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林哲夫展―風の景色
 9月12日〜9月20日 新潟絵屋 風景画油彩・水彩 約20点出品

チェコのマッチラベル展 8月16日〜9月3日 Calo Bookshop & Cafe


2005年8月31日(水)高直な恋文買いし夜寒かな

一昨日のエレンブルグについて。洲之内徹『しゃれのめす』(世界文化社、二〇〇五年)を読んでいると「エレンブルグの訪問 佐藤哲三」というエッセイが収録されていた。エレンブルグが新潟の新発田を訪れたとき、加治川の舟下りを楽しんだ。地元関係者にまじって佐藤哲三(この画家については洲之内徹を読まれたし)の未亡人も同乗していた。彼女はロシアの高名な作家に亡き夫の画集を渡したいと思い、人を通じて渡してもらった。すると、エレンブルグは今からこの画家の作品を見たいと言い出した。関係者らはあわてたが、彼はその後の予定にお構いなく佐藤家を訪ね、佐藤の作品を見て感動したと画集の見返しにしたためたという。

古書現世から本届く。あてずっぽうで注文した『キューピー叢書 トランプ必勝法』(京屋書房、フジキ堂、一九二二年二十五版)はちょっとした拾いモノ。奥付記載によれば、一九一七年が初版で、毎年十、十一、十二月にはほぼ必ず増刷している。実用書は強い。キューピー叢書は他に『小倉百人一首 かるたの取り方』『新版 花合せの遊び方』『七福神福引絵』『簡易 写真のうつし方』があったようだ。

 ちなみにキューピーは一九〇九年(明治四十二年)にアメリカの女性イラストレーター、ローズ・オニールが婦人雑誌『The Ladies' Home Journal』に発表したキャラクターである。『The Woman's Home Companion』誌で二ページものの連載が始まったのが一九一〇年、オニールは絵の勉強のためにパリへ渡り、そこで彫刻家の手を借りてキューピーを立体化する。一九一三年、それを元にベルリンのビスクドール工場で最初のキューピー人形が製作された。アメリカでパテントを取って発売、その後、種々様々なキューピー人形が量産されることになる。キューピー(Kewpie)はキューピッドなので、小さな羽根がある。日本へも大正時代の初め頃すでに入ってきていた。キューピー叢書は大正六年初版。一九二〇年代はキューピー時代でもあった。

 『キューピー叢書 トランプ必勝法』京屋書房、フジキ堂、タテ149mm

 裏表紙のキューピー・マーク

書物の歴史と保存修復に関する研究会のホームページが更新されたというメールあり。

青山二郎の装幀本続き。創元社のPR雑誌『創元』第二巻第一号(一九四一年一月一日発行)。タテ209ミリ、ヨコ145ミリ。昨日の『創元』とは判型が違う。これはA5判。今、いつまで発行されたのかはっきりしないが、日本近代文学館には第三巻第十一号(一九四二年十二月発行)まで所蔵されているようだ。またそれは通巻169号となっているので、創刊は昭和三年三月発行の『1928 創元社』まで遡るということなのだろう。A5判の『創元』は合計五冊架蔵しているが、表紙のデザインはみな同じで、色だけ変えている。シロクロ反転した図柄もある。創元社関係の作家や研究者が寄稿しており、書物や古書に関する記事も多い。

 『創元』第二巻第一号



2005年8月30日(火)虫鳴くと澄ませば耳に寝息たつ

枕草子で「ちちよ、ちちよ」と鳴くとされているのは蓑虫である。ミノムシはミノガの幼虫の俗称で、日本には約二十種が生息しているという。芭蕉の句に「みのむしの音を聞きに来よ草の庵」が知られているように、現在でも「蓑虫鳴く」が秋の季語になっている。ただし、ミノムシは実際には鳴かない。江戸時代でも寺島良安は《俗説、秋夜鳴曰、秋風吹兮父恋焉、然未聞鳴声》(ミノムシが父恋しと鳴くというのは俗説、いまだかつてそんな声は聞いたことがない、『和漢三才図会』)と一蹴している。

虫といえば、昨日、岩手県の知人からもらった手紙には、今年の夏の暑さのせいでカメムシがこれまでにないほど大量発生したとあった。稲にとっては大敵なので、これを駆除するために農薬を撒布した。すると今度は、その農薬によってミツバチが大量死し、養蜂家に大打撃を与えたそうだ。イソップの寓話のような実話である。

okatakeの日記再開(!)

次のUBC(アンダーグラウンド・ブックカフェ)の準備が着々と進んでいるらしい。サイトが更新された。10月16日には彷徨舎から刊行予定の『極私的東京名所案内』に関連する坪内祐三トークショー(ゲスト=亀和田武)もあるぞ(!)。

青山二郎の装幀本続き。創元社のPR雑誌『創元』第一巻第五号(一九四〇年八月十五日発行)。タテ252ミリ、ヨコ128ミリという変型判である。表紙の図柄は中国の硯からそのまま拝借している。第一巻第七号(一九四〇年十一月十五日発行)も所蔵しているが、図柄はまったく同じ。第五号には水野亮が「長野図書館」という少年時代の思い出を寄稿しているのがおもしろい。明治の末頃、長野市の西のはずれにあった木造二階建ての図書館は一階が書庫で二階が閲覧室だった。借覧用紙に記入して係員に渡すと、《階下の書庫と聯絡を取つてくれる。驚いたことに、係員の座席のうしろに三尺四尺方ぐらゐの穴があいてゐて、遠くから覗き込むと、階下の書架の一部が見える。ガラガラと釣瓶仕掛けで本がその穴から上つてくる》または《涼しい北側の窓から眺めると、前は一面の田で、真青な穂波が揺れ動いてゐる。その向うは監獄で、高みにあるせゐか、眼と同じ高さに真一文字に長々と延びた白壁が、痛いほど陽の光を照り返してゐる。赤い獄衣の囚人が、点々と、壁に沿つて何か労役をしてゐる》などと書かれている。

