◆HP
TOP ◆8月下旬
◆チェコのマッチラベル展 8月16日〜9月3日 ◆南陀楼綾繁+内澤旬子トークショー 8月27日17:00〜
◆林哲夫展―風の景色 9月12日〜9月20日 新潟絵屋 風景画油彩・水彩 約20点出品
●お知らせ デイリー・スムースの容量が多くなったため下旬を分離しました。8月下旬
2005年8月20日(土)閑(しん)とした書店を出る苦秋暑し
●ナベツマと外食。柳馬場錦小路上がる西側の中華麺酒家京都五行でラーメンを食す。今風に脂が浮いている類。まずまず、だが二度はないだろう。この場所で以前、イタリアンだったか、ランチを食べた覚えがある。奧に蔵が建っている。モルガンお雪の旧宅だとか。
錦小路を歩いて気づいたこと。今、変わり○○○が流行っている。黒ごま○○○、豆乳○○○、黒豆きなこ○○○、ほうじ茶○○○、抹茶○○○、そしてなんと七味○○○まで……夏にはおいしい食べ物だよ、○○○は何でしょう?
●食後は、尚学堂、アスタルテ書房といういつものコース。アスタルテにはスムース文庫のバックナンバーを納品した(みなさまよろしくお願いいたします)。北園克衛『郷土詩論』(昭森社、一九四四年)を購入。ギャラリー・ヒルゲートで「窪島誠一郎コレクション・日本近代版画の流れ展」を見る(明日まで)。恩地孝四郎の小品二点あり、一点売れていた(ともに140,000)。残っている木版画(?)が良かったなあ。その後、丸善のバーゲンセールをちらっと覗いて、あまりに暑いので帰宅。
●Mさんより均一で見つけましたと『稿本神田古書籍商史続編』(東京都古書籍商業協同組合神田支部、一九七九年)を贈られる。写真付・神田古書街というのが懐かしい。ちょうど大学時代にうろついていた時期にあたる。いつもながら感謝です。
●扉野がお参りの帰途、立ち寄ってくれる。お坊さんの正装。あれはかなり暑いとのこと。お寺の蔵書を整理しているそうで、ウンチク向きの本を持参してくれた。青山二郎表紙の『文学季刊』(実業之日本社、一九四六年)創刊号、渡辺一夫表紙の『現代世界文学展望1952』(群像第七巻第一号付録、一九五二年一月)、ルオー『我が回想』(武者小路実光訳、甲鳥書林、一九四三年)などである。多謝。
●『書物展望』同じく十巻第九号(この観燈随筆号はなかなか充実している)より、矢野目源一「読書の回想」を要約してみる。矢野目の著書についてはよくまとまったサイトがあるので参照されたい。
当年取って四十四歳(昭和十五年当時、ということは明治二十九年生まれか)、幼児期に叔父叔母に文字を教えられ、小学校に入る頃には博文館の雑誌や巖谷小波のお伽噺を読んでいた。中学校時代には国文大観、有朋堂文庫、帝国文庫を読破。父の趣味につきあって四書五経を素読し、母に三千体文字を手習いさせられた。
溝口三郎と回覧雑誌を作った。受験準備中に市河彦太郎に河合栄次郎や秦豊吉を紹介された。藤村、独歩、透谷、二葉亭、白樺派などを耽読。メーテルリンク、ツルゲネエフ等の英訳本も読み始める。
慶応大学仏文科に入学。教授でアイルランドの詩人カズンスに可愛がられ、英詩やアイルランド文学を読む。教授には他に、阿部次郎、戸川秋骨、馬場孤蝶、豊島与志雄、野口米次郎、沢木四方吉ら。毎朝四時に起きて大学へ行くまでに語学を自習した。アナトオル・フランスとグルモンは出版されていただけ全部読む。この二人の文人の趣味が一生を通じての指導となった。
日夏耿之介の門下に詩を勉強し、籾山書店から詩集を二冊出版した。堀口大学に仏文学を、辰野隆に象徴詩を学んだ。有島武郎の「草の葉会」(ホイトマンの詩を中心とした座談会)に通い、大佛次郎、和田日出吉を識る。その頃の蔵書は二千冊、メルキュール・ド・フランスの刊行書をすべて取り寄せたため、中野の父の家の庭に一軒家を新築してもらった。
大学は出たが自活できなかった。もう女房と子供が二人あった。翻訳書を新潮社、春陽堂、第一書房から数種出してもらったが、それでは生活できない。そこで、フランス映画輸入会社の支配人に急旋回した。やっと暮らせるようになったら女房の姦通事件などあって家庭を解散。仕事も辞めて実家で寄食するようになる。
ある酒場女と同棲するようになって父の家を出、女に養ってもらう。新宿の夜店で化学の安本を買い始め、科学書を読みあさり、美容科学を大系づけて化粧品会社の重役となる。ふたたび新刊の翻訳書を自由に読めるようになり、堀口大学訳や山内義雄訳を読むことに幸福を感じている。
……と、だいたいこのような内容だが、矢野目の著書目録を見れば分かるように、その人生はまだまだ変転するのであった。
2005年8月19日(金)軒燈の電球換える地蔵盆
●セドロー向井くんが『早稲田古本劇場第四幕』(胡蝶の会、二〇〇五年)を送ってくれる。「店番日記」をまとめたもの四冊目。何度読んでも苦笑を禁じ得ない。これだけ読むとそうとうヘンな古本屋だよ、古書現世は。残念ながら限定35部の稀少本。署名入り(!)、ありがとう。右文書院の方はすすんでる?
