夢語り
死、というものをこれほどまでに身近に感じたことなどなかった。
それほどまでに、ゲベール銃は脅威だった。
しかし、銃が俺の身体を打ち抜けることがなかった。
何故なのか、その疑問を若旦那へと向ける。
しゅうしゅうと息を吐いているゲベール銃は下を向けられていた。
「何故?」
「もう二度と山を降りて来るな」
冷たい声だった。この寒さの中で、声までもが凍ったような。
「狩人たちに君のことは伝えておく。もし、君が山を降りてくるようなことがあったら、撃つように」
警察の世話になるのではないかと、そんな余計なことは言わなかった。
権限は、きっと目の前の男は持っている。
さくさくと音を立てて、若旦那は背を向けて歩き出した。どうしてなのか、背中が小さく見えた。
俺は横には熊の死骸があり、そこから血なまぐさい臭いが漂ってきた。
白鶴模様の着物も、その熊の血で薄汚れていた。
熊から目を背け、俺は、尾根伝いに必死に咳を堪えていた男の元へと向かった。
若旦那の気持ちが変わる前にとそう思ったのだが、振り向いても、そこには白い世界が広がっているだけだった。
もつれる足をただただ進め、やっと、男を見つけたときには安堵で膝を落としてしまった。
男は俺を見つけて、「鉄砲の音が聞こえたんだが」と目を一杯に広げていた。
「殺すつもりはなかったらしい」
「それはどういう?」
「戻ろう。岩穴へ。話すから」
俺は何とか立ち上がって男の手に手を差し出した。
それは、男に最初に会ったときを連想させた。
はっとしたかのように、男は俺の手を取った。
山の冷たい空気を震わせる小鳥の囀り、木々の枝から滑り落ちる、どさどさという雪の音。
今まで聞こえなかった山の自然の音が不意に鼓膜に響いた。
何処からか、熊の唸り声も聞こえた気がした。
岩穴の中は外にいるよりも格段に温かかった。
それはこれまでずっと過ごしていたからなのか。
壁の中に吊るされた獣の皮、床に蓄えられた薪、毛皮の寝床。
必要最低限のものしか揃えられていなういこの岩穴が終の住処になることをふと意識した。
「あの男は私にこの山から出るなとそう言った」
俺は男の隣に横になりながら、今までの説明を始めた。
「ずっとこの山にいるように」
「そうか」
隣にいるから、と互いの指に当たった。
その指をそっと握られた。
「もう、山を降りるつもりはない」
苦界にいた頃、何度逃げ出したいと思っただろう。
もう、充分だろう。
金、金、金、ただそれだけが頭を占めていた。
借金で頭が回らなくなったら、女房、娘を女郎屋に売り飛ばしたり、一家で首吊りなど周囲では当たり前のことだった。
「だから、あんたも好きにすればいい」
「友子を抜けたんだ。もう俺も戻れない。お前と一緒にいるよ」
身請けできたら、とそう言った男の言葉を思い出した。
実際には難しいだろうとそう思っていたことが、今なら出来るのだ。
身請けをされても、遊女をしていた過去はいつまでも付きまとい、路頭に迷う羽目になった女のことを知っていたけれど。
「後悔するんじゃないか?」
俺の言葉にただ、笑って、俺の頭を自分の胸に抱き寄せた。
今まで色々な遊女を見てきた。
先をはかなんで自殺した女、報われない恋に足を取られて心中した女、病気や衰弱で死んでいった女。
今の俺はどの遊女にも当て嵌まらない、この腕の中にいるだけで幸せだとそう思う。
「死んだら、何処に行くんだろうな」
俺は、突然の言葉に男の顔を見遣った。温かな火の傍にいるのに、顔が青白いままだ。
岩穴の真ん中の火床は朱色を放っている。火の光が顔に照らされているのに。
俺は、ふと男から顔を背けた。
「極楽だろう」
「どんなところだろうな」
「昔、聞いたことがある。阿弥陀さまのいる西方浄土は、幸せのあるところ、だそうだ」
「幸せのあるところか、それはいいな」
そんなところがあるのだろうか、と今まで死んでいった遊女のことを思い出した。
そして、若旦那の幼馴染だった少女のことも。
もし、死んだら極楽に行けるのだとしたら、今生きているこの世は地獄なのではないだろうかとそう思った。
程なくして、男は死んだ。
あっけないものだった。
俺は、獣に喰われないように男の死体を雪を掘ってその奥深くに埋めた。雪の中では、死体も腐らない。
置いていかれた、とそう思った。極楽に今頃いるのだろうか。
ふと、男のことを思い出していると未だ年端もいかない娘が俺の顔を一心に覗いている。三度、子を堕していた。
それでも、子を孕むことが出来たのは、子を欲したからだろうか。
「お母さん、私この前人を見たの。私たち以外の」
「何処で?」
「この前魚を取っているときに。私を見つけたら、追いかけてきたから直ぐに逃げたけど」
「そう」
「ねえ、私里に降りてみたい。たくさんの人がいるんでしょ?」
「里は怖いところだ。どんなに地獄から逃げたと思っても、里に帰ったらまた地獄に引きずり戻される」
娘が母親に言っても無駄だとばかりに黙り込んだ。
ぼさぼさの頭に、カモシカ皮の上着姿の娘は、山の子としか目に映らない。
人から逃げたのだとそういう娘が何故、里に引き寄せられるのかわかっている。
それでも、この岩穴に留めていく方法が見つからない。
いつか、言い出すのではないかとそう思ったのだ。
そして、いつか俺のところから去っていくのだろう。
それでも、先延ばしをしたくて、俺は言葉を紡ぐ。
夢を見せたりしないように。
それは女郎をしていた頃に夢を粉々に砕かれたときのことをふと連想させた。
夢は覚めるものなのだから。
岩穴から太陽の光が覗く。
きっと、今頃太陽は白い山肌を明るく照りつけているのだろう。
きしきしという微かな音が聞こえてくる。
雪が少しずつ融けてきているのだろう。
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