 『創元』第一巻第五号



2005年8月29日(月)目録のつぎつぎ来れど秋の風

枕草子の烏の啼き声、いったいどの段に出ているか気になったので、『日本古典文学大系19 枕草子 紫式部日記』(岩波書店、一九六三年五刷)をめくってみた。案外簡単に見つかった。九七段に《かならず来なんと思ふ人を、夜一夜起きあかし待ちて、暁がたにうち忘れて寝入りけるに、烏のいとちかく「かか」と鳴くに、うち見あげたれば、昼になりける、いみじうあさまし。》(旧漢字は改めた)とある。ネット上で古活字版などを検索してみると、原文は《可ゝ》らしい。他に、四三段「虫はすずむし」に《風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く、いみじうあはれなり》とも。そういえば、これは高校時代に習った記憶があるような。

ラジオからジミヘンの「パープル・ヘイズ Purple Haze」が流れた。久しぶりに聞いたような気がする。出演者が「パープル・ヘイズ 」はナパーム弾(napalm)のことだろうと説明していた。もちろん、マリファナなどの紫煙を暗示していることは間違いないが、ネットで検索してみると、ジミヘンはこの曲を一九六六年十二月二十六日にロンドンのクラブの楽屋で書いたそうだ。

 前年の二月、アメリカは北爆を開始し、この年の四月には五十四万三千人の兵士をベトナムへ送り込んでいた(最終的には五万八千人のアメリカ人がベトナム戦争で死亡したと言われる。全死者は三百万人とも)。「地獄の黙示録」でロバート・デュバルが「I love the smell of napalm in the morning」とうそぶいたようにナパーム弾はベトナム戦争の象徴のようなバクダンである(むろんイラクでも使われている)。

 「パープル・ヘイズ 」は一九六七年にリリースされた「ヘイ・ジョー」に続く二曲目のシングルで、デビューアルバム「Are You Experienced?」US版のオープニング・トラックになっている。このLPタイトルも意味シンだ。

Purple Haze was all in my brain,
lately things don't seem the same,
actin' funny but I don't know why
'scuse me while I kiss the sky.

Purple Haze all around,
don't know if I'm coming up or down.
Am I happy or in misery?
Whatever it is, that girl put a spell on me.

Purple Haze was in my eyes,
don't know if it's day or night,
you've got me blowing, blowing my mind
is it tomorrow or just the end of time?

小松清『ふらんすへおくる書』(世界文化社、一九四七年)は先日の下鴨で買ったもの。巻中、イリヤ・エレンブルグの想い出に辻潤が出てくる。ハンガリー出身の作家ジョマイのアパルトマンでエレンブルグに紹介される。そのとき、「辻君はちょいちょい訪ねてくるが、仲々変つた男だよ」「完全な絶望者のやうですが、しかし彼は自分の考へを他人に押しつけるやうなところがないので好感がもてる」とエレンブルグは辻潤に好意を示したそうだ。そしてまた別の機会に、辻潤という名前の意味を訊ね、辻が十字路、潤が豊かさといった意味を含んでいると小松が答えると、「『十字路の豊かさ』なんて詩か小説の題になるよ。『モンパルナスの十字路』がこの世界にあつてさ、(僕たちは毎晩のやうにそこで飲んでゐるが)それが世界を豊かにしてゐる場所になつてゐるつてことは、誰も否定できないからね」と満足げに笑ったということである。他に林倭衛をモデルとした人物の登場する小説も収められている。

 小松清『ふらんすへおくる書』世界文化社



2005年8月28日(日)茗荷酒昼の古書(エモノ)が並び出す

昨夕の南陀楼綾繁+内澤旬子トークショーは無事終了。とても盛況でした。.jpgイメージをスライドで壁に投影しながら、プラハの古書店めぐり、マッチラベルが集まってきた顛末などを二人が交互に説明。珍しい本や資料を回覧してくれたのもよかった。チェコの造本作家が、紙漉から活版印刷はもちろんのこと、装画(?)として森で蜘蛛の糸を採集、特殊加工して紙に貼り付けた(すくい取った?)珍本も見せてくれた。限定三十部で各冊五葉ほどの蜘蛛の巣ページが挿まれているから、単純に百五十からの蜘蛛の巣を集めたことになる。その絵柄が何か妖しい美しさなのだ。内澤さんが作家から直接買ったそうで、お値段は一万円ほどだったらしい。チェコにはそういうマニアックな人たちがたくさんいるという。

 チャペックやカフカ、トルンカやシュバンクマイヤーなどの作品からおおよそ分かるように、チェコというところは、ユーモアあるいはブラック・ユーモアというのか、深刻なことも笑い飛ばすというようなお国柄だそうだ。おとなりの生真面目ポーランドとはかなり気質が違うという。ただ、カフカはドイツ語で創作したことからドイツ文学とみなされるようだ(以上、田中大さんにうかがったお話)。

 トークショー終了後、カロ近くの「コリアン・ダイニング味庵」という日本ふう韓国料理店へ。総勢十九人。南陀楼のテーブルは、田中氏、エエジャナイカの北村氏、にとべさん、扉野、ウンチク(遅れて前田君、石井さん)などでホルモン鍋を囲む。内澤さんたちのテーブルももやしの盛り上がったこちらのホルモン鍋を見て追従する。具を食べ終わって残った汁にうどんを入れるのが日本式(?)。話題百出だったが、終わり頃の、カロの石川さんたちが執筆して再校まで終わっている本が、版元解散によって、宙に浮いているという話は深刻だった。

