オーベルトの学会での発表はハイデリヒ以外にも、研究仲間が一緒に付き添うことになった。
エドワードも勿論、一緒で、彼は当然のようにオーベルトの学会の準備も手伝っていた。
あれ程、頑なに拒否していたというのに。
気持ちの変化を、心の中で祝えない自分に気付いてしまう。
何百人もの人が集まれるホールの中で、オーベルトが壇上に立ち、熱弁を振るっている。
よく通る声が、人々の心にまで染み込んで行くようだった。
その壇上の脇に立ち、そんなオーベルトを見守っていたハイデリヒの目に、ふと、飛び込んできたのは嘗て一緒に食事をしたこともある女性だった。
もしかしたら、オーベルトも気付いたんじゃないのだろうかとそう思ったが、彼の顔色は何一つ変わっていなかった。
モニカ・キュルテンだ。
オーベルトの恋人だった女性。
彼女の目は、ただオーベルトに向けられていた。
嘗ての思い出を蘇らせたいのだとばかりに。
「モニカさん」
発表も終わり、ハイデリヒはホールを立ち去るモニカを見つけ、声を掛けた。
振り返った彼女は寂しそうに見えた。
「こんにちは、アルフォンス君」
「教授に、会っていかないんですか?」
「会うのは止めたの。ただちょっと、彼を見たかっただけだから」
何故かそんなことはないのだろうとそう思った。
「こんなことを聞くのはどうかと思うんですが、どうして、別れたんですか?結婚も考えていたんでしょう?」
「残酷なことを聞くのね」
目が、咎めるように眇められる。
「すみません」
「彼ね、もう一つの世界があるかもしれないって言い出したの」
「パラレルワールド?」
エドワードのことを思い出した。
アメストリスという錬金術の発達した世界。
「そう。なんだか、彼は信じているみたいだったのよ、子供みたいに。今まで彼はずっと研究、研究で私が支えなくちゃって思っていた。
でも、なんだかふっと遠くなったように感じられたのよ。だんだん一緒にいる時間も少なくなって。それは前からだったんだけど」
「貴方は、もう一つの世界を信じているんですか?」
モニカは弱弱しく首を振った。
「現実を見れない人たちが作り出した幻影なんだと思う」
普通、そう思うだろう。
オーベルトは違ったのだろうか。
本当に信じているのだろうか。
エドワードがアメストリスの話をしたとき、肯定も否定もしなかった。
信じていたら、何か違っていたのかもしれない。
しかし、何が違っていたのかはわからなかった。
※※※※※
学会も終わり、片付けの為だけに研究室を訪れた。
発表は好評に終わり、今後の活躍が期待される、とまで他の教授にオーベルトは言われていた。
その発表の中に、エドワードが以前議論した内容も含まれていた。
他の研究仲間たちは、アルフォンスも含め、酒場に行って来るとのことだった。
何度も出入りをした研究室は馴染みの匂いがした。
インクと紙の匂いだ。
オーベルトと会えば、きっと何かを揺るがされるかと思い、避けている時期もあった。
それは確固としたものとなっていて、エドワードは研究室に顔を出すことさえ、恐れるようになっていた。
ハイデリヒを迎えに来たときに、確信に変わった。
早く、逃げ出したいとそんな気持ちに駆られた。
しかし、今はそんな気持ちにならないのが不思議だった。自分の中で何かが変わっている。
だからこそ、オーベルトの学会の準備も途中から手伝い始めたのだ。
「酒場に行かないのか?」
「片付けてから行くよ」
書類を一枚一枚ファイルへと綴じていく。そんな中で、ふとオーベルトの口にした言葉に過剰な反応をしてしまう。
「アルフォンスと喧嘩をしたのか?」
一目見て、そう言うオーベルトに何でなんだとそう思わずにいられない。
どうして、そう思うのだろう。
「いや、してねーけど、何か気まずくて」
気まずい理由を言えなかった。
この前、仲直りをしたとそう思ったのに。
何処かで、ハイデリヒが自分の扱いのことを困っているように感じられたのだ。
エドワードは、それから、口を閉じた。
それ以上、この話をしたくなかった。
弱音を言いたくないのだ、アメストリスにいるあの男に似ているこの男に。
「君は残酷なんだな」
えっと思うまでもなく、気付けば、身体を慣れた手つきで引き寄せられていた。
キスを髪に、額に、頬に、そして、唇に受ける。
そればかりか、手が服を通り、胸元に触れ始めた。
すっと入ってきた手に戸惑い、エドワードは身動きが取れなくなった。
「えっ。ちょっと…」
「君は私のことが好きだろう?」
「え?」
「私も君のことが好きだよ」
前は気付かなかったがね。
その言葉と共に、再び唇が塞がれる。
「んっ」
温かく、湿ったものがオーベルトの舌だとそう気付いたが、深く絡め取られて、身動きが取れない。湿った水音が脳内を犯す。
腰に手を回されて、拘束されているようだとそう感じた。息苦しい。焦点が合わないが、目の前の男は一体何を考えているのだろうと
ふと思った。
思考がそれを機に目まぐるしく動き出す。
好きな人は誰?
今でも思い出す。
あの夕日の下、きっと互いに別れを意識していた。
それでも、見送ってくれた、信頼してくれたその姿を。
無性に、悲しくなったあのときを。
手を伸ばしたくなって、それでも、そんなことは出来なくて。
「悪い、ごめん」
手を払いのけた、自分の意思で。唇を離した途端、口からどちらのかわからない唾液が糸を引いた。
「いいや、初めからわかっていた」
きっと、オーベルトは笑っている。でも、笑っているその顔が見えない。
「ごめん」
瞼が熱い。
二度もこの男の前で泣くなんて。
「ごめん」
それしか今は言えない。
「君が大切な人に再び会えることを祈っているよ。私でないことが残念だ」
髪に優しくキスを受けて、この男を傷つけたことを果てしなく悔やんだ。
※※※※※
オーベルトはふと、書類に目を通すのをやめて、窓へと目を向けた。その途端にきしりと椅子が音を立てた。
もう窓からは見えないだろう。
そう思うものの、エドワードが帰れたのかとそう気になった。
酒場には寄らないのだとエドワードは言っていたから。
ハイデリヒとエドワードは何かあったのだろう。
話してくれなかったことが少しだけ寂しいと今ならそう思える。
しかし、以前ハイデリヒが研究室に来たそのときに大体が感じ取れた。
自分と同じ思いを抱いたのだと。そして、ハイデリヒもオーベルトの思いに気付いたことだろう。
若くして、助教授になった男がそんなオーベルトに気が付いた。
「教授、どうしたんですか?ぼーっとして」
「ああ、ちょっとな、フラレてな」
苦笑いが混じってしまう。
「教授がですか?」
「しかも、二回目だ」
男は、モニカと別れたことを知っているからだろう、複雑な顔をした。
もしかしたら、モニカのことだと勘違いしたかもしれない。
学会にモニカが来ていることも、オーベルトは直ぐにわかった。
それでも、もう、きっと連絡をすることはないだろう。自分の気持ちが、嫌でも沈んでいくのがわかる。
「相手が悪かったんですかね」
「そうだな」
何しろ、向こうの私が相手だからな。
そう口にしそうになった。
→
| |