ロイの決断にはどうしても首肯できない部分があった。 親切にしてくれたのに、まるで裏切るような、そんな罪悪感がある。 ロイに部下にはしない、とそう聞いたとき、エドワードの中で生まれたのは、悔しさだった。 自分が未だ彼に子ども扱いされているようで。その悔しさをバネにして仕事を頑張ってきた。 部下にする、とそう言わせてやると、それを目標にしてきたのに、今は嬉しさを感じない自分に気付かされる。
「―――何て言おう」
そう思わず一人ごちてしまう。
それでも、足は自然と自分の仕事場で向かっていた。習慣というものを感じずにはいられない。それほど馴染みになった場所だった。 エドワードに気付いたアイバーはすぐ様駆け寄ってきた。歳が近いせいか、一番仲がよい軍人だ。
「エルリック少佐」
「オレは明日からマスタング准将の部下だ。異動命令が出た」
「そんな!せっかく同僚が出来たと思ったのに」
その言葉を聞いた瞬間、何か違うんじゃないかとそう思った。そうだ、同僚がいなくなるのは寂しいだろう。
しかし、それは――。
「ちゃんと仕事をやれてるじゃないか。オレがいなくても」
「でも、僕は」
自信喪失してしまっているのか、アイバーの歯切れは悪い。 歳が近いこともあり、アイバーと仕事をすることが多かった。
「お前なら出来る」
そう言うと、アイバーの瞳が信じられないほど揺れていた。そして、口元が震えていた。 アイバーは典型的に自分の力を信じられない人間だった。信じられないというよりも、自分に可能性がないと諦めている人間だった。 仕事の進みが遅いのも、何度も確認作業をするからだった。それが、エドワードと仕事を始めてから、進みが速くなった。 それは、エドワードがいるから確認作業をする必要がなくなったからだった。
今、思い出すとエドワードがいることによって、アイバーの自信が辛うじて保てていたのである。 どうして、そこまで自分に自信がないのかがわからない。 エドワードなら、彼の長所を口に出せるが、彼は自分の長所を一つとして口に出せない。 そんな彼だからこそ、元の上官はエドワードと仕事を組ませたのだろう。
「僕は君みたいになれない。そんなのわかってるだろう」
そう小さく呟いた彼の言葉には驚くほど力がなかった。
そんな二人の様子を見ていた周囲からは、会話が終了したのを期に、質問攻めにされた。




「お疲れ様」
仮眠室で休憩をしていると、そこにロイが現れた。
手にはマグカップが握られている。 どうやら、ロイは仕事を放り出して仮眠室へ来たらしい。しかし、今は咎める気にはなれなかった。 そんな彼に構わず、ベッドに端座位で座っていると、ロイがマグカップを差し出した。
「何?」
「君にあげよう。飲みたまえ」
受け取ったものの、今は我儘を言いたい気分だった。
「オレ、ココアがいい」
マグカップから漂っているのは香ばしいコーヒーの香りだった。
「コーヒーで我慢しなさい。仮眠室にココアはないんだ」
「ケチ」
それでも、コーヒーを一口啜った。砂糖が一欠けらも入ってなかったからか、苦かった。きっと自分用にコーヒーを淹れたのだろう。
仮眠室には二人以外に誰もいなく、廊下でざわざわと人の声がするのがやけに気になった。
「疲れたのか?」
ロイの問いがやたらと優しく聞こえる。人間は弱っているときに優しくされると縋りつきそうになってしまう。 そのことを実感した。
本当はわかっていたのだ。ロイは正しい。正しい方向へと導いてくれる。
あの部署にいるのは、エドワードに為だけでなく、少なくともアイバーの為にもよくなかっただろう。
「アンタってさあ」
「何だね」
ふと思いついたので、言いたくなった。
「母さんみたいだなあ」
その言葉はロイにとって複雑だったらしい。
「何かあれこれ口出しするしさあ、いつだって大切なこととか言ってくれるのアンタなんだよなあ」
何でロイなんだろうと思ってしまう。 人体練成をしたとき、叱咤し、エドワードを奮い立たせてくれたのは間違いなくロイ・マスタングその人だった。 決して優しい男ではないのを知っているのに、何かしらエドワードのためにしてくれるのだ、この男は。