 そうそう、内澤さんからアメリカ話を直に聞いた。オレゴン州はかつてフラワーチルドレンたちがたくさん移住した土地だそうで、州都ポートランドの新+古書店はとにかくだだっ広く、また買い取りもやっていて、彼女は明治期の草双紙などを持参して売ってきたらしい。岩井俊二の文庫本も二百円で引き取ってくれたって(!)。Powell.com

 ひと通り食事が終わった後、となりの扉野が、今日、天牛堺書店で買ったという本を取り出し始めた。負けじとウンチクも梅田界隈で求めたエモノを披露してしまう。中では岸田國士『善魔』(雲井書店、一九五一年)がうれしい一冊。雲井貞長は細川書店にいた人物で、独立して雲井書店を興した。細川書店の造本テイストには雲井の影響があるとウンチクは考えている。一九四九年に天野貞祐『如何に生くべきか』を皮切りに一九七〇年頃まで出版活動を続けていたようだ。三島由紀夫『花ざかりの森』(雲井書店、一九五一年)はかなりの古書価。

 岸田國士『善魔』雲井書店

昨日の留守中、古書現世の向井氏より電話があったそうだ。『逍遙』も遅れて届いていた。郵便の配達にムラがあったんでしょう。あわててチェックしていくつか注文する。

26日のオノマオペアについて三上真知さんよりメールいただいた。《聾者の若い人達から、劇画の豊かなオノマトペのオカゲで、モノの「声や言葉」が判るようになった、と何度も聞きましたよ! 健聴者や難聴・中途失聴者の世界とは、彼らはマッタク違う世界で暮らしているのでしょうね。それと、知り合いのイラン人やインドネシア人のオノマトペってそれはそれは豊です。インドネシア人が煙草の燃える音をクレッテククレッテックと表現するのは知られていますが・・・》

 とにもかくにも擬音のヴァリエーションはすばらしく多様のようである。もっともありがちな比較は犬の吠え声。日本では「ワンワン」なのに英語では「バウワウ」、トルコでは「ハウハウ」、ロシアでは「ガフガフ」だし、同言語でも時代差・地域差もある。わが国でも江戸以前(狂言などに残る)の犬は「ビョービョー」(ひよ、びよ、江戸期に「わん」が登場)と吠えていた。

 鳴くと言えば、日本の鳥の名前はその多くが鳴き声から付けられている。ウグイス、ホトトギス、カラス、スズメ、チドリ、カリガネ等(「ス」は鳥を指す)。例えば、カラスはコロク(万葉)〜コロ〜カラと鳴くのでコロス〜カラス(烏がコロスコロスと啼いたら恐いですねー、犬より利口だそうですしね)。清少納言は「カカ」と表記しているという(詳しくは、山口仲美『ちんちん千鳥のなく声は』大修館書店、一九八九年)。李白「烏夜啼」には《黄雲城辺烏欲棲/帰飛唖唖枝上啼》とある。エドガー・ポーの『大鴉』では「nevermore」に音が重ねられている。

 ついでに猫は源氏では「ネーン、ネーン」(寝む)と鳴いているそうな。もひとつついでに「ニコニコ」は「ニコ」(柔和)〜ニココ〜ニコニコとなったらしい。

昼食をいつものラトナカフェで。うまから手帖の8月20日に登場しているのをナベツマが話題にする。「そうですか、ブログは見てないです。そのとき誰もお客さんがいなかったので、入ってこられたときには、期待できないって雰囲気でしたよ(笑)」

 その後、鷹峯のパン屋に寄り、さらに玄以通りの御倉屋で「夕ばえ」と「旅奴」を求める。御倉屋は住宅街の中にあってちょっと目立たない名店。ショーケースに値段の表示がない。貧乏性のナベツマはいつもドキドキしてしまうという。

 さらに、ここまで来たのだからと、宝ヶ池まで足を伸ばす。新しくできた「ブ」をのぞくため。さほど驚くようなものはなかったが、安い図録など何冊か購入。例によってクジ引きをやっていた。宝ヶ池店のみ有効の五十円券が当たったので、もういちど店内を物色しなおして文庫本二冊を購入する。ゆるゆると帰宅。



2005年8月27日(土)銀魚の影鷹の爪穫るおくればせ

鷹の爪が虫除けなるらしい。鉢植えにしているのがちょうどある。さかんにうろつく銀魚(紙魚)に効くか。本日はカロへ午後から出かける。報告は明日。ブログをチェックすると、古書現世の『逍遙』最新号が出たらしい。山本には届いているのにうちには届いていない・・・・・・・・・・。


【ナベツマ通信《よっしゃあ、リベンジ!》】

 eBayのオークションでは、終了間際が壮絶な駆け引きになることもある、と以前ここで書いたが、今回身を以て体験することになったナベツマ。

 競り合ったのは、ルクルーゼのソースパン、お色は断然人気のホワイトである。このソースパン、形が一風変わっていて、デザインはイタリア人工業デザイナーEnzo Mariの手になるもの。1973年に発表された"La Mama" cookerというシリーズのデザイン。日本では「ママシリーズ」という通称で呼ばれている。蓋や鍋の取手に特徴があり、なかなかかわいい一品

 さて、日本のヤフーオークションで、こと鍋オークションに限ってのライバルはしろうとだが、eBayではそうもいかない。もちろんeBayにも個人コレクターがいることはいるが、最後に競う相手はやっぱり日本人バイヤーとなる。彼らは日本のヤフオクの出品者であり、ID名は変えてはいるものの、落札したブツを見ていれば、誰が誰なのか一目瞭然。

