とそう男は言ったが、それは嘘ではないだろうか。
ただ男は幸せになった俺が許せないのではないのだろうか。
一度は情を交わした間柄なのに、どうしても猜疑心が俺を擽った。
その原因はわかっている。
俺はいつからか男を自分の所有物のように思っていたのかもしれない。
それが間違っていたことを知らされて、自分に幻滅も覚えている。
「寒い…」
例え、岩穴に隠れているとはいえ、確実に寒さからは逃れられていない。
屋敷の中だったら、とそう思ってしまい、その度に今更だ、と考え直す。
奉公人の娘は若旦那に男と一緒に山に行ったとそう言っていることだろう。
だとしたら、戻ったところで追求されるだろう。
言い逃れをしたところで、一旦湧いた猜疑心は消えたりしない。
―――俺のように。
とりとめのないことを考えながら、何刻経ったことだろう。
男が岩穴の前に現れた。
手には狢が握られていた。
初めは足手まといになると思い、男が食料、あるいは薪を取りに行くのを待っていた私だったが、次第に俺も動くようになった。
雪に保存しておいて狢も残り少ない。
腐ってしまうのを恐れ、早めに処分をしていた。
別に何処に行くとも知れないそんな山の中を男と二人、肩を並べて歩いた。
二人の間に会話というものは存在をなかった。
一緒にいるというのに、どこか男との距離を感じる。
それに、何を話せばいいというのだろう。
もし、自分たちの関係を言い表す言葉があるとしたら、仲間だろう。
以前のような甘美な響きはそこにはない。
何処に向かうとも知れない。
が、何となくではあったが、以前狢を仕留めた辺りに向かうのではないかと思った。
雪を踏みしめ、ただただ歩く。
いつ熊に会うかもしれないという不安の中、木立の間を抜けていく。
不意に木立の間から黒いものが飛び出した。
熊だ。子牛ほどの大きさだ。
俺は金縛りに遭ったかのように動けなかった。ただ一点に目が吸い寄せられる。
熊は音のする方に絶対に行かないと聞いている。
だとしたら、今、声を張り上げなくてはいけないのだ。
それなのに、体が動かない。
椿の実のように鈍く光る二つの目。塗れた茶色の鼻。
男がそんな俺に気付いたようだ。そして、熊に気付いた。
緊張した気配が伝わってくる。
「動くな。大人しくしていれば、熊は襲わない」
そうなのか。俺は熊に対する知識はあまりなかった。
若旦那が時折、狩に出掛けているのを知っていた。
狩装束に身を固め、頭には黒い風呂敷と山笠、狢の皮の胸当て、麻の雪袴。
どうして狩に行かなければいけないのか、俺にはわからなかった。
しかし、今、熊と相対して、その意味がわかった気がした。
―――――山は怖いところだ。
俺は現実から目を背けるように、目を閉じた。
そして、目を開けた。
熊の顔はあの少女に変わっていた。死んだ少女に。少女はにやりと笑った。
恐怖のあまり叫びだしそうだった。
俺の目からは涙が零れていた。
「大丈夫だ。騒ぐな。騒げば、襲われる。熊も人間が怖いんだ」
冷静にそう言う男の言葉がとても遠くに聞こえた。
男のことがよくわからなかった。
鉱夫だというのに、どうして、熊について詳しいのか。
熊と相対して何故、そこまで、冷静でいられるのか。
何もかもわからなかった。どうして、自分がこの場所に立っているのかも何もかもわからない。
俺が覗き込んだ隣の男は僅かながらも、興奮に顔を赤くしていた。
それが更に俺を当惑させた。
その男の腕が俺の肩に不意に置かれた。
ぴくりと体が震えたのがわかる。
それは恐らく、俺を励ますためなのだろう。恐怖に引き裂かれそうになっている俺を。
しかし、今、俺が何より恐怖を覚えているのは何よりもその男だった。
「…………離せっ」
金縛りは解け、思わず男の手を振り払っていた。
振り払われた手に、男は仕方ないとでも言うような笑みを浮かべていた。
それが怒りを招いた。
結局俺は男の掌で転がされている女でしかないのだ。
金がないからと売られ、遊女になり、仕方がないとそう諦めていたものが不意に蘇る。
もう嫌だ。何もかも期待するのはよそう。どうせ夢は夢でしかないのだ。
あの少女のことが瞼に浮かんだ。
もう、熊は少女に重なったりはしなかった。
