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報告書は私の手にホークアイから届いた。 それを確認すれば、済む話だった。 しかし、彼が司令部、しかも、執務室を見上げているのに気付いたとき、私の身体はもう動いていた。 司令部から立ち去ろうとした、その小柄な身体に背後から声をかけた。 丁度私たちは門の間に立っていて、それがまるで境界線のようだった。 「鋼の!待ちなさい…!」 私は彼に何が言えるのだろう。その資格があるのか。 私がこうして、彼を導いてきたのだ。 それなのに、今更その歩みを止めるつもりなのか。 心の中でそう自問する。答えは出ないとそう知りながら。 「何だよ」 「君は何処に行くつもりなんだ?」 「いつもと同じだよ。噂でも、何でもいい。少しでも、目的に近づけるところへ行くんだよ」 時々、この子供はもう司令部には戻って来ないだろうとそう思うときがある。 何か言いたいことがあった気がする。しかし、言葉には出来ない。 彼が見る先に、何が待ち受けているのか薄々感じ取りながらも、結局私は彼を送り出すことしか出来ないのだ。 それなりの権力を持ったというのに、無力さを感じる。 「………気を付けて」 それでも、一度だけでも、彼が振り向く、その先には執務室があるのだ。 助けてくれ、と泣きついてこればいい。そうすれば、私が何とかしてやるのに。 それだけの感情を私は彼に向けている。 一瞬、彼は困ったような、泣きそうな顔をしたとそう思う。途方に暮れた幼子のような。 「そんなの知ってる」 少し、泣きたくなった。 その代わりに、はは、と乾いた声で笑った。 子供は意外に強く、大人は意外に弱いものだ。 執務室の中では、もう直ぐ暗闇が迫ろうとしていた。 エドワードはそれに気付き、早く宿に戻らなければならない、とそう思っていた。 宿でアルフォンスが待っているし、何より、ロイがくれた情報を早くアルフォンスに教えたいと思っていた。 元の身体に戻る手がかりが掴めた、と。 いそいそと鞄を持ち上げ、別れの挨拶をしようとしたそのときに、ロイが口を開いたのだ。 「覚えていて欲しい」 そう言ったロイ・マスタングの顔を何故か覚えている。 どこまでもどこまでも遠い人だとそう思っていたのに、何故かそのときは近く感じていた。 「君たちが戻って来るのを待っているから」 そんな人もいるのだとそう覚えていて欲しい。 切実に語られた言葉に、エドワードは何を返して良いのかわからなかった。 自分が彼に対してしなくてはならないことがあるのだとしたら、それはやはり、元の身体に戻ることだとそう思っていたし、 身体を取り戻したらもう二度と会うこともない人だろうとそう思っていたのだ。 それなのに、確固とした繋がりを求められているようで、どうしたらいいのかわからなくなった。 エドワードは返答に困り、綺麗に掃除されている床をただ眺めていた。 「私は君のことが好きだから」 何て言えばいいのかわからなかった。あるいは、何を言えば正しいのかと。 結局ロイはエドワードが言葉を発する前に、「じゃあまたな」と別れを告げた。 切り捨てられたように感じたのは、返事を返せなかった為なのか、そうでないからか。 考えるよりも前に、足が飛び出し、ロイの前に立っていた。 「大佐!」 ぴくりと顔を上げたそこには困惑が彩られていた。 多分、彼はエドワードに話すには早いと思っていたのだろう。気持ちを受け取れないと。それは間違っていない。 感情を突きつけられて、どうしたらいいのか思わず考えてしまう。 それでも、言わなければならないことがあって。 「人間はいつか死ぬ」 嘗て自分が生き返らせ、殺してしまった母親ではないその人のことを決して忘れたりしない。 「いつ死ぬのか何てことは、わからない」 だけど。 「だけど、オレにも帰る場所があるってそう思っていいんだよな?」 