気付いたときにはコップは手から零れ落ちていた。 コップは見事に割れ、破片が床に散らばった。何もない床にきらきらとガラスが太陽の光を受けて光を放つ。 幸いなことに、中身はもう飲み干していたから、悲惨なことにはならなかった。
「何をやっているんだ、エドワード」
「うっせえな。手が滑って落ちただけだ」
片付けようと、床に散らばったガラスの破片を一つ、持ち上げる。そのときに、切れた音がした。痛みが一瞬だけ走った。 あ、と気付いたときには人差し指に小さな傷が出来ており、そこから大きく膨れ上がったかと思うと血が流れていた。 義手の手が不慣れなので、左手を思わず使っていたのだ。 思わず呆然と傷を眺めていたエドワードにホーエンハイムが眉を持ち上げた。
「お前は何をやっているんだ」
「うっせえ。くそ親父」
エドワードの目は自然と窓へと吸い寄せられていた。 そこに確かにいた、とそう思ったその人物はもう窓から見える景色から消えていた。
「――――誰かいたのか?」
目ざとくホーエンハイムがエドワードの視線を探った。
「別に」
そう答える。
見透かしたようなホーエンハイムの瞳がエドワードのものと重なった。
「消毒するものがあったか」
捜しに行こうとするホーエンハイムに「別に大したことじゃねえよ。さっさと行けよ」と声を掛ける。 そんなエドワードに何を言っても無駄だと悟ったのか、ホーエンハイムは床に置いていたトランクに手をかけた。 また何処かに出かけるのだと聞いた。何処に行くのか聞いた気がするが、行き先が何処だったのかは忘れてしまった。 エドワードにとってはどうでもいいことだったからだ。 一言で言えば、ホーエンハイムは研究者だった。 その研究者故に出かけずにいられないのだ。新たな知識を探しに。 エドワードとて覚えがあるその行動にあれこれ言うつもりはなかった。
「また出かけて来るが、何か要るものはあるか?」
「別に」
「つれないことばかり言うな、エドワードは」
「うっせえ。アンタと仲良くしてたまるか」
「じゃあ、行って来るよ」
「さっさと行け」
一瞬だけ、ホーエンハイムの顔が悲しそうに歪んだ気がしたが、エドワードの良心は痛まなかった。 心の底では未だホーエンハイムのことを許していなかったからだ。 それでも、父親の帰れなかった理由を知り、少しだけ安堵していることも事実だった。 そうでなければ、母親が悲し過ぎる。しかし、理解をしようとは思っていない。

エドワードは期待に胸を焦がすように、扉から父親が消えた後、窓を覗いた。 自分でも信じられない程切実にあの人物の陰を探す。 しかし、いなかった。 微かに落胆の息を吐くと、窓の下でホーエンハイムがぽかんと口を開けていた。 見られていたことに気付き、エドワードは顔を赤くしながら、父親に怒鳴りかけた。
「さっさと行けよ、こののろま!」
「お前の口の悪さは誰に似たんだろうな。トリシャじゃないし…」
「さっさと行けって言ってんだろっ」
何かを投げつけようとして、何かないかと部屋を探したが、何もなかった。 数少ない家具が、部屋を構成する全てだった。 淋しい空間だとそう思うのは、いつも隣にあの弟がいたからだとそう気付く。 そして、窓の下を覗いたときには父親はいなくなっていた。 それを機にエドワードは床へと座り込んだ。

何やってるんだろう。オレ――。

ドイツ、ミュンヘンの地。 そこは閉ざされた世界に見えた。 何もかもがどこか薄っぺらい。 ここが扉の向こうだということ、弟がいないこと、錬金術が使えないこと、機械鎧がないこと。 構築式が、計算式が脳裏に浮かんでくる。 試しに掌を合わせて、練成を試みる。 機械鎧ではなく、義手をしているため、掌を合わせた音はいつもと違う響きを持っていた。 しかし、当然何も起こらない。 エドワードは床のガラスを片付けるために、立ち上がった。





いつの間にか床に転がって寝ていたらしい。

「汚い」
ホーエンハイムもエドワードもまともに掃除をしてないので、床には埃が溜まっている。 そんなところで寝転がっていれば、当然汚くなるのは当然の話だった。 しかし、それが妙に癪に障って仕方なかった。
「………腹減ったな」
そう言えば、ホーエンハイムは未だ帰っていないらしい。 窓の向こうを見れば、そこには茜色に染められた町並みがある。 今までいた世界と変わらない営みが繰り広げらていた。 喧騒が満ちている。 買い物をする主婦、遊ぶ子供、家へと帰る父親たち。 家々から気のせいか、いい匂いがし始めた。 それが余計に空腹を思い起こさせた。
「何か買ってこよう」
テーブルの上には申し訳ないような果物が置かれていた。 その隣には札束が置かれている。 父親が食事を不器用なりに用意しているのを知ってはいたが、エドワードはその食事をどうしても手につけたくなかった。 何だか裏切っているようで。 誰に対して裏切っているのかはわからない。 しかし、手に握り締めるのはホーエンハイムから受け取った札束で、 結局父親からの恩恵がないと何も出来ない自分に気付かされる。

