◆daily sumus TOP ◆トルコ紀行1 ◆トルコ紀行3
2005年12月2日(金)石ころゴロゴロ
●マスクをして寝たのでノドが乾燥しなくてよかった。このクシャダスのホテルは旅行中いちばんの安宿だった。一人頭千五百円にも満たない。それでも部屋にエアコンが付いていた。ただしホテルのボーイ君が最初にスイッチを入れたときには、ふと見ると、リモコンの温度設定は31度になっていた(!)。よほど寒いのが嫌いな人間がセットしたのだろう。実際、上着がいらないくらいの暖かさではあった。朝食はホテルの一階で摂る。マア、ご覧のような変わり映えのしないメニュー。ただ、野菜の並べ方に遊び心があるね。テーブルのすぐ上にTVがあって朝のミュージック・ビデオ・タイムだった。アメリカ篇(トルコ編もある)、ヒップ・ホップ、メロウ・ソウルあたりの曲が次々流れ、少々うっとうしい。

九時五十分にクシャダスを出発。今日もまたオリーブ畑に囲まれた田舎道をひた走る。およそ四十分でエフェスの都市遺構に到着。ローマ時代にエーゲ海沿岸(といっても多少内陸になる)でたいへんに栄えた都市の一つである。丘の斜面に建造された円形劇場が見えてきたときには採石場のようだったが、近づいてみると、大地震で粉々になった町のごとき様相(実際、十世紀に起こった地震でそうとうひどく破壊されたらしい)。二十世紀初頭に発掘された後、一九七〇年代に修復整備されたが、現在もその仕事は細々と続けられているようだ。断片的な円柱などの建物の破片がごろごろ転がっている。それを寄せ集めて都市を再現するというのだから、大理石の巨大ジグソーパズルのおもむきである。
円形劇場へ向かう道路

ケルスス図書館(二世紀)
ケルスス図書館はローマの執政官ケルスス(Tiberius Julius Celsus Polemaeanus)を記念するものだとのこと。117年に完成したあと、262年のゴート族の襲撃によって焼失した。下は円形劇場から図書館へ向かう道路の中程、路肩に残る娼館の印(舗道上にある)。足形と、そのすぐ脇に女性の頭部、中央の穴の右横にハートが刻まれている。足形については、入場者の足を計るためのものだという説があるそうだが、ウンチクの足(25.5cmくらい)よりよほど小さい。ウンチクは勝手に、オネーチャンの足形サンプルではないかと疑っている。手形なら相撲取りの色紙だけど、足のサイズならその全身を想像たくましくして目尻を下げたり、ヨダレを垂らしたりできるというものではないか。顔はこんなで、スタイルはこれ、この通り、足形を見ておくれ。また、ハートは「真実まことでございます」(エジプトの死者の書で量りにかけられる心臓)を意味しているのかも(?)。
娼館の目印
わずかに残るみごとなモザイクの舗床
約一時間で見学を切り上げる。出口の両脇には土産物屋が並んでいる。呼び込みのお兄さんたちがうるさく声をかけてくる。
「ミルダケ、ミルダケ、メノホヨウ」
おいおい、誰が教えたんだよ、メノホヨウって、どう見ても安っぽい彫像なんかが並んでいるだけのようだけど。知らん顔して通り過ぎると、ののしり言葉を投げかけてくる、という経験者の報告を読んでいたが、ここはそうでもなかった。
エフェスから一時間半ほどでベルガマ(ペルガモン)に到着。ホテルを探してぐるりと町を一巡した。なんだか活気のあるバザールという感じの商店街、とても狭い道路だが、自動車やトラック、馬車、そして人間があふれている。建物も生活のある古さ、それがとてもいい。今回の旅行中ではもっとも気に入った町だった。しかし、グループ行動なので、ちょっと降りてスケッチ、というわけにもいかず、窓が開かないので写真さえ撮れない(窓にフォーカスされてしまう)。少し残念だった。