【ナベツマ通信番外・生薬の正しい飲み方】
大衆薬業界の再編が進んでいる。養命酒の養命酒製造が、大衆薬で最大手の大正製薬と資本業務提携を結ぶそうである。なんでも最盛期から3割の販売量減だそう。
そういえば、ナベツマは高校時代に二日酔いで学校を休んだことがある。ある午後、ちょっと体がだるいなあ、と思ったナベツマは、親が常用している養命酒を飲んでみることにした。ところが、あの小さなコップ(専用容器)が見当たらない。ええい面倒だ! とばかりに、養命酒の瓶をぐいっとラッパ飲みしたのである。
ちょっとだけよ、と思ったのだが、傾け方が大きかったため、ガバガバとのどを通過してしまった。さあ大変、その後すっかりよっぱらって気分が悪くなり、しばらくしたら、全部もどしてしまった。翌日、学校を休んだナベツマ宅にクラスメートが宿題やらなんやらを持参しやってきた。
・・「ユミちゃん、今日は何のズル休み??」
**「何言ってるねん、ほんとに具合が悪かったんよ!」
・・「えっー、うっそー、あっ、クッサー! 何、この匂い!?」
**「ちょっと飲み過ぎたんよー」
・・「何を?」
**「養命酒・・」
・・「アホー!」
思うに、養命酒はあの小さなコップを大きめに替えればもしかして、販売3割戻るかも? 味の素もマヨネーズも容器の口を大きくして、売り上げを伸ばしたと聞いてるし。なお、養命酒のHPには、使用上の注意として「ラッパ飲み禁止」という項目はない。入れたほうがいいかも。
2005年8月18日(木)レッテルを剥がす手を止め花火聴く
●YKさんより佐野繁次郎装幀の河盛好蔵『ふらんす手帖』(生活社、一九四三年)などが届く。生活選書のカバー付きである。カバー裏見返しに貼られた「丸善株式会社古書部」のレッテルに感激する。毎度の深謝です。

●『書物展望』同じく第十巻第九号に添田さつき「浅草の変屈男」というエッセイがあった。これは石角春之助(いしずみ・はるのすけ)の回想で、石角については名前はよく見かけるものの、人物像についてはほとんど知るところがなかった。簡単に内容を紹介しておく。なお、添田さつきは《1902年生まれ。本名知道。父、添田唖蝉坊の後を継いで、演歌師として活躍した》(はてなダイアリー)人物である。
昭和十五年の三月、添田は浅草楽天地で催された「浅草の会」に出席した。そこで石角と同じアパアトに住む鈴村義二に遇って、石角の臨終の様子を知る。
添田が石角に初めて会ったのは三州屋で催された『浅草底流記』(添田唖蝉坊、近代生活社、一九三〇年)の出版記念会だった。少雨荘に紹介された。その後、石角は『浅草街』(?)、『江戸と東京』(江戸と東京社
1935〜1937)という雑誌を始め、添田も求められるまま寄稿した。つき合ってみると石角はヘンクツでもなんでもなく《人の好意ををかしい程、ありがたがる性格で、人々の好意に依つてはじめて自分が生かされてゐると感じる。期せずして仏の道を体得してゐるといふやうな虔譲人であつた》。
独居の石角が病臥したとき、義捐金を募るハガキが来たが、添田は手元不如意で満足なことができなかった。病臥中、『江戸と東京』の女性読者より結婚の申し込みがあり、楽しみにしていた。しかし、病が進行して見合いをする直前に養育院へ入ることになった。鈴村がその入院手続きを取ったときに、天涯孤独と本人が公言していたにもかかわらず、本籍地の京都府下に自作農の兄がいることが分かった。入院後、二十四五日で寂滅した。享年五十三。兄からは金が届き、遺骨を郵送しろという指示があった。告別式は浅草行安寺で行われた。鈴村の手元には遺産として数千枚のマッチのペーパーが残された。