 で、いっつも最後のぎりぎり入札で負けてたんだよなー。その場合、たいてい1ドル負け。悔しいやら、腹立たしいやら! でも、これってなかなか感動ものの世界でもあるんだよね。だって、ポチする時に、あたしは全世界を相手に競ってるんだと思うだけでもすばらしい!!(実際には、みんなを蹴飛ばして日本人同士で競ってるんだけどね。)

 さあさあ、リベンジってどういう意味なんよ?? それは・・・今回のEnzoソースパン、終了間際で1ドル差で勝っちゃったんでっす! そいで、相手は? ほほ、イボ付キャセロールの出品者なんよー(8月5日参照)。鍋の借りは鍋で返すに限りますなあ、ははははは。

 

**直径17cm、容量1.5L、重量2.1kg、木製の持ち手が太く、銅で補強されているのが特徴。



2005年8月26日(金)大風の過ぎてだらしのない暑さ

小泉が岡田との一対一の政策論争を拒否したことについて、あるワイドショーを見ていると、ある大学教授が、小泉はイメージで説明するのは得意だが、論理的な説明は苦手だ、というような解説をしていた。苦手というよりも論議する意志がないと思うのだけど、まあ、それはそれとして、引き続き『ニコニコ通信』を読んでいると、長嶋氏がドイツ語学者・関口存男(せきぐち・つぎお 1894〜1958)による擬態(音)語の特出性について言及しているくだりがあって、ホホウと思ったので、ちょっと引用してみる。

《何んの音もしない場合に「シーン」という音を聴きこなす日本人のことば表現を外国人はいったい?とか。この擬体語は同じく日本のコミックの歴史をみるとハナハダしい。「BOOM」とか「ZZZ」しか云わなかった海外に対して、さいとうたかおは、一九六〇年代には黒ぬりの車から降り立つ暴力団の男のクツが玉ジャリの上で「ザッシャ」と云わせていたし、「チャッ」と取り出したピストルからはすでに古典となった「ドキューン」「バキューン」を登場させていたのだった。》p94〜95

 そしてこの日本人と外国人の差異を《留巣番電話のテープで、「発信音のあとに」というのと「ピーッと鳴ったら」のちがい》と喩えている。なかなかウマイ比喩だ。長嶋流でいくと、小泉は「ピーッ」派であって「発信音」派ではないということか。そして「ピーッ」派の手法が支持されるわけだから、日本人のオノマトペア(onomatopoeia 擬声語、声喩法)、擬態語(mimetic)好きはまず間違いがないところであろう。

 なお関口存男はなかなかユニークな語学の天才であったらしい。法政大学時代に関口と対立する立場にあった 内田百間は、関口を「ゴロツキのような男」と評したそうだ。百間にゴロツキとののしられるのだから、よほどの勤勉家にちがいない。ちなみに百間もオノマトペアを好む作家の一人である。

 「シーン」についてはウンチクも気をつけている。先日引用した『怪談牡丹灯籠』では《一際世間がと致し水の流れも》(寂にルビ=しん)、漱石は《けれども世間はと静かであつた》(「門」)、森田草平も同じく《滅入込む様に四辺がとする》(「煤煙」)、山村暮鳥《そこはしづかだ/しいんとしてゐる》(「木」)、嘉村磯多《界隈はシインと鎮まつてゐた》(「秋立つまで」)などなど。また露伴に《その家も人がいないように岑閑(ルビ=しんかん)としていた》(「観画談」)という用例もある。

 井上ひさしは『自家製文章読本』や『私家版日本語文法』(ともに参照したのは新潮文庫版)においてオノマトペを論じているが、後者では、サ行の音「シッ」や「シーン」が《静かさを現わすのは自明だろう》(p210)としている。また、前者では宮沢賢治を《日本文学史上、空前のオノマトペの使い手》とし、彼と比肩しうるのは《中世の狂言作者と現代の劇画家やコピーライターぐらいなものだろう》と述べている。

 漱石の『硝子戸の中』三十五に、日本橋瀬戸物町の伊勢本という寄席で講釈を聴いた思い出話が語られているが、それは少年漱石にとってきわめて不思議な世界だったようだ。

《其中には、すととこ、のんのん、ずいずい、などといふ妙な言葉を使う男もゐた。是は田辺南龍と云つて、もとは何処かの下足番であつたとかいふ話である。其すととこ、のんのん、ずいずいは甚だ有名なものであつたが、其意味を理解するものは一人もなかつた。彼はそれをたゞ軍勢の押寄せる形容詞として用ひてゐたらしいのである》(春陽堂、縮刷一九一七年版より、なお《すととこ、のんのん、ずいずい》には傍点、《のんのん、ずいずい》は繰り返し記号使用)

 狂言から落語、講談などの大衆的な芸能ではオノマトペアやミメティックが好まれてきたと考えていいだろう。それが近世、近代文学から漫画、アニメへと受け継がれて行くように思われる(漢詩文にも蕭蕭、亭亭、粉粉、唖唖など数々の用例があるも、煩雑なので省略)。例えば、尾形亀之助の傑作「ある来訪者への接待」(『色ガラスの街』恵風館、一九二五年)は以下の通り。

  どてどてたてててたてた
  たてとて
  てれてれたとことこと
  ららんぴぴぴぴ ぴ
  とつてんととのぷ
  ん
  んんんん ん

  てつれとぽんととぽれ

  みみみ
  ららら
  らからからから
  ごんとろとろろ
  ぺろぺんとたるるて

 これは落語の「浮世床」に《トントンチンチロリン》と言っておいて、女中が酒を運んでくる様子だよ、と説明するギャグのロング・ヴァージョンに過ぎない、と決めつけては身も蓋もないが、そういう連続性も見えるのではないか。