そのとき、男が咳き込んだ。
それこそ、死にそうな咳だった。
よろけだ、とそう言った男の言葉が蘇った。
熊の唸り声が響き、動き出す気配を感じた。
一刻の猶予もなかった。
のそりと大儀そうに歩いてくる熊に、それでも、男の咳は止まらず、背中を曲げていた。
と、男の体が耐え切れなかったように屈められ、雪の中に沈む。
「おい、大丈夫か?」
ごほごほと咳をする男の姿を見たことはなかった。
いつも会っていた長屋の一室で男はずっとそんな弱い姿を晒さないように気をつけていたのかもしれない。
手で抑えているものの、咳は止まらない。
「早く逃げないといけないのに」
熊との距離は何間なのだろう、考えることを最早放棄してしまっている。
男を助けないと、とそう思った。心の底から愛しいと思った。怒りはいつの間にかすっと消えていた。
それでも、俺には出来ることがない。そのことが悔しかった。
俺は不意に石を拾い上げ、それを熊に向かって投げた。
石は熊の頭にがつんと当たった。
熊の目が怒りに燃えている。
「こっちだ!」
俺は自分が囮になり、白鶴模様の着物を翻し、駆け出した。
直ぐに熊が追ってくる。
雪に足を取られ、動くのは大儀だった。
それでも、一心に足を動かした。
木立の中の道は、くねくねと曲がりながら、山の尾根へと続いている。
天に向かってまっすぐに伸びる木々の先では、灰色の雲が西から東へと川のように流れている。
湿った弱い風に吹かれて、葉のない枝が空を引っかいている。
尾根に向かって一体自分はどうするつもりなのか、そう思いもした。
が、今は男とこの熊を引き剥がすことが一番だった。
熊は四肢でゆったりと雪を蹴って、尾根へ向かう俺を追いかけてくる。
振り返るまでもなく、もうすぐ、熊の前脚が引っかかりそうだった。
温かい息が俺の肌に吹きかかった。
本当に、もうすぐ、というところで銃声が響き渡った。
突風に煽られたように、俺は雪の上に叩きつけられた。
一瞬、自分が撃たれたのかとそう思ったが、血は何処にもついていない。
起き上がり、ゆっくりと振り向いたそこには、熊が、仰向けに倒れていた。
顔のあったところは、石榴が弾けたように潰れていた。
周囲は地溜まりだ。雪の上に血の花が咲いている。
雪が広がる斜面の下、男がゲベール銃を構えていた。
彼が熊を撃ったのだろう。
その男の姿は山笠を被り、背中にはカモシカの毛皮、腕には猿皮の筒袖と猟師の格好だった。
山笠の縁を持ち上げ、俺を見たのは、旦那だった。
俺は審判の時を待つような気持ちで旦那がゆっくりとこちらに向かってくるのを待った。
熊から逃れられたかといって、安堵は覚えなかった。
「やっぱり、裏切ったね」
旦那はそう言った。
疑っていたのか。
男と逃げたことが確信になったのだろう。
旦那がゲベール銃を構えている。照準は今度は俺だろう。
「もし、君があのまま大人しく僕の妻でいてくれたら、許すつもりだった」
「嘘だ!」
俺はその言葉に揺るぎそうになる自分を叱咤するように怒鳴った。
旦那の指が引き金に手を掛かった。
「君が殺した遊女と僕は幼馴染だった。いつか、嫁にもらうと約束してた。彼女を身請けするために支度金も用意していた。
でも、もう彼女は戻ってこない」
悲痛に響いた言葉に、俺は奥歯を噛み締めた。
旦那は俺を殺すつもりなのだ。
「君には君の全てを懸けて償ってもらう」
どうしてあの少女があれほどまでにがむしゃらに働いていたのか、その理由が目の当たりになる。
あの少女はそれほどまでに自分を待っている人のところへ戻りたかったのだ。
いいじゃないか。待ってくれる人がいて。俺には何もないのに。
だからこそ、居場所が欲しかった。それなのに、手に入れたと思っていたものは、いつの間にか手をすり抜けていた。
それでも、ふと思う。
もしかしたら、男とあのままでいたら、きっと仲直りもできて、二人の間の溝も埋められたかもしれない。
どうして人は夢を見ずにいられないのだろう。
それが不思議だった。
それとも、それが人だということなのか。
俺は目を閉じた。
そして、二度目の銃声が響き渡った。
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