ロイの目はどこまでも優しかった。そんな目を出来るのだと初めて知った気がした。 いや、自分が今まで目を逸らしていただけなのかもしれない。 そうでなければ、こんな言葉を貰うなどとは思っていなかったから。 ロイから貰った言葉をエドワードは大切に心の中にしまった。 たまに引き出し、確認をする。 長い終わらない旅路の中で、その言葉は大切な宝物のように感じていた。温かい、人の好意が詰まった宝物。 それはとても優しいものだった。 それ以降関係は何も変わらず、ロイはそのことを一度も口にしたりしなかった。 「なんか、兄さんいいことあった?」 「別に、ないけど」 まさか、ロイ・マスタングの言葉を思い返していたんだ、とはそんなことは言えない。 「ふうん」 それよりも、今からしなくてはならないことに集中しないと、とエドワードは思う。 今から賢者の石を所有していると思われる屋敷に突入するのだ。 勿論、生半可なことでは賢者の石があるのだという尻尾を見せないに違いない。 非合法で入る以外の手を考えられず、屋敷に忍び込むことにした。 自分たちは立ち止まるわけにはいかないのだ。 帰りを待っている人たちがいる。 「兄さん、気をつけてよ」 「わかってるよ」 帰らなくてはならないのだから。 いつの間にか眠ってしまったらしい。 あまりに此処が心地よいからだ。 起きなくては、とそう思う。しかし、起きたくないとそう思っている自分がエドワードの中にいた。 不意に怯えるようたどたどしく、髪を撫でられた。 一体誰だ、とそう思った。 指がエドワードの髪を一房一房、確かめるような仕草で掬い上げられる。 まるで、自分が幼い子供にでも戻ったような感覚を覚える。 「眠っているのか」 そうだよ、オレは眠ってるんだよ。 眠っている人間に気安く触るなよ。 文句を言いたいところだったら、眠気がエドワードを深淵にまで誘う。 思考が黒く塗り潰れそうだ。 「あんまり心配をかけさせないでくれ」 知るか、そんなこと。 勝手にアンタが心配してるだけだろ。 指から伝わってくるのは紛れもなく愛情だった。昔、無条件に与えられたあの愛情。 気恥ずかしくなって、振り払いたかった。しかし、振り払う力がなかった。 また眠りに落ちる、とそうエドワードは感じた。 ああ、ここがとても居心地が良すぎるから、いけないんだ。 そうエドワードは思った。 あんまり居心地が良すぎるから。 指が遠ざかっていくのを追いたかった。しかし、眠りがその後の思考も身体も何もかも覆い尽くした。 昔の夢を見た気がした。優しい母親の。 そこは戦場だった。 元は違ってはいたが、今は戦場としか言いようがない。 見渡す限りのそこは、焼けの原で、生きている者の気配が感じ取れなかった。 焦げ臭い臭いが周りを包んでいる。 足元に散らばっているのは、建物が崩壊した痕だった。 瓦礫の欠片がそこかしこに散らばっている。 頬を撫ぜる風が熱気を伴ったものとなっている。その場にいる者たちの気持ちが伝染したかのようだ。 空は血を混ぜたような、そんな赤い色をしていた。 黄昏時だからそんなことを思ったのかもしれない。そうでなければ、今までそんなことを思いはしなかった。 運良く死ななかった者たちは、ただただ歩みを進める。 何の為になのかは最早はっきりとしない。ただ何かがあるとそう信じて進むしかない。 戦況が悪くなるにつれて、少しずつ大事なものでさえ、剥ぎ取られていったようだった。 エドワードは隣にいるロイへと視線を移した。 ロイは普段と変わらないそんな顔をして、頬を拭っていた。 返り血を浴びても尚、平然としているその姿に、胸を打たれるものがあった。 エドワードは自分の足元へと視線を落とした。 視界に移る、群青だった制服は血で色を変え、淀んだ色をしていた。 ああ、これが戦場―――。 戦場を経験している者たちは聞くと殆どが口を閉ざした。 決していい思い出がないその戦場での思い出を語れなかったのだろう。 