石角の著書は以下の通り(国会図書館蔵のみ)。また石角春洋(『sumus』11号参照)も同一人物か(?)。
石角春之助
銀座秘録 東華書荘 昭12
国体明徴 栗田書店 昭和10
乞食裏物語 丸之内出版社 昭和10
銀座解剖図第2篇 丸之内出版社 昭和10
銀座解剖図第1篇 丸之内出版社 昭和9
浅草経済学 文人社 昭和8
万病征服自彊術屈伸療法 黒瀬三郎+石角春之助 博文堂出版部 昭和5
浅草女裏譚 文人社出版部 昭和5
神経衰弱の光秀 文人社 昭和5
楽屋裏譚 文人社出版部 昭和4
乞食裏譚 文人社出版部 昭和4
変態仇討 文人社 昭和3
通俗日常法律百科精解 坂木大五郎+石角春之助 金塔社 昭和3
変態性的婦人犯罪考 温故書屋 昭和2
普通選挙法解釈 坂木大五郎+石角春之助 二松堂書店 大正14
法律万解辞典 物権法・借地借家法 九段書房 大正12(日常叢書第3編)
法律万解辞典 親族編・相続編 九段書房 大正12 (日常叢書第1、2編))
法律日常宝典 昇文館 大正9
貸金者の心得 幸盛堂 大正9
立憲思想の養成 春光堂 大正2
石角春洋
商売の仕方 榎本書店 昭和3
応接の仕方 榎本書店 昭和3
人を引つける座談の秘訣 己羊社書院 昭和3
愛児の育て方と教へ方 昭文館 大正14
応接の奥義 榎本書店 大正13
女性美の現し方 石角春洋+村田俊子 榎本書店 大正13
女性の急所 榎本書店 大正13
青春の戦ひ 中村兼吉 大正11
ふみの書方 昇文館 大正10
茶目猫の発心 心友社 大正10
人をチャームする応接の仕方 九段書房 大正10
おへその嫁入り 九段書房 大正10
性慾と犯罪講話 三光社 大正10(性慾研究叢書第4篇)
眼の前に見られる観音様の霊験 心友社 大正9
債権取立法 誠光堂 大正8
保険契約者の福音 誠文堂 大正8
獅子も交際に依って猫の如し 三進堂書店 大正8
穴さがし五分間応接 三進堂 大正8
家督遺産相続人の心得 誠光堂 大正8
浮世のあら 昇文館 大正6
2005年8月17日(水)砕け散る西瓜を囲む日の弱る
●『書物展望』を拾い読む。第十巻第九号(昭和十五年九月号)に詩人の福士幸次郎がこう書いている。《出して直ぐ潰れる雑誌を普通三号雑誌と云ふが、三号も出れば未だいゝ方であつて、創刊号一号だけでそれ成りのものが詩の方の雑誌では事実珍しく無いのである》・・・・「三号雑誌」というのはカストリ雑誌のことばかりだと思っていたら、戦前から使われていたのである。
『出版事典』(『出版事典』出版ニュース社、一九七一年)にも「三号雑誌」の項目があり、《発行が継続できずに2〜3号で休刊・廃刊してしまう類のものに対していう比喩、またはその代名詞として用いられる俗称。一般に市販される雑誌(とくに委託販売制度によって販売される雑誌)のうちには、たとえ創刊しても返品の可能性も多く、第3号くらいまで発行したところで実績がだいたい判明し、期待どおりでないために休刊または廃刊するようなものがある》、大正時代の末から昭和の初年代にかけての同人雑誌全盛時代にその俗称が生まれた、としている。
●レンタルDVD「バード」(クリント・イーストウッド、1988、BIRD)を見る。バードことチャーリー・パーカーの生涯を晩年を中心に描いている。イーストウッドが監督だけに、まったく期待せずに見て正解。ところどころにある楽しいシーン、例えばユダヤ人の結婚式での演奏やディープ・サウスへの演奏旅行は、その五十年代の自動車の美しさもあいまって忘れがたいもの。ディジー・ガレスピーがバードに向かって「俺は改革者