ホテルはイスタンブルのチバさんに電話をして教えてもらう。そこへ行く前に腹ごしらえにと入ったレストランには驚かされた。百五十人分ほどの席が学生食堂よろしく広間にずらりと並んでいた。バイキング形式になっていて、厨房の前で各自皿に好きな料理を盛ってもらうわけだが、コックさんが十数種ある料理の説明をすべて日本語やってのけたのだ。説明といっても「テンプーラ(野菜のかき揚げ)、マメ、ナス、インジェンマメ、ジャガイマ、キャベツ(ロール・キャベツ)、ピーマン(肉詰め)、パスタ、ホーレンゾー、ゴハン(オリーブ・ライス)」と料理名を連呼するだけだけど。まあ、日本人の団体さんには馴れてらっしゃるようで。
左は葡萄の葉で五目ライスを包んだ酸っぱい食物
ベルガマのホテル二人部屋
午後三時にBERKOY HOTELへチェックイン。廊下、外壁を修理中だったが、部屋は、旅行中もっとも広かった。トイレの洗面化粧台がみょうに大きくて立派な割には、同じ室内にあるシャワーがじつにお粗末。水栓の締まりも悪かった(これはトルコ中に共通していた)。このへんもトルコ人気質だろうか。水回りはさほど重視しないようだ。
今日はさすがに疲れてダウン。夕食をホテルに附属するレストランで摂った(旅行中、最もまずかった)、それ以外は部屋で横になって、昔の映画をテレビでやっているのを見るともなしに見る。単純なストーリーなので言葉は分からなくてもさほど問題はない。夜は同室のDさんの身の上話を聞かされる。なんでも四十歳になろうという息子さんが「雅子さまと同じ病気で、何もやる気がなくて、どうしようもないんです」、また、嫁いでいた娘さんが、突然、子供二人を置いたまま離婚して戻ってきた。
「全部おとうさんのせいだと言われてます」
はあ、はあ、それは大変ですね。
「どうしましょ?」
う〜ん、そうおっしゃられてもねえ、答えようがない。
「ほんとはトルコなんか来てる場合じゃないんです。でも女房が行ってきたらと言ってくれたもので・・・」
ベルガマの夜は長い。
2005年12月1日(木)弾丸ツアー初日
●午前六時ちょっと過ぎ、「ワン、ベンザ〜、ワンベンザ、ワン、ベンザ〜」という放送に起こされる。聞くところによると、一日に五回、メッカに向かって礼拝するそうだ(モスクもみんなメッカに向いている)。祈りの時刻はイスラム暦に従っているようなので、太陽暦の時計を基準にすると毎日少しずつズレてゆくらしい。一般生活では、例えば新聞などに記されている日付などは、西暦に統一されている。
九時前に最上階で朝食。くもり。十時にホテルの前に停まっているワンボック車に集合。われら日本人五人と通訳のオメル氏、ドライバーのX氏で弾丸ツアーに出発するのである。オメル氏二十分ほど遅れて登場。アパートは歩いて一分の距離なのに。イスタンブルの旅行会社に勤めているチバさんという日本人女性(在トルコ八年とか)、シャバン君らも見送りに来てくれる。
十時二十五分発車。ヒュンダイ(ヒョンデ)のこの車は運転席の列に三人、その後ろが二人、二人、最後尾に三人座れるようになっている。ところが、後部の窓が一切開かないのだ。さらに窓の位置が少し低く小振りなので見晴らしが悪い。金角湾(ハリチェ、GOLDEN
HORN)を渡り、新市街を抜けて、ボスポラス海峡の北側の橋を通過する(というのは手前の近い方の橋に入る道をドライバーが見過ごしてしまったから)。アナトリアすなわち小アジアへ入った。
この狭い海峡をはさんで十四世紀と十五世紀に建造された要塞の遺構がある。アナドル・ヒサールとルメリ・ヒサール。車窓からAさんが「あれが要塞だよ」と石積みの塊(ルメリ・ヒサール)を指差して教えてくれる。アジア側のアナドル・ヒサールにはこれといって何も残っておらず、公園になっているそうだ。Aさんはわざわざ出かけたことがあるとか。仕事のない青年たちの溜まり場になっていたという。ボスポラス(BOSPHORUS)は黒海とエーゲ海をつなぐ細い水路である。とくにそれら要塞の付近は狭くなっており、両岸に砲台を作られては、どんな船も黙っては通り抜けられない。淀川の中津橋のあたりよりは少しは広いかもしれないというていどの距離だ。
