きっとそのときの私は笑っていたのだとそう思う。

信じられないことに、私がキング・ブラッドレイの秘書になった。 それは私の上官であるロイ・マスタングへの人質ということなのだろう。 そのとき、私の胸に去来したものは、重苦しい圧迫感だった。 大佐と一緒に仕事をするようになってから、彼の夢を叶えるのが私の勤めだと思っていた。 それは今後も続いていくことだろう。 しかし、同時にそれがとても難しいものなのだと次第に知れた。
その原因のキング・ブラッドレイのところに、今、私はいる。

少しずつわかってきた軍の黒い実態に、足が竦みそうになることが多々あった。 それでも、歩みを止めるわけにはいかないと私は近付く為の一歩を踏み出す。 それなのに。

怖い、とそう感じる。
相手があまりにも巨大過ぎる。
訪れるのは、戦場で意識したものとはあまりにも違う恐怖。

空間を切り裂くような、そんな電話の音が鳴り、私ははぴくりと肩を震わせた。 それこそ大袈裟なくらいに怯えている自分を再確認した。 自分でもわかるくらいに心臓の音が激しい。 そんな音を持て余しながら、私はベッドの上から立ち上がった。 電話をかけてくる者など限られている。 私は、躊躇いながらも鳴り続ける電話の受話器を持ち上げた。

「………はい」
「久し振りだね、ホークアイ中尉」
受話器から耳に聞こえる声が心地よい。当然のことだが、久し振りのバリトンだった。
「大佐、どうされましたか?」
「いや、最近会ってないからね、どうしているのかと思って」
「ご報告するようなことはつかめておりませんが」

ただ、恐怖だけが胸を覆って。

「はは、そうか」
きっと大佐は困った顔を電話の向こう側でしているだろう。

「ところでどうだ、久し振りに食事でも一緒はどうか?」
「申し訳ありませんが、お断りします」
「手厳しい」
「それよりも、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、それより、君は大丈夫か?」
耳に届くその声に縋りつきそうになる。優しいから、きっと受け止めてくれるだろう。 しかし、それでは逆だ。 私は、彼を支えると決めたのだから。副官になったそのときに。 きっと、心配をしたのだろう。もしかしたら、部下全員に電話をしたのかもしれない、とそう思った。 ふっと、心の中で何かが揺らぎそうになった。

「しっかりやっていますか?」

職務を全うしてますか?
食事を摂っていますか?
眠っていますか?

私がいなくても。

「優秀な補佐官がいないのは辛いが、ちゃんとやっているよ」
苦笑いするその声に、何とも言えない寂寥が込み上げてくる。
「そうですか」
「すまないね」
一番彼が言いたかったことはこれなのだろう。
「私が決めたことですから」

穏やかな気持ちに満たされながら、私は近況を話し終え、受話器を下ろした。 視線を下ろせば、いつの間にか、ブラックハヤテが私を見上げていた。 電話が終わるまで、私を待っていたのだろう。 その黒い毛並みを私は幾度か撫でると、気持ちよさそうに目を細める。

「大丈夫よ」

きっとそのとき私は笑っていたのだとそう思う。
こんな状況にも関わらず、笑えるのは何故だろう。

大丈夫だとそう何故か思った。