reformer だが、お前は殉教者 martyr だ」と言うセリフ、あまりにクサイけど、やっぱりグッとくる。芸達者なフォレスト・ウィテカーがバード役なのだが、演奏シーンでちっともスイングしてないのは、やむを得ないとはいえ、かなり物足りない。
●山下陽子さんの作品展が神戸の「グランデール」で開かれる。9月17日〜30日(神戸市中央区栄町通3-1-7
栄町ビルディング110 tel.078-321-1041)。新作オブジェ、エッチングの他、限定図録・ポスターも発売されるそうだ。要チェックです。ちなみに「グランデール
GRAIN D'AILE 」という名称はポール・エリュアールの同名詩集から取られているようだ。
●「[書評]のメルマガ」226号に扉野の新連載「全著快読
梅崎春生を読む(1)節孔窓の風景」が掲載されていた。扉野らしいアンダーハンドのスローカーブというような入り方で次号からが楽しみだ。それにしても梅崎春生は意外だった。
●しばらくぶりの青山二郎、川田順『偶然録』(湯川弘文社、一九四二年)

2005年8月16日(火)執念(しふね)かな月下美人の匂ふ闇
●扉野良人より納涼メールあり。《お盆の忙しさも一段落ついて、今日ははやめにひけたので閉まる前の古本市がのぞけました。曇天で、四時半でも本の背がもう読みづらかったです。初日に行ってるので余裕でながしました。砂子屋書房の第一小説集シリーズの一冊、榊山潤『をかしな人たち』〈昭和12/裸本〉が百円で目が冴えましたが。》・・・あっという間に納涼も最終日だ。今年は雨模様でたいへんだったろう。ガケ書房の善行堂フェアーも今日まで。
●Mさんよりふたたびの納涼報告あり。《結局期間中一日おきに3回も。(他にすることがないのか)/13日の成果? 均一で小林秀雄全集8巻揃等(初めて宅急便を使いました。)/ガケ書房にも寄りました。懸垂幕に仰天。未所持の中公文庫を1冊。(これが3日間で一番単価が高い)/15日の成果? 『桐の花』白秋大正12年11版(赤尾3冊5百円)》・・・ご苦労さまでした。
●ナベツマのメル友ゆきちゃんより以下のような通信があった。おもしろいので引用する。
バリー!インドネシアのバリなんよぉ。
で、リッツカールトンというホテルに泊まっております。
どこまで見てもホテルの敷地という困ったところです。
今日はねー、すごい事がありました。
現地の日本人の方が経営してるお店なのだけど
(今日はガイドをしてくれました)そこに、
モネのお孫さんの絵が飾ってあったのよー!
油絵でした。
顔見知りなんやって、その人と。
一応売り物として展示してるのだとか(売値は150万円ぐらいだって)。
あ、写真とってくれば良かったのに忘れてしもたのよなぁ。
「ボンタンアメ」とプリントされたシャツを着た人も混じっている
現地の方数人を描いた絵でした。
すごいねぇ。
現代のバリではモネの孫が「ボンタンアメ」って
文字を真面目に油絵してるのだから。
でー、発見がたくさん。
発見1:こちらの町には10メートルに一匹ぐらい野良犬がいます。
可愛いけど触ってはいけないそうです。
満月の夜には徒党を組んで出会った生き物を食べるそうです。
発見2:こちらの町には20メートルに数匹ごと、巨大な鶏がさまよっています。
誰かが放し飼いにしているらしく、勝手に取ると怒られます。
たまに犬が食べてしまうそうです。
発見3:猫はあまり見ません。犬が食べてしまうからだそうです。
発見4:たーまにその犬を食べる人もいるらしいです。
以上、犬関連でした。
他にはねぇ、あ、この島の宗教関連の経済規模がえげつないということ!