 長嶋氏が海外の漫画に擬態(音)語が少ないと言うのは分からなくもない。しかし、おそらく、さいとう・たかお(最近「・」がある)は敗戦直後のアメリカン・コミック(百花繚乱の時代であった)からきわめて多くのことを学んだと思われる、オノマトペアも含めて。

 宮沢賢治だけでなく、童話や童謡にはオノマトペア・ミメティックがあふれている。例えば、童謡では「鳩ぽっぽ」「汽車ぽっぽ」「めえめえ児山羊」「どんぐりころころ」など、タイトルもそうだが、たいていの歌詞は、ちんちろちんちろ、ちんちろりん(虫の声)とか、チョッキン、チョッキン、チョッキンナ(あわて床屋)とか、ぎんぎんぎらぎら(夕日)とか擬音擬態語の宝庫である。

 これらをひっくるめてみると、要するに「ピーッ」派は子供にいちばん受けるのだ。子供に論理はいらない。だから「ピーッ」派を喜ぶ日本人もたいへん子供っぽいという結論になる。そういえば、『ニコニコ通信』も立派な擬態表現である。



2005年8月25日(木)体操の果てて姉妹の佇めり

昨日の俳句に往事茫々(往時茫々)という言葉を使ったのは『sumus』読者のお便りにならってのことだった。振替用紙の通信欄にいつもちょっとした感想を書き留めてくださる方である。例えば、《同人の皆さんが博識博学なのにはいつも驚かされます。小生など50年以上も神田に通つて何をしていたかとの思ひ深し。貴兄の蔵書印の話を読んでいて賣つてしまつた堀辰雄の印譜「我思古人」を又手に入れたくなりました。モナミの話も古き良き時代を思ひ出させます》(7号)、《神戸の黒木書店が廃業とのこと、小生も仕事の合間に大阪から神戸へ足をのばし三の宮の後藤書店から元町の黒木書店まで行った一人です。やはり見るだけの中年以上のお客は駄目だとおこられました。もう何十年前でしょうか。往時茫々です》(9号)。

 その方のお名前を栗原滋男さんという。かなりの蒐集家だった様子は短文のなかにもうかがえる。ところが、昨日届いた『彷書月刊』を読んでいると、青猫書房・阿部秀悦氏が「本に憑かれて二十五年」というエッセイのなかで顧客の名前を挙げてこう書いておられるではないか。《佐々木桔梗、生田耕作、関川左木夫、栗原滋男といった御客さんの応援に与っている》《駒込の栗原さんは正真正銘の紡績会社の社長の御曹司、二十坪の書斎兼居間には木下杢太郎自筆画、日夏耿之介の書が飾られていた》《蔵書の処分を決心されたのはバブル景気の真っ最中で、青猫の粗末な目録でも江川版『伊豆の踊子』百万円に即日二名注文、朔太郎『月に吠える』百八十五万円が売れた月の売上げは四百万円を越えた。駒井哲郎銅版画原板を嵌め込んだ『睡眠前後』試作一部本は小さな銅版画額も付いた愛すべき書物。高橋啓介さんが探求、渇望したこの本も栗原さんから戴いた》・・・これには驚かされるとともに、納得もさせられたのであった。

 栗原さんとは一度お会いする機会があった。あったと言っても、すれ違っただけである。六本木での個展の折りに訪ねてくださったのだ。ところがあいにく昼食に出ていた。画廊に戻るとき、ちょうど出て行かれる白いスーツの紳士をお見かけした。置いていかれた名刺(和紙を使った立派なもの)に「栗原滋男」とあり、「ああ、あの方だったか、お話したかったなあ」と残念に思った記憶がある。

『女性』第一巻第五号(一九四六年八月号)届く。石神井書林より。とても状態が良い。表紙ばかりでなく、巻頭に佐野繁次郎の水墨デッサンが三点掲載されており、さらに菊池寛の小説挿絵が三点、そして鍋井克之の随筆まで載っている。巻頭写真ページの構成は亀倉雄策だし、田中千代のスタイル画もある。連載小説は、菊地の他に、正宗白鳥、藤沢桓夫、小島政二郎、川口松太郎。花森安治のカットまで入っている。新生社の勢いを感じさせる雑誌だ。

 『女性』第一巻第五号 表紙=佐野繁次郎

さらにネット検索で見つけた石塚友二『松風』(角川文庫、一九五五年)帯付きも届いた。うれしい。

目下、ヤフー・オークションに松本竣介表紙画の『新岩手婦人』(昭和二十一年五月号)が出ている(Mさん情報)。15,000円スタートだったが、だれも入札しなかったので延長になっている。この値段では手が出ない。



2005年8月24日(水)夏休み往事茫々指を折る

『彷書月刊』9月号届く。二十周年記念号。めでたい! いつになく、いや失礼、いつも以上に楽しい誌面になっている。驚いたのは「古本文化史この二十年略略史」に『ARE』創刊号(一九九六年十月)が図版入りで掲載されていることだ。この評価はうれしいです。『ARE』から『sumus』へ、意識したわけではないけれど、古本の荒野にひとつの細道を作ってきたようだ。今月号は保存版です。

  

