家へと戻ってみれば、エドワードはベッドの上で本を広げていた。 分厚い本は、僕がエドワードに貸したものだった。 しかし、読んでいるとは思わなかった。 たまには読んでみたら、とそう貸した本なのに。 ぱらぱらと頁をめくっているその指は細く、シーツの中で本を読むその様は猫のようだった。

オーベルトの資料の中に書いてあった、ロケットが飛ぶ為の理論が書かれていたページが脳裏に浮かんだ。 きっと、楽しそうに話をしていたのではないかとそう、思う。

「エドワードさん」
「ん?何だ?」
「教授、モニカさんと別れたそうです」
ぱっと顔を上げたエドワードは次いで、視線を本へと落とした。 表面上、取り繕ろうとしていることがわかる。
学会のことを聞いた後で、オーベルトは以前から付き合い、結婚を考えていた女性と別れたのだとそう話した。
「ふうん」
「何とも思わないんですか?」
「何でオレが…」
「エドワードさんは教授が好きなんでしょ?」
疑問ではなく、断定。 エドワードの表情がぴたりと凍りついた。
「何でそうなるんだよ」
「僕にはわかります」
ずっと貴方のことを見ていたから。
「教授もエドワードさんのことを好きです」

エドワードは顔を背け、僕の顔を見ないようにしていた。 彼はきっとそのことに気付いていたのだろう。 だから、距離を置いていたのだ。 近付き過ぎないように。

ん、とエドワードがふと、僕の顔を覗いた。
金色の瞳に、金色の髪。 僕と変わらないもの。 研究仲間からも言われた。 似ている、と。 そのときに、エドワードがそうか、とそう笑っていた。 儚い、今にも壊れそうな笑みだった。

「お前、最近顔色悪くないか?」
「何でも、ないです」

咳が酷いものに変わっていることを知っているのだろうか。 そう危ぶむ。 何故かエドワードには知られたくないとそう思った。 風邪なのだと以前もそう何度も弁解しているが、もう限界に来るかもしれない。

「いいけどさ、あんまり無茶するなよ。身体を壊したら元も子もねえぞ」
初めから、そんなことは手遅れなのだと、言葉が出そうになるのを堪えた。
「気をつけます」
それでも、こほこほと咳が出る。
「ほんとに大丈夫か?」
「大丈夫です」
踏み込んで欲しくない。 自分の中に弟を見ているそんな彼に。 本当はもうすぐ僕は死ぬんですなんて言いたくない。 死にたくなんてないのに。
「弟さんは病弱でしたか?」
ふと、そう聞いた。もしかしたらと。
「いいや。病弱じゃなかったけど、身体がちょっと」
何となく、見たのはエドワードの片手片足。
「僕が弟さんに似ているって言うのなら、他にもエドワードさんの知り合いに似た人がたくさんいるのかもしれませんね」
驚いた顔をした彼に、全くその通りなのだとそう知れた。 他にもいるのだと。 いけすかない奴に似ているから、とそう言ったエドワードの言葉をふと思い出した。 寂しい気持ちになったのは、彼の中にもう踏み込めないことがわかったからだ。 俯いたのは、決して、視線を逸らしたかったからではない。 ぎゅっと僕は手を握りこんだ。 男にしては細い手だった。