みな、めちゃめちゃ信心深いみたいですよ。
あとー…サソリが普通にいるらしいー、とかー…お、
インドネシア語がすごく発音しやすいというのも発見!
●長谷川〓二郎(りんじろう、りんは燐の火をサンズイに替えた文字)の窓辺にいる蟷螂(かまきり)を描いた作品がひょっこり出てきた。むろん雑誌からカラーコピーしてカード・ケースに挟み込んだもの。隅っこに「1930」の年記がある。戦前のリンジロウは、アンリ・ルソーのスタイルを咀嚼して自分ものにした、いい仕事をしている。早稲田高等学院在学中には水谷準の勧めで探偵小説も書き、ペンネームを地味井平三(じみいへいぞう)といった。兄は長谷川海太郎(谷譲次、牧逸馬、林不忘)、弟に濬(しゅん)、四郎がいる。親父は函館新聞社社長・長谷川淑夫(三人まで自分と同じサンズイの名前を付けておきながら、四人目が四郎とは、なにゆえ?)。
●敗戦の日。当時の日本人と言えども、お国のために戦っていた人間ばかりではない。伊東に疎開していた青山二郎は次のような報告を残している。
《八月十五日、ラジオを聞いて当分私はぼんやりとしていた。東京には空襲中一度も行ったことがなかった。だから空襲を知らないのである。身の廻りには色々な事件があったが、伊東での私の収穫と言えば、五年間ばかりの間に五百冊程キリスト教の本を読んだことである。二階の八畳はキリスト教の部屋であった。階下の八畳は二千枚のレコードと、骨董の部屋だった。家が二軒続いていたのを両方借りて、一軒に家族が住み、一軒は私が勝手に使っていた。軈て、女房がダンス教師のところに走り、天下晴れて、独身生活に入ったのである。疎開中の仲間、佐佐木茂索だとか、石原求龍堂なぞと「伊東文庫」という貸本屋を始めたのは、女房の出て行く少し前の話になる。》(「スパイの隣組長」『鎌倉文士骨董奇譚』講談社学芸文庫、一九九二年、p202〜203)
伊東町ではスパイだと噂されていたそうだが、こういう人間ばかりなら、そもそも戦争にならなかったろうに。なお《女房がダンス教師のところに走り》以下は戦後の話。
●松本より矢部登『清宮質文抄』(EDI、二〇〇五年)が送られてくる。矢部氏の清宮質文へのオマージュ文集である。清宮のもらした個展の締切間際の、次のような、忘れられない言葉があるという。
「地獄ですよ」
小さな低い声であったが、きびしい口調であった。私は息をのんだ。
清宮の作品が地獄の思いから生まれたようには見えないけれど、作家の自意識というものは余人の推し量りうるところではない。あるいは、「点ひとつ打っても装幀」とも清宮は言ったらしい。うん、これはいいフレーズだ。『清宮質文抄』も清楚な造本。ご注文はEDIへ直接どうぞ。ひょっとして、ウンチクも、個展間際だったんじゃなかったけか・・・。
●書肆アクセス畠中さんより「第一回書肆アクセス・フェアー 岡崎武志が選んだ書肆アクセスの16冊」(開催期間=8月15日〜9月10日)の冊子三種類届く(本文は同じなれど表紙イラストなどが異なる)。手作りの、タテ150×ヨコ105ミリという掌サイズ。紙質やレイアウト(詩集のような改行がとても読みやすい)が渋い。文章はさすがプロの岡崎節。最近どうやら近代遺産としての建築に惹かれているようだ。
岡崎の選んだ本を見て教えられたこと、例えば、デイリー・スムース7月27日の『怪談牡丹灯籠』で触れた速記者・若林〓(王甘)蔵(かんぞう)について『ことばの写真をとれ』(藤倉明、さきたま出版)という本が出ていること。また、横光利一の『時間』(創元社、一九三五年)に貼り付けられた金属板がアルミであるかジュラルミンであるか、少々話題になっているのだが(大貫伸樹の装丁探索)、そのアイデアの元になったのは外装がジュラルミンの大阪朝日会館(大正十五年開館)だった。この建物については『なつかしの大阪朝日会館』という本が、なんとビレッジ・プレスから出ていること、などなど、であった。
それにつけても書肆アクセスの品揃えおそるべし。フェアーは明日から。冊子は本を買えばもらえるようなので、ゼヒお出かけいただきたい。『加能作次郎
三冊の遺著 その出版社・その出版人』とP-BOOKも発送しておきますよ(!)