『彷書月刊』二十周年記念号と創刊号(一九八五年十月号)、『ARE』創刊号

編集出版組織体・アセテートの新刊、長嶋康郎『ニコニコ通信』が届く。長嶋さんは一九四七年新潟県佐渡郡新穂村生まれ。獨協大を七年かかって出て、職業を転々とした後、一九七八年、国分寺市恋ヶ窪に古道具店を開いた。九〇年頃から「ニコニコ通信」という個人新聞を不定期で刊行しており、その二十号までがこの本に収録されている。他に『古道具ニコニコ堂です』(河出書房新社、二〇〇四年)の著書もある。

 う〜む、アセテートの中谷氏から次ぎに出す本ですと教えられたときに初めて「ニコニコ通信」を知ったわけだが、それにしては、長嶋氏の略歴にはウンチクとの因縁のようなものが感じられる。新潟(疎開中に生まれたとのことだが)では個展もしたし、来月に予定しているし、加能作次郎も佐渡生まれだし、獨協大といえば、祖母の弟が理事をしていたことがあるし、恋ヶ窪には鷹ノ台に下宿していた頃、風呂屋に通った思い出もあり、他人とは思えない(でも他人です)。

 まったくくだらない内容に、おどろきあきれつつ、思わず読み込んでしまう。いかにも団塊の世代まっただなかという感じが、イヤミではなく、ほほえましくも、なさけなく、どこかしたたかで、困ったもんだといいながらも本を離せない、といったスバラシイ一冊。《過去をあたためすぎるというヒハンがありますが あたためているのです!!》という開き直り、手書きゆえの確信犯的誤植《おばさんは留巣だった》とか《嫌われている自確がなかったが》など、天然オーラにあふれている。ヒマな人におすすめイチオシ本(忙しい人の息抜きにも是非)。書肆アクセス他で入手できるはず。直販もあるよ。

 長嶋康郎『ニコニコ通信』編集出版組織体・アセテート 装幀=中谷礼仁

扉野良人は日帰りで金沢21世紀美術館へマシュー・バーニー展を見に行ったそうだ。《バスの行き帰り、偶然砂の書寺井さんと一緒となり、夕方の金沢駅で恵文社能邨さん夫婦とバッタリ、帰りのバスには村松美賀子さん(林さんとはいちど箱庭で山下陽子さんの個展でご一緒した)夫婦がのりこんできて偶然の三連ちゃんでした》・・・マシュー・バーニーおそるべし(?)。この展覧会は東京へは巡回せず、そのまま韓国へ移動するらしい。かつて一九八四年に京都市美術館でバルチュスの展覧会があったとき、これまた東京では見られないとあって、大勢の人たちが駆けつけたことを思い出す(一九九三年になって東京ステーションギャラリーでも開催されたが)。

 クレマスター・サイクル1〜5で知られるというか、ビョークのダンナということで知られるバーニーは一九六二年サンフランシスコ生まれ。六歳でアイダホに移住し、父母の離婚後、父とともにアイダホに住み、ハイスクールではフットボールをやっていた。母のいるニューヨークへ行って美術館や美術に触れた。スポーツとアートの出逢いが彼の作品を形成している。一九九一年にエール大学を卒業し、美術の世界に身を投じたが、すぐに頭角を現した。映画「クレマスター」が代表作。CREMASTER というのは The title of the films refers to the muscle that raises and lowers the male reproductive system according to temperature, external stimulation, or fear. キンタマを縮みあがらせたり緩めたりする筋肉のことだって。

『喫茶店の時代』(編集工房ノア、二〇〇二年)の初版本を版元から入手。二刷の方が誤植などは少ないが、とにかく初版が欲しいという方も少なくないので。ご希望の方には署名入りでお頒けします。sumus_co@yahoo.co.jp




2005年8月23日(火)処暑の雨色紙の墨を斜に眺め

ようやく『BOOKISH』9号が届いた。特集・山田稔の本。これは力作である。さすがに巻頭、堀江敏幸「メロンと爪―ロジェ・グルニエと山田稔」はうまい(!)。もう少し細部を書き込んでもっと長い読み物にしてもらいたいくらいだ。その他、柳瀬徹、三輪正道、古賀光、北沢街子、金子拓、各氏のエッセイもそれぞれ思いが強いだけに読み応えがあるというもの。山田稔ロング・インタビューも必読。ただひとつ惜しいのは、ここまでやるなら書誌的な著書目録を備えて欲しかった。また、長沖一のミニ特集も貴重である。ただ、長沖は単独でメイン特集とすべき、してこそ意味があろう。他に松本八郎が渋川驍について書いている。内容一新の『BOOKISH』、方向性がはっきりしたのが何よりだ。

 山田稔『シネマのある風景』みすず書房 一九九二年

里見トンの色紙の出典について、田中大氏よりお教えをいただいた。さすがである。

《この後半についてはばっちり同じ語句がある文章もあるようです。

隋書 列伝第三十一 李〓(ごんべんに愕の右側)
臣聞舜戒禹云:“汝惟不矜,天下莫与汝争能;汝惟不伐,天下莫与汝争功。”(中国の国家文物局のHPより)

これを見るとどうやら訓読は「臣聞くならく舜、禹を戒めていわく、『汝ただほこらず、天下(に)汝と能を争うなし。汝ただほこらず、天下(に)汝と功を争うなし』と。」となるのかもしれません。(ふたつ対句になっているので、なんとなく読めたような気になっています。)あるいは

旧唐書 列伝第二十八 張行成
臣聞‘天何言哉,四時行焉’;又聞‘汝惟不矜,天下莫与汝争能’
臣聞くならく「天何をか言うや。四時 行なわる」と。また聞くならく「汝ただほこらず、天下(に)汝と能を争うなし。」と