僕の夢は―――。

今でも思い出せる。 鮮やかな切り取られたような情景を。 昔から身体が弱かった。 何故だかわからず、周囲を呪ったこともあった。 だからこそ、今、その夢を叶えたい。
「宇宙って響きがよくないですか?」
空を、眺める。遠く、掴めそうにないその空を。暗く、今は闇に沈んでいる。
「どういうところなのか見たいってそう思ったんです」
エドワードさんは。
「どうしてロケットの研究をしているんですか?」
最初に聞いたとき彼が何と言ったのかそのことを覚えている。 ロケットってかっこいいじゃん、とそう何処か困ったように答えた彼。
「帰りたいんじゃないですか」
遠くを見つめる彼に僕は何を言うのだろう。 だって、貴方は現実を見ていない。 僕のことでさえも。
「だってそりゃあ」
彼はまるで、過去の住人のようだ。 今ここはドイツミュンヘンの地。 世界は酷く不安定。 それでも、そんな世界だからこれまでの夢を僕は叶えたいとそう思っている。 希望をなくしたりしないように。 でも、彼は――?
「オレは元いた世界に帰りたい」
傷つけたとそう思った。 それでも、今がとても苦しくて。だから、それ以上口に出来なかった。
「あのな、黙っていたけど」
オレはこの世界の人間じゃない。
そう紡いだ彼の言葉は刃のようだった。 ただ、冷たく響く。 どうして、教授は僕の下に彼を送り込んだのだろう。
「オレはこの世界の人間じゃないんだ。帰らないといけないんだ」
がらがらと何かが零れ落ちる。 一緒にこれからもいて、一緒に夢を叶えていくのだとそう思っていたのに。
漏らした言葉は彼にとって嘘一つない真実?
「ああ、そう、なんですか」
それ以外に何を言えばいいのだろう。 ただ、力なくそう答えた。 エドワードがアメストリスという国の話を聞かせる。 錬金術が発展していたのだという。 まるで、御伽噺のように響いて仕方がない。 エドワードはそんなことを思っている僕の気持ちに気付かずに、ただ話を始めた。 彼は、困ったような、照れているような、そんな感情が見え隠れした顔をして、笑っている。 きっと、その話を言いたかったんだろうな、とそう思うのだけれど、優しい気持ちにはなれなかった。




オーベルトはアパートに帰ったかもしれない。 そう思っていたが、研究室の明かりは点いていた。 かちゃりとノックもせずに、研究室に入った僕に彼は一瞬驚いたようだった。
「どうしたんだ?こんな時間に」
「聞きにきたんです。オーベルト教授、どうしてエドワードさんと僕を会わせたんですか?」
「必然だったんじゃないか?」
「そんなこと信じてないでしょう?」
そう言うと、オーベルトは明らかに言葉が詰まった。
「聞きましたか?教授はエドワードさんが…」
そこで、あまりに荒唐無稽だと、と逡巡した後、唇を湿らせて僕は口を開いた。
「エドワードさんはこの世界の人間じゃないってそう言いました」
「聞いているよ。前会ったときにね、信じていなかったが」
途中から真実なのだと思い始めた、とそうオーベルトは僅かに笑みを口に乗せる。
「どうしてですか?僕には彼が現実から今も逃げようとしているとしか思えません」
「逃げているとはそう思わんよ」
「彼は貴方も以前いた世界の住人に似ていると言いました。彼は、多分その人のことが好きでした」
「知っているよ」
そう簡単に口にするオーベルトがとても憎らしく思えた。
そう思った理由は、一体なんだというのだろう。
ただ。
ただ、何かが腹の中で息づいている。
「エドワードは難しいとそう言っただろう?」
ああ、そういうことなのか、と納得をした。
目の前の長年の恩師はきっと、今の僕と同じ思いを彼に抱いたに違いない。




何故だか、何もする気になれなかった。 アパートに帰ってからも、それは続き、ベッドに倒れこんだ。 何もしたくない、とそんな気持ちが湧いた。 泣きたいような、そんな気持ちが湧いた。 そんな気持ちに掻き立てられることなど滅多になかったことなのに。
「アルフォンス?いるか?」
室内に篭っている僕にエドワードがそう扉を叩いた。 僕は、応えなかった。 応えようとそう思っているのに、口を開くのが億劫で仕方がない。 沈黙を続けていると、乱暴にドアが開けられ、エドワードが入ってきた。 僕は寝ているのだとそう思わせることにした。

「寝てるのか?」
エドワードが近付く気配がした。 かと思ったら、遠ざかっていく。
「ごめんな」
声が聞こえた。耳に、ちゃんと。 どんな気持ちで言っているのだろうとそう思う。 それでも、思う。 僕は、このどうしようもない気持ちを抱えたままどうすればいいのだろう。 くるりと遠ざかっていく足音に僕は一瞬追いかけようと思った。 しかし、しなかった、出来なかった。

「エドワードさん」
ぽつりと呟いた後、僕はベッドから這い出した。 目に入る、あちらこちらに置いてあるのは、書物だった。 ぱらぱらと一冊手に取り、見遣る。 咳は納まっている。 いつか、きっと、息が止まるのだろうとそう思うけれど。 未だ、自分にはやれることがある。 自分の長年の夢、それを叶えたいと切実に思う。