色々なことがあり過ぎて。 そのことが今、わかった。 不意にエドワードは足を瓦礫に取られて、よろけた。それほどまでに疲れが足に溜まっていたらしい。 転ぶ、とそう思ったときに、手を取られた。 そして、同時に身体を引き寄せられる。 必然と身体を密着する羽目になり、エドワードはこの状況にも関わらず、心臓が痛くなるのを感じた。 何故こんなにも心臓が痛くなるのか。 背中にロイの手が回っている。その手がとても温かい。 顔を上げると、今までにないくらい顔が近いのを感じた。 これほどの至近距離で彼を見たことはなかった。 「…………大佐」 「大丈夫か?」 「ちょっとよろけただけだって」 たいしたことない、とそう言う。 「君は優しいね」 気配でロイが笑っているのがわかった。 何だ、それ、とエドワードは口の中で呟いた。 未だ身体が密着したままだ。 背中に手を回したいのを抑え、エドワードは視線を落とした。 今、ロイの目を見るのは駄目だとそう思った。見たら、きっと後悔することになる。それがわかる。 きっとロイは後悔しているんじゃないか、とそう思う。 今、エドワードがこの場所にいることに対して。 ロイの為にエドワードはこの場所にいるのではなかった。 自分の為に、今、エドワードはこの場所に立っている。 それでも、許される限り、こうしていたいとそう思うのは、戦場にいるが故の甘えなのだろうか。 確かめる為にも、エドワードは帰らなくてはならないとそう思う。 「大佐。早く帰ろうな、ここはあまりいていい場所じゃない」 「そうだな、早く帰ろう」 ロイの身体が少しずつ離れていく。 そのことに泣きなくなったのは、何故だろう。 きっとこの場所はエドワードが来てはいけない場所だったのだ。 ただ、それだけがわかった 酷く忙しい時期だった。 査定までもう少しと差し迫っており、また、仕事に関しても、煩わしいものばかり抱えていた。 そのため、必然として机の上に嫌でも齧りついていなければならない羽目に陥っていた。 こんな状況でなければ、とロイはそう思う。 目の前にいる少年と少しばかりの会話でも楽しめたものを、とそう恨めしく思った。 「大佐」 「何だね」 「早くしてくんねえ?オレ忙しいんだけど」 アルが宿で待っているし、というエドワードはロイの気持ちなど全く知らないのだろう。 何となく腹立たしい気持ちが起きた。 それが誰に対してなのかはわからなかったが。 ソファに足を組み、居丈高な眼差しでこちらを見ているエドワードをロイはちらりと盗み見た。 しかし、作業の手が緩むことはない。 「見ればわかるだろう?私は忙しいんだ。後にしてくれないか?」 「大佐が待ってろって言ったんだろ!」 思わず溜息を吐きそうになった。 直ぐに片付くとそう思っていたのだが、悪い意味で予想が外れた。 追加分にとホークアイの手から書類が足されたとき、絶望というのはこういう意味なのだと知った。 「仕方ないだろう。増えたんだ。少しくらい待っていたまえ」 「大佐の待てっていつまでのことだよ。さっきから待っているのに、全然終わらねえじゃん!」 元々今日は疲れていた。 雨の日だということが原因の一つかもしれない。 執務室の窓から広がっている灰色の雲が覆い尽くした空を見た途端、嫌気が差したから間違いないだろう。 「君と構っている時間がないんだ」 「どういう意味だ、そりゃ」 いつもだったら言わない台詞を言うのは、疲れている証拠だとロイには自分の事だからわかっていた。 そして、いつもだったら、考えるよりも前に手と足が動くエドワードは暫く考え込んでから、「じゃあ」と言葉を切り出した。 「じゃあ、今日以外だったらいつでも、アンタは構ってくれるんだ?」 「勿論だ」 そう言うと、何故かエドワードの顔が赤らんでいく。 「鋼の?」 「アンタってやっぱり、タラシだ」 そう言ったエドワードは何故か悔しそうだったのは気のせいだろうか。 |