となるのでしょうか。(天何言哉,四時行焉は論語から)》

・・・なるほど、まったく同文の出典があれば別だが、とりあえず『隋書』あたりをアレンジしたと考えておいていいようだ。それにしても、昨日のウンチクの解釈はまったく愚考であった。たしかに「天下」を「天下に」、「与汝」を「なんじと」と解するのが自然である。「伐」は「征伐、斬首、斬る、殺す」、そこから「武功の家(名門)」や「誇る」の意味が派生した(『字統』)。「舜、禹を戒めていわく」とあることからすれば、帝の舜は、臣下の禹が伐(ほこ)っていたのでたしなめた、「そんなに威張らなくても、おまえがイチバンだぞ」、となる(?)。

 文意がおおよそ分かったところで、では、里見トンがどういう心境でこの文章を選んだのか、そちらの方も気になってくるが、穿鑿はキリがなくなりそうなので、このへんで終わりにしておこう。なお、解釈について異論があれば、遠慮なくお寄せいただきたい。sumus_co@yahoo.co.jp

里見トンで思い出したのがプラトン社の雑誌『女性』(第十二巻第二号、昭和二年八月号)の記事。里見邸の台所訪問記が写真、見取図付きで掲載されている。《鎌倉西御門に新築された里見〓氏の邸宅は、里見氏が創作的な気持ちになつて設計されただけあつて、すべての点に於いて、氏の作品に見えるやうな周到さと細心さが窺はれる》とか。

 


【ナベツマ・ジャンク】
ナベツマが今日「あたしの書斎」と呼んでる近所の本屋で立ち読みして仕入れてきた情報。小泉の刺客「くノ一クインテット」の星座は、みごとに山羊座の小泉と相性の良い星座だったそうな。
  小池百合子/かに座
  片山さつき/牡牛座
  猪口邦子上智大教授/牡牛座
  藤野真紀子料理研究家/乙女座
  高市早苗/魚座
ちなみに山羊座は人を信じることが苦手。晩年、周囲がみんな敵に思えた秀吉と同じ星座である。

【ウンチク・コーナー】
高市早苗女史はさすがアメリカ帰り、自分ことを「刺客」でなく「ヒットマン」と呼んでいた。「hit man」はスラングで(1)A man hired by a crime syndicate as a professional killer[犯罪組織に雇われた殺し屋]または(2)A hatchet man[首切り男=政党に反対するものをこっぴどくたたく闘争的な新聞人(後援者)]。「伐」が首を斬るという意味で、バンバン首を斬った者が名門になり誇りを得るのは古代中国のお話、かと思いきや、天下汝と争う者ばかり・・・ですか。



2005年8月22日(月)歩を数えツクツクボーシなりひそむ

備忘録の掛野氏より石塚友二の著書についてご教示をいただく。《三種類の『松風』、収録作が「松風」以外殆ど異なるのが面白いです》とのこと。角川文庫に『松風』が入っているとは、手に入れたいものである。

『松風』1943年8月25日 小山書店 2円28銭 232頁
    収録作品=「松風」「郭公」「星」「流水」「菊の秋」「十年」「あとがき」
『松風』1948年2月10日 松和書房 60円 199頁
    収録作品=「松風」「祖神の燈」「星」「ねがひ」「郭公」「流れ」「北国にて」「秋夜」
『松風』1955年11月10日 角川文庫 40円 108頁
    収録作品=「松風」(「文学界」s17・2)「祖神之燈」(「季刊八雲」s18)「秋夜」(「新潮」s18・10)「春と夫婦」(「織物時報」s22・3)「夜の雛」(「心」s23・4)石田波郷「解説」

 納涼で買った『書物展望』第十三巻第二号(昭和十八年二月号)に石塚は「本屋時代」というエッセイを載せている。当時の取り次ぎの様子がよく分かるので、簡単に紹介する。

 十九の春(大正十三年)に上京し、四ヶ月ほど他で働いた後、神田表神保町の東京堂へ勤めることになった。東京堂が小売と出版だけになったのはここ両二年のことで、それまでは大抵は卸屋であり、入店から退店まで卸しの仕事を勤めた。少年店員(小僧)は盲目縞の木綿の仕着せに紺の前掛、角帯を締めていた。ふつう入店すると、まず小売部に立ち、雑誌、新刊、既刊単行本と進んで、一二年で卸しへ廻される。郵便(地方発送)、東京市内へ卸す事務手伝い、倉庫へ廻って雑誌番、書籍番、そして最古参となって買物係(全国書店の注文を発行所へ取りに行く)に行く。

 私はいきなり倉庫の二階(書籍)へ配属され、ヒマにまかせて倉庫の本を読みふけった。この三ヶ月間が東京堂足かけ九年の在店期間を通じて最も楽しく幸福であった。次ぎに倉庫の雑誌係に移った。講談社がキングを発刊した当時で、講談社から贈られた最中(モナカ)をほおばりながら倉庫と発送場を幾度となく往来した。三ヶ月後には買物係へ廻された。そこには七人ほど先輩がいたが、いずれも入店後四五年の経歴だった。徴兵検査(二十歳)を境として正社員の待遇に改めるのが通例だった。

 取次の店員はどこも箱車を牽いて廻るのが常識だった。襟に橙色の刺繍で店名の入った縞の法被を着て、木綿の白ズボンに地下足袋をはいた揃いのなりで、受け持ち区域を箱車を牽いて歩いた。最初の担当区域は「中央方面」で春陽堂、春秋社、成美堂(のちの河出書房)、大阪屋号、わん屋(謡曲)などがあった。次が「京橋方面」で大日本図書、明治図書、目黒書店、隆文館、松村三邑堂、警醒社福永書店、実業之日本社など。「麹町方面」は丁未出版社、日本書院くらいで、よく憶えていない。それから「牛込方面」の新潮社、叢文閣、大村書店、研究社、「本郷方面」の南江堂、南山堂、吐鳳堂、克誠堂、森江書店、玄黄社、竹柏会など、「東部方面」の三省堂、富山房、明治書院、有朋堂など。