――――帰れるのか、オレ。

ふとした疑問。
考えることを放棄していたその疑問が浮上した途端、足元が覚束ないのを自覚する。 帰れるのか。 頭を振る。 いつまでもこんなところでのうのうと暮らしてなんかいられない。 弟がどうなったのか、無事なのかが知りたい。 今、自分がこうして扉の向こうにいるということがアルフォンスの無事のように思えていた。 しかし、本当にそうなのか。
もし、しくじっていたとしたら?

ぐっと札束を握り締め、エドワードはそのまま、表へと出た。 古いアパートから出ると、そこには窓から見た景色がそのまま広がっていた。 時間帯が時間帯だからだろう、帰る人間が圧倒的に多いように見えた。 とりあえず、とエドワードはパン屋を探した。 市場のようなもので、様々な店が軒を並べている。 その中の一つにパン屋を見つけた。 パン机の上に無造作に並べられている。 その一つをエドワードは指を指した。
「それ、一つ」

そのときだった。 エドワードは誰かが通り過ぎたのを風で、知った。 まさか、とそう思ったのだ。 しかし、朝方見かけたのだから、何処か出かけたとしたら、今頃は帰宅の時間だろうと。
そう思って。
しかし、でも。
「大佐!」
振り向いたその顔は困惑に彩られていて。 気付けば、その男に抱き付いていた。 男のシャツを決して離さないとばかりにぎゅっと握り締める。 自分の手が震えているのがわかる。 男の手が背中にあやすように、撫でるのを感じ、唐突にエドワードは男からぱっと離れた。
自分は一体何をやっているのか。
「ごめん。本当にごめん。男にしがみつけられるのって気色悪いよな。知り合いに似てて」
顔は見れなかった。
男の顔がロイ・マスタングだったから。
自分の正気を疑ってしまう。

これはオレの夢なんだろうか。 アンタに会いたいとそう思ったオレの。 それとも、初めから全部夢なんだろうか。
狂ってしまいそうだ。

「大佐と呼んだか?」
「えっ。うん、軍の知り合いにあんたがあんまり似てるから、びっくりして」
ああ、早く何処かに行ってくれ。
そうしないと自分が何を言ってしまうのかがわからない。
「他人の空似って奴だよな。でも、あんまりそっくりで」
そっくりだから、錯覚してしまいそうになる。 ロイ・マスタングの顔をした男はどこか痛ましそうにエドワードを見ていた。 やめてくれ。そんな目で見るな。アンタだけにはそんな目で見られたくない。 まるで、可哀想な子供を見るような、そんな目で。 濡れた漆黒の髪も、塗り潰されたようなそんな黒い双眸も、優しい声も、何もかも一緒なのに。 きっとこの男はエドワードが親類か何か近しい者を失ったとそう思っているのだろう。
そして、その男が自分に似ていると。
気付けば、忙しく行き交っていた人々ですら、視線がエドワードに向けられていた。 きっと何事だろうと思ったのだろう。
「大丈夫か?」
「大丈夫だから」
だから、早く何処かに行ってくれ。
「泣きそうな顔をしている」
一瞬だけ、男の手が子供にするように、頭に置かれたのを感じた気がした。
自分の瞳が揺らぐのをエドワードは知った。
ロイ・マスタングだったら、絶対に自分を子ども扱いしたりしない。 優しさを間違えたりなんてしない。 守られるだけの子供のように自分を扱ったりしない。
―――――この男はロイ・マスタングではない。
いないんだ、この世界の何処にもロイ・マスタングは。 あの後、あの夕日の下、別れて、それからどうなったんだろう。 今はどうなっているのだろう。差し伸べられた手を掴んでいたら、何かが変わっていただろうか。 素直にあのとき、言えていたら――。

怖いんだ、もうずっと。

「じゃあな」
エドワードはパンを買うことも忘れて、そのまま古びたアパートへと戻った。 男の目が自分の背中に向けられていることを意識しながら。

アパートにはやはり、ホーエンハイムの姿はなかった。 ずるずるとそのまま床へと座り込み、エドワードは頭を抱え込んだ。
「何だ、これ」
何であんなことが起きるのだろう。何でこんな残酷な。
無性に泣きたくなって、エドワードはそんな自分に呆然とする。

ちくしょう。
ちくしょう。
ちくしょう。

胸のうちをひとしきり、呟いてから、エドワードは。

いるのかわからない神を呪った。