さらに高速道路を走りに走ってフェリーに乗った。マルマラ海の沿岸を迂回せずに近道するためである。ドライバーX氏はちょうど列をなしてフェリーに向かっている車の最後尾にヒュンダイを付けた、と思うと、その左隣をトラックが追い越していった。X氏も思わず、左へハンドルを切ってトラックの後ろを追った。ところが、である、右側はずんずん進んで乗船するのに、こちらは止められたまま(当たり前だね)、結局、最後の一台になってギリギリ乗り込めたのである。慌てるなんとかはもらいが少ないを実証した。橋を間違えたことといい、多少、前途が危ぶまれた。
フェリーを降りても、まだまだ走り続ける。オリーブ畑、そして羊、牛などがのどかに放牧されている丘が延々と続く。ときおり小さな町がある。道路はおおむね舗装されているが、あるところではかなりな悪路だった。ガソリン・スタンドに附属してドライブインがあるだけ。ファミレスとかマクドなどはまったくない(マクドはイスタンブルの真ん中で一店見ただけ)。
糸杉(そう、ゴッホが描いたような)の木立があると思ってよく観察すると、それは墓地だった。小さな森のようになっており、木々の間に白い墓石が点々としている。二時頃になってドライブインで昼食。店の人たちはもう掃除をしていたが、簡単な食事を頼む。ピデという木の葉形のピッツアのようなものとアイランという塩味のヨーグルト飲料。サラダはニンジン、紫キャベツ、レタス、ピーマンのスライス。塩とレモン。なかなか美味だった。店を出るときに手にコロンを振りかけてくれた。
ピデ(肉入り、チーズだけもある)、白いのがアイラン
●腹ごしらえをしてさらに走り続ける。相変わらずオリーブ畑がどこまで広がっているのだが、ところどころ葡萄や綿花の栽培も行われている。途中、あちらこちらに建築中の家があった。こちらの建物は柱の枠を組んで、その間をレンガ積みで埋めていくというだけの、きわめて簡単な作りである。自力で建てる者が多いということで、暇を盗んでは少しずつ作っているそうだ。構造ウンヌンで言えば、アネハなんて問題じゃないくらいもろいものだ、とAさん。Aさんは地質調査という仕事柄、土木に関する知識も広い。
また、このあたりでは対向三車線道路というおもしろいアイデアがあった。おもしろい、というよりも、怖ろしいと言うべきかもしれない。両サイドはそれぞれ逆方向の車が走るのだが、中央レーンが共用になっているのだ。だいたいトラックの通行量が多く、またどのトラックも満杯に荷物を積んでいるところから、坂道などになるとのろいことこのうえない。そこで、中央の車線が両方向の追い越し用に使われるのである。要するに、向こうから追い越し車が来ていなければ、こちらが追い越すということである。トルコ流の合理性の一端を示しているように思った。
だんだんと暗くなってくる。小雨も降り出す。午後五時頃にはとっぷりと暮れた。丘陵地帯を貫く道路だから周辺には灯火もほとんどない。そこを時速百二十キロていどでブンブン飛ばす。このヒュンダイ、じつによく走る(最初は三菱自動車が技術供与していたそうだが、最近は独自に生産しているとのこと)。ようやくにしてトルコ第二の都市だというイズミールがイルミネーションのように見えてきた。けれどもわれわれのヒュンダイは見向きもせずに通り抜けるだけ。丘の上に巨大な城がライトアップされて浮かび上がっているセルジュクを過ぎて少し行くとホテルが立ち並ぶエーゲ海沿岸の町クシャダスに着いた。小振りなリゾート地。アナトリ西岸の港町はヨーロッパ人たちの夏の保養地として栄えているようである。マンダリン・オレンジやレモンが街路樹として植えられ、ちょうどたわわに実を付けていた。午後八時。予約しておいたホテルに入り、ここに住んでいるオメル氏の友人も誘って近くのレストランで夕食を摂る。おそらく七〜八百キロメートルは走ったのではないだろうか。