周囲に囲まれ、質問攻めにされたときのことを思い出す。

一通りの質問を浴びせられ、答え終わったときに、女性が一人だけ残っていたのだ。 長いこと軍に在籍している女性で、短い髪と薄いフレームの眼鏡が彼女を堅苦しい印象を感じさせていた。 そんな彼女は今まで堅苦しい言葉ばかり使っていたのに、そのときは親しみを持てる口調で話し掛けてきたのだ。
ロイは向上心がない者ばかりだ、とそう表現したが、彼女もその中に入っていたと思う。 長い間軍に在籍しているものの、どうして此処にいるのかわからないとばかりに時々溜息を吐くことがよくあった。 他の者も似たようなもので、それは上官に覇気とでも呼べるようなものがないからだと思う。 そのためか、時々下士官にさえ、「あの人は」と口に出されていた。
「マスタング准将とは仲が悪いと思っていたのに、まさか、引き抜かれるとはね」
どういう意味なのだろうとそう思った。多分、それが表情に表れていたのだろう。
「仲が悪いから、こっちに配属されたのだとそう思っていたのよ、大部分の人はね」
派閥争いのようなものを感じていたが、実際にあるとは思わなかった。 デスクの向こう側にいる上官は機嫌が悪いらしく、エドワードには見向きもしなかった。 いつまでも、エドワードに構ってばかりではいられない忙しい面々は仕事へと戻っている。 アイバーは、と視線を向けると、彼は気が進まない様子で、書類に向き合っていた。
「でも、そうね、長い付き合いだし、エルリック少佐のことをちゃんとわかってくれる人みたいだし、 よかったんじゃないかしら。部下を大切にする人だし」
そう少しだけ微笑んだその女性は耳元に口を寄せて囁いた。
「マスタング准将、三日おきには貴方の様子を覗きにきてたもの」
心配なんでしょうね、とそう彼女はひとりこごちた。
気付いていたことだった。しかし、他人から聞かされると、衝撃的である。
ロイの大切なものに、自分が分類されているようで。有り得ない、あの男に限ってそう思いながらも。
「そんなことあるわけないですよ」
そう否定すると、女性は何でなのか不思議そうな顔をした。
「貴方は多分気付いていなかったんでしょうけど、私、貴方とマスタング准将が大佐のとき、一緒に話しているのをよく見てたの。 貴方たち全然年齢とか階級を感じさせないんだもの。私、見ていて微笑ましかったのよ」
そう彼女は笑って、准将には内緒ね、とそう言った。

エドワードがコーヒーを一口一口啜っているのを見て、私もとロイは思う。 君はいつも私がなくしたものを思い出させてくれる、と。 誰かに何かしてあげたいとそう思う優しさも、大丈夫なのかと気にかけることも、何もかも忘れていたものだ。 喜ばしいことだとそう思える気持ちも。
「明日から君は私の部下だ。せいぜい頑張りたまえ」
そう言って手を差し出すが、エドワードはじっとその手を見つめたまま、身動きしなかった。
「エド?」
挨拶も知らないのかと、そう呆れていると「今、オレのこと何て言った?」と信じられない顔をしている。
「何って君の名前じゃないか」
そんなに驚くことかとそう思っていると、「だって、アンタにそう呼ばれたことねえし」と言う。
確かに、その通りだった。 エドワードが国家錬金術師でああった頃は「鋼の」と呼び、正式に軍人になってからは「エルリック少佐」だ。
「何だ、嫌ならやめるが」
呼びやすいから、エドと呼んでいただけで意味などない。ロイの周りの者たちがエドと呼んでいる分、余計に感化されたのだろう。
「いや、別にいいけど。アンタにファーストネームで呼ばれると変な感じがするだけで」
どういう意味だ、と聞こうとしたが絶対にいい意味ではないのでやめた。
「これからアンタの部下かあ。でも、前とそんなに変わってないけどなあ」
感慨深く呟くエドワードにロイはにやりと笑ってみせた。
「これからは扱き使うから覚悟しておけ」
「覚悟するのはアンタの方じゃねえの?」
ロイの言葉をさらりと受け流して、エドワードは不敵に笑ってみせた。
「こっちこそ、容赦なくやらせてもらうからな」
生意気な子供だ、とそう思わずにいられない。しかし、気分は悪くなかった。