 次は店に居ながら遠距離の発行所に電話・ハガキで注文を出す買物係に転じた。これを一年続けて正社員になったときの月給は三十五円。正社員になるとともに書籍係に任ぜられ、一円全集の洪水に見舞われた。この時機に誠文堂新光社、栗田書店が急成長するのをつぶさに見た。五年後退職したとき(昭和七年)の月給は五十三円だった。

 なお、石塚は昭和八年に書物展望社に入社している。当時の経営者・岩本和三郎が東京堂出身だった関係から引っ張られたようである。その岩本と行き違いなどあって昭和十年に同社を離れ、沙羅書店を興すことになるのである。

某氏より里見〓(とん、弓享)の色紙をいただく。意味を教えて欲しいと言われたのだが、ううむ・・・。きっと出典があるのだろう(ちょっとした検索では出てこない)。《爾唯不/伐 天下/莫与汝/争能》。仮にこう読んでみた、「ただ伐(ほこ)らないだけなら、天下はおまえに争うわざを与えない」・・・どうだろう、乞ご教示。




2005年8月21日(日)発条(ぜんまい)の今にも伸び切る蝉鳴けど

「早稲田古本村通信」77号に松本が加能作次郎 三冊の遺著 その出版社・その出版人』の宣伝がてら某氏批判を行っている。ま、ま、落ち着いてくだされ、殿中でござる・・・。同じく荻原魚雷の連載「男のまんが道第8回/不死身の男の運命〜ちばてつや『紫電改のタカ』」にある以下の指摘には目から鱗がポロポロ落ちた。

「紫電改」は、日本海軍の戦闘機である。当時の海軍の主力機は「ゼロ戦」が有名だが、「紫電改」は「紫電」という戦闘機の改良型。「ゼロ戦」より高速で機体も大きかった。
 ちなみに『機動戦士ガンダム』のカイ・シデンの名は「紫電改」からきている。アムロ・レイは「零戦」、リュウ・ホセイは「流星」(艦上攻撃機)、ハヤト・コバヤシは「隼」(はやぶさ=陸軍の名戦闘機)だろう。たぶん。

 ガンダムと『紫電改のタカ』の関係にはまったく思い至らなかった。

 ちなみに、太平洋戦争中、アメリカは日本軍の戦闘機に男子名を付けていたという。「飛燕」は「トニー」、「鍾馗」は「トージョー」、「屠龍」は「ニック」。そして「零戦」を一般市民は「ゼロ」と呼んでいたが、航空兵たちは「ゼイク Zeke」を使ったそうだ(バーレット・カー『戦略・東京大空襲』光人社、一九九四年)。

ここでなぜか「飾りじゃないのよ涙は」という流行歌のお話をひとつ。井上陽水の作詞作曲(編曲=久石譲)で中森明菜が唄ってヒットした。一九八四年末頃のことである。サビの歌詞は

  飾りじゃないのよ涙は HA HAN
  好きだと言ってるじゃないの HO HO
  真珠じゃないのよ涙は HA HAN

 だが、この歌詞はボードレールの『悪の華』から取られている? かもしれない。

 それは「LVII A UNE MADONE EX-VOTO DANS LE GOUT ESPAGNOL」(「あるマドンナに」)という作品で、ボードレールを袖にしてテオドール・ド・バンヴィルに走った女優マリ・ドーブランに対する未練たらたらの戯詩である。スペインの装飾過多とも思える聖母像にマリ(=マリアようするにマドンナ)をなぞらえてサディスティックな怒りをぶちまけている。該当の個所は以下の通り。

  Non de Perles brode, mais de toutes mes Larmes !(brode の e にアクサンテーギュ)

  縫い取りは「真珠」どころか、おれの流した「涙」全部だ!(安藤元雄訳、集英社文庫、一九九三年版)

  縫取りは真珠にあらず、わがすべての「涙」!(村上菊一郎訳、河出書房版ボードレール全集、一九三九年)

  わたしの涙だよ、真珠じゃないぞ、縁飾に使うのは。(杉本秀太郎訳、『まだら文』新潮社、一九九九年)

 この詩、最後の七行がまたかなりエゲツナイ表現で、杉本訳がおそらくいちばんボードレールの卑猥な憤懣を反訳することに執着している。ご興味のある方は杉本文を当たっていただきたい。ま、しかし、このフレーズを連想するのは単に「真珠」と「涙」が出てくるというに過ぎないので、陽水がここからインスピレーションを得たと言うには無理がありそうだ。

 BAUDELAIRE“LES FLEURS DU MAL”EDITIONS DE CLUNY, 1941

 杉本秀太郎『まだら文』 装幀=柄澤齊

DVD「スクール・オブ・ロック」(リンクレイター、2003)を見る。ロックスターの夢を捨てきれない男(ジャック・ブラック)が成り行きで私立エリート小学校の補充教師になりすまし、生徒たちにロックの技と魂を伝授する・・・どこかで見たような・・・そうそう、メリル・ストリープがハーレムの子供たちにクラシックを教える「ミュージック・オブ・ハート」(クレイヴン、1999)の裏焼きだネ。とにかくジャック・ブラックの熱演で最後まで引っ張られる。筋はミエミエでもけっこう楽しめた。ツェッペリンの「移民の歌」を拝み倒して劇中に使用することに成功したオマケ映像もあるよ。

錦小路で流行っていたものはソフトクリームでした。

『文学季刊』創刊号 装幀=青山二郎