2005年11月30日(水)シャバンとラマザン
●朝食をすませて、オメル氏の経営する絨毯と土産物の店へ。徒歩一分。KAYMAZ&CO(「かいます、あそこ」と憶えよう!)。小学生くらいの少年ラマザンが店番をしていたので「学校は?」と英語で尋ねると、行ってないような答えだった(カタコトなのではっきりは分からない)。じつは後で聞くと、彼はもうすぐ十六歳になる(トルコは数え年齢だそうなので満十五歳になる)ということだから、一応、日本の中学程度は終えているわけだ。
ラマザン君
オメル氏はクルド人でアナトリア平原の東の地方で生まれた。絨毯商の世界に入って十年、独立して六年とのこと。一九九八年から日本へは毎年来ている。日本語はかなりしゃべれるので、ふつうの会話には不自由しない。Aさんとは、彼が別の店で丁稚をしていた頃に知り合って親しくなったとか。
一行はオメル氏にまとめて両替を頼む。だいたいトルコの給料は日本の平均給与の三分の一程度だとオメル氏。もう一人の丁稚シャバン君にBCD各氏とウンチクはまずは近隣の観光スポットを案内してもらう(Aさんは何度も来ているのでパス)。まずは何と言ってもイスタンブルの象徴、アヤソフィアへ。十分とかからない。途中で、シャバン君(彼はあるていど英語ができる)と互いに何歳か当てっこをした。彼はウンチクを若く見て二十代後半と言う。こちらは彼を老けて見て、二十代後半かと思ったのだが、じつは五十と十八のコンビであった。ラマザンもシャバンもオメル氏の甥っ子だそうである。オメル氏は三十三歳とか。
アヤソフィアはあまりにも有名でここでわざわざ紹介するまでもないだろう。現在、大修復作業中で何十メートルもあるドームの内側のほぼ半分程度の部分に足場が組まれていた。二階では建築家の個展をやっていた。模型や写真、設計図などが展示されていて、ちょっと不思議な感じ。また日本のテレビ局がカメラを何台か据えて、おそらく修復の様子を、撮影しているようだった。現地の小学生がたくさん見学に来ていた。日本人と見るや、英語で「ワッツヨーネイム?」と話しかけてくる。美少女美少年が多い。大人はそうでもないので、これは不思議。人種的にもたいへん混交している様子で、金髪ブルーアイの子もいる。
聖母子のモザイク
二階(といっても高さは三階か四階くらい)へ上がる通路。石積みのスロープになっており、長年にわたって踏みつけられたせいか、表面はつるつるだった。
つづいてブルー・モスクを拝観する。仮にアヤソフィアを法隆寺とすれば、ブルー・モスクは東本願寺といったかんじである。現在も信仰の場として機能している。六本のミナレット(塔)を持つモスクは他に類を見ないとシャバン君の説明。信者たちが手などを清めるかなり広い手洗い場が堂のすぐ側に作られている。そこから裏へ回って、狭い入口から靴を脱ぎ袋に入れて内陣へと進む。女性専用の礼拝コーナーが隅っこに設けられている(かつては女性は入堂できなかったそうだ)。正面に向かって床には礼拝区画を示した絨毯が敷き詰められている。一人一枡。ドーム天井は極めて高く、壁などのかなりの部分は植物文様の染め付けタイルでびっしりと覆われている。ただ、アヤソフィアと比較してしまうと、法隆寺と東本願寺の違いのようなもので、信仰心のないものには、さほど感銘深いというわけでもない。
入場料という形ではなく、喜捨、すなわちお布施という形で、堂を出るときに各自が適当と思われる金額を番台にすわっているおじさんに渡す。他の人たちは一ドル渡していた。ここはドルでも円でも受け取ってくれる。トルコの通貨はYTL(イエニ・チュルク・リラ=新トルコリラ)が90円程度。最近10万トルコリラを1リラにデノミしたばかり。ちなみにアヤソフィアの入場料金は15YTLだったから1350円以上ということになる。
