届かない、とそう考えてしまう。
届かない。遠すぎて。

昔だったら、手を伸ばせば空が掴めそうな、そんな気がしたのに。

「何かいるのか?」
「何でもないですよ」

ミュンヘンの空を見渡せば、厚い雲に覆われている。 宇宙がその上にはあるのだと、そう思うと、思わず見てしまう。 きっと何処までも、広く、遠い、そんな宇宙が。

「エドワードさんもよく見ているでしょう?」
何もなくても、とそう言うと明らかにエドワードは苦笑いを浮かべた。
「うん、まあな」
よく見ているな、とエドワードは言いたそうだった。
「多分、エドワードさんと同じですよ」

買い物袋を抱えたまま、僕はそう答える。 遠い空に自分が欲しいものがあるのだとそう思ってしまうから。

一瞬、エドワードは空を見上げたが、次には僕の方に顔を向けた。 いつもの笑みがそこには広がっている。 綺麗だけど、どこか儚いと感じさせる笑みが。 寂しいな、とその度に感じさせられる。 彼は一体何を考えているのだろう。
「今日は何だよ、夕飯」
「今日はグラシェですよ」
「シチューって言ったのに!」
「この前作りましたから。ていうか、何でエドワードさん牛乳嫌いなのに、シチューは好きなんですか?」

いつの間にか、夕食の時間になっていたらしい。 ところどこから鼻を擽られる匂いが漂ってくる。 何処か、ノスタルジックな気持ちにさせられたのは何故だろうか。 買い物の途中なのか、袋を持った人々がよく目に映る。 いつまで続くのかわからないインフレーションに巻き込まれながらも、人々は懸命に生き、働いている。 それが、この世界なのだ、と突然襲い掛かる咳に耐えながら、そう思う。




「教授、さっき頼まれた書類を…」
「ああ、ありがとう。済まなかったね」
「いいんです」
どうせ、帰っても研究しているだけですから。 そう、ハイデリヒが言うと、オーベルトの瞳がこちらに向けられらたのがわかった。 オーベルトに頼まれていた書類を手渡す。 デスクの上には他にも書類の山が出来ているのだが、焦った様子はオーベルトには皆無だった。

オーベルトを長年師事していたが、敏い人物であることは充分わかっていた。 だから、きっと、ハイデリヒの気持ちを見透かしたに違いない。

「最近、無理をしているんじゃないのか?」
「いえ、そんな」

研究室に篭っていた時期もあったが、今はなるべく、家に帰るようになった。 そこには、同居人がいるからという理由があるのだが。 放っておくと、無茶をする人なのだ。

「仲良くやっているのか?」
気遣うオーベルトの声に、「まあ」とハイデリヒは言葉を濁した。
――――仲良くやれているのではないかな、と。

同居人であるエドワード・エルリックにハイデリヒを紹介したのはこの目の前のオーベルトだった。 気にもするだろう。 どうしてオーベルトがエドワードを紹介したのか、その理由はハイデリヒにも察せられた。 接しているうちにわかった、あのエドワードの優秀さには舌を巻いた。 自分とはまた少し、違う理由でエドワードはロケットに魅せられている。 時々、彼は何処か遠くを見つめている。 ふと、空を眺めているとき、彼が思っていることは何なのだろう。 手紙を書けばとそう言ったときのことを思い出した。 結局、彼は手紙を書かなかった。 多分、同じことだと僕は言ったことがあるけれど。

「君は自分の中に溜め込もうとするところがあるからね」
ふと、現実に引き戻された。
「そうですかね」
自分ではわからないことだ。
「そうだよ。言葉にしないと伝わらないことがあるから、きちんと言った方がいいぞ」
「はい…」

オーベルトに言おうかなとそうハイデリヒは思った。
しかし、思っただけで口を噤んだ。
唇を僅かに湿らすが、言葉にはならなかった。
エドワードさんは僕が弟にそっくりだって言うんです。
そう、ハイデリヒは心の中で呟いた。
時々、僕のことを見て遠い目をすることがあるんです。 それを見ると、時々僕はたまらなくなるんです。
理由は依然としてわからなかった。

「エドワードは、難しいからな」
その言葉が一体何を意味しているのかなどわからなかった。
「それってどういう?」

「アルフォンス!未だいたのかよ。早く帰ろうぜ」
ノックもなしに研究室へと入ってきたのは、その当人のエドワードだった。
「すまないね、アルフォンスは借りてるよ」
オーベルトの言葉に僅かにエドワードは眉を顰めた。
「いいけどさ、別に」
ぐいと、腕を引っ張られ、ハイデリヒはその強引さに思わずよろめく。
「エドワードさん」
「早く、行くぞ」