ブルー・モスクのミナレット
一旦、オメル氏の店へ戻り、そこでケバブ・ハウスからの出前で昼食をとる。羊肉を小さめの賽の目に切って鉄鍋に入れ、トマト、トウガラシなどといっしょに煮込んである。羊飼い料理だという。味付けは塩だけ。多少ピリ辛。サラダは例によってトマト、キュウリ、ピーマン。ライス、パン。このパンはフランスパンと同じような味わいで、ただし皮がパリッとしておらず、柔らかい(昔は日本にもこんなバゲットがあった)。煮込みをライスに掛けるとうまい。

午後二時半頃、ふたたびシャバン君の案内でトプカプ・サライを見る。十五世紀から十九世紀にかけてオスマン朝のスルタンが住んだ宮殿と庭園。どんどん造営を重ねていったので、迷路のような入り組み方をしている。江戸城の大奥と同じようなハレムが有名だ。オスマン帝国は西はウィーンを攻め、東はバグダッドを手中に収めたこともある大帝国。アフリカ沿岸も含め地中海を支配していた。ヨーロッパが新大陸を求めたのは、オスマン帝国とのバランスを保つための賭けだったのかもしれないとさえ思われる。
冬場なので観光客は少ない。といっても、日本人の団体(同じ飛行機だった)もいれば韓国人の団体もおり、なかでも目を引くのが中国人の団体。服装がやや地味な感じで態度もでかく、自信に満ちている様子。ふた昔前の日本人もきっとこうだったかも、と思わせられる。もちろんアメリカ人の団体もいたし、スペイン人も多かった。
展示内容はあまりぱっとしない、というか印象に残らない。よって写真もなし(展示物は撮影禁止)。豪奢は豪奢だろうが、それがどうしたという気もする。一点、聖なる石をカバーしたという黄金製のフードのようなものが不思議な造型で気になった。聖なる石は隕石だろう。庭に野良犬が一匹迷い込んでいたのを、作業員のおじさんたちが追っ払っていたのが面白かった。上司らしきおやじが
「犬が入ってるぞ!」
下っ端答える
「のら犬だからしょうがないでやんす」
「おっぱらっとけよ、あ、ウンコしやがった!!」
なんて会話を想像する。街中では全然注意もされないふうな野良犬もトプカプには立入禁止だったようだ。といっても自由に出入りできるのだけれども。
そこを出て、トプカプの敷地内にある考古学博物館へ。先史時代からエジプト、ギリシャ、ローマ、ビザンチンあたりまでの遺物が展示されている。アレキサンダー大王のものだと伝えられてきた大理石の石棺が目玉というか白眉のようである。精巧な彫刻で装飾され、ほとんど完全な姿で残っている。石棺というより神殿のように見える。サイズも工事現場のプレハブの事務所ぐらいはあったろうか。
なかではギリシャ初期からローマ末期頃までの彫刻がずらりと並ぶギャラリーが気に入った。こまかいことは省くけれども、ルーブル美術館のギリシャ・ローマ部門よりも印象は良かった。とにかくあまり大げさに貴重品扱いしていないところがいい。Bさんによると、昨年よりも監視員も増えて、なんだかものものしくなったそうである。事故か盗難事件でも起こったのかもしれない。それでも、触りさえしなければ問題ないようで、むろん写真は撮り放題。というよりも、監視員のお兄さんみずから「記念撮影をしてやる」と言いながら、こちらの持っているカメラを奪うようにして、「これはネロだよ、ハイ、そこに並んで」パチリ! 「こっち、こっち、これ知ってる?」パチリ! というぐあいに何枚も何枚も撮ってくれるのだ。有り難いような、うっとうしいような・・・

最後に駆け足で、博物館の敷地内にあるオリエント館を見る。規模はさほどでもないが、オリエントの古代文明を網羅的に展示してあった。下の写真は左が紀元後二世紀イエメンの文字板。右に並ぶのは紀元前の粘土板文書である。

博物館を出ると、もう夕闇が迫っていた。電車道をとぼとぼと登ってオメル氏の店へ戻る。さすがに足が棒のようだ。