ちらりと、その一瞬、オーベルトの目がエドワードに向けられたのがわかった。 どこか遠い昔を懐かしむような、そんな目だった。 時折、エドワードが自分に向けるものと同じと言っていいのかもしれない。 聞きたいことがあったのだが、聞いていなかった。

どこでオーベルトはエドワードと知り合ったのだろう。 昔からの知り合いだというのに、態度がそっけないとそう感じるのは気のせいではない筈だ。 研究室から出て、廊下を歩く。 日差しが温かく降り注いでいる。 温かいな、と思いながら、未だハイデリヒの腕を引っ張るエドワードの背中を見遣った。

「前から思ってたんだけど、エドワードさんってオーベルト教授が苦手?」
「別にそんなんじゃないけど」
間髪入れずに口にした言葉が僅かに濁っているように感じられたのは何故だろう。
ミュンヘンに戻ってから、暫くエドワードは大学へと行こうとしなかった。 しかし、やっと、大学へ来たかと思えば、久し振りに会うオーベルトにそっけない。
「じゃあ、何で目を合わせて話をしないんですか?」
オーベルトを無意識に避けている、そんなことまで気付いてしまう。

ぴたりとエドワードの足が止まった。
「エドワードさん?」
それに、ハイデリヒも続く。
深入りし過ぎたのかもしれない。誰にだって、事情がある。
「お前って、本当にそっくりだよ」

それって弟さんのこと、とハイデリヒには直ぐにわかった。
わかったが、それ以上何も言わなかった。

「別に何でもないけど」
「エドワードさんは嘘吐くの下手だからわかります」
同居はそれほど長いものではないが、何故なのかわかってしまう。
「似てるから」
「え?」
「似てるんだよな、いけすかない奴に」
「それって」
酷く嫌な気持ちが僕を包む。
「ほんと、いけすかない奴だった」
だから、苦手なのだと。 彼は気付いているんだろうか、自分の表情に。 痛ましい、今にも泣きそうな表情をしていることに。
「そうなんですか」
だから、近付きたくないのだと。 きっと、オーベルトは彼にとって大切な人間に似ていたのだと。

大学の窓を覗き込むと、緑が飛び込んでくる。 木々の緑がやたらと鮮やかに見える。 しかし、何処か寒々しく映ったのは何故なのだろう。




学会が近付き始めた。 そうなれば、必然として、教授の机の上を片付けるのは僕の役目だった。

「教授、ちゃんと片付けてくださいよ」
今講義に出かけているオーベルトに向かって、そう呟いてしまう。 机の上の書類を片付ける。 溜まった書類を整理し始め、ふと、オーベルトと筆跡が違う書類を見つけた。 研究資料だろうか。
「あれ?これって」
エドワードの筆跡だ、とそう気付いた。 オーべルトとエドワードがこれまで二人で一緒にいたところを見たことがなかった。 何となく、二人はお互いあまり近付かないようにしていたから。 その理由を僕は知っている。 きっと、その理由は間違っていない。 だからこその疑問。

「あれ?」
「ああ、ありがとう。片付けてくれてたんだね」
暫く固まっていた僕が動きを取り戻したのは、オーべルトが戻ってきたからだった。
「教授?これって」
「ああ。それは、エドワードが」
書いたものだ、とそう言ったオーベルトが何処か遠くに映る。
「教授、でも、これって。学会の資料なんですよね?」
「君が思っているものとは違うよ」
「でも」
大学ではよくあることだった。 盗作、とはまた少し違う。 名義を自分のものに置き換える。 オーベルトがどれだけ名声を得たいと思っているかなど知らなかった。
「一緒に研究をしていたんだ、彼とは」
短い間だったけどね、とそう苦笑い混じりに答えるオーベルトが遠い。
「そう、なんですか」
自分が知らないその期間のことを思った。 いつも距離を置いている二人の間に何かあったのだとしたら。 それは。

似てるんだ、とそう言った痛ましい顔をしたエドワードを思い出してしまう。 大切な人に、似ているとしたら、一体オーベルトに対してどんな感情を持つというのだろう? 親愛、郷愁、憧憬。
それとも――。

「もうきっと一緒に研究をしたりしないだろうがね」
遠い目をしたオーベルトが何を思っているかなんて知りたくなかった。