●『日本古書通信』913号届く。八木さんの「串田孫一氏逝く」という文章に、四百冊に及ぶ著書を出したなかで《初見靖一の名で出た「白椿」「乖離」「萍」「牧歌」は稀本として有名》とある。ホホ〜ッと思って検索してみると、東京大学哲学科在学中に初見靖一として刊行した散文詩集、「白椿」(懐風堂、一九三八年)、「白羊宮」(十字屋書店、一九三九年)、「萍(うきくさ)」(十字屋書店、一九四〇年)などがある。また、戸板康二著書の処女作『俳優論』(冬至書林、一九四二年)を「初見靖一」の名前で装幀している。戸板は暁星小学校以来の友人だった。
●『加能作次郎
三冊の遺著 その出版社・その出版人』は昨日やっと東京方面の同人に発送する。直接注文も次々来る。出足好調。P-BOOKの製造に励む。
●昼食は、ストアデポへOPPフィルムなどを買いに行くついでに、いつものラトナ・カフェで。途中、近道をして四条通へ出たところでパトカーに止められた。右折禁止の標識を見落としたのだ。十数年ぶりの違反キップもらう。国庫納付金7000円也。三ヶ月無事に過ごせば違反点数2はゼロに戻るそうだが、トホホホ・・・。
●夕食後、右手の中指付け根をぶつけ、内出血する。みるみる皮膚が膨れて青くなってくる。すぐにレッサーパンダ・ナベツマが保冷材をタオルに包んで渡してくれた。しばらく冷やしているとかなり良くなった。応急処置が大切です。
●田中大氏より手紙をいただく。戸板康二をはじめ芸能関係を集めておられ、それだけで本棚二本分はあるそうだ。ご専門は十世紀頃にスラブ人が独自に創作した文字で書かれた聖書だとのこと(聞き間違いでなければ)。そのため三年半チェコに留学しておられ、南陀楼綾繁『チェコのマッチラベル』(ピエ・ブックス、二〇〇五年)にもご協力いただいている。同書
p145 の古本屋はさすがにチェコでも珍しい店構えだそうで、かつてはとても良い古書店だったが、最近は店主が替わって、やや評判が落ちたようだとのこと。
下鴨での収穫を教えてくださったので、参考までに書名だけ引用しておく。『一銭五厘たちの横丁』(児玉隆也・桑原甲子雄、晶文社)、『上方 今と昔』(山本為三郎、文藝春秋社)、『人気の本、実力の本』(荒川洋治、五柳書院)。ガケ書房で新刊の『古本病のかかり方』(岡崎武志、東京書籍)と、善行堂から『狩野亨吉の生涯』(青江舜二郎、中公文庫)1500円、『言わなければよかったのに日記』(深沢七郎、中公文庫)500円、とのこと。
2005年8月12日(金)稲妻も一夜過ぎればただの石
●今日はナベツマが大阪へ。
彼女がナベの次ぎに執着しているのがパン(麺麭)なのである。目当ては大阪靭公園南「ブランジェリ・タケウチ」。以前もちょっと触れたが、今、全国一美味しいパン屋という評価を日経プラスワンでうけた店。
相変わらず、行列が延々とでき、午前中に売り切れたりするという状況らしい。案の定、ガードマンのおじさんが店の前の自転車や自動車の交通整理をしていたそうだ。ただし今日の行列は店内のみ(お盆休みだしね)。列に並び、順送りにレジに向かう間に陳列されたパンを選んでいく。狭い店内をのろのろとレジ到達までおよそ15分。ナベツマは、最後尾に就くやいなや、めざとく行列の間から残りバゲット2本をトレイに奪取した!
というので、「いやあ、まるで大阪のおばちゃんみたいや」と言うと「サッと背伸びしたすばやい風太くんと呼んで」だって。意味わからん。
●昨日の写真をプリントした。上、今やおそしと百均テント前でピニールの開闢を待つメンメン。中、ずっしりと収穫、掘り出しモノありやなしや。下、ガケ書房の垂幕。にとべさんと田中氏(どっちがどっち?)。



●昨夜、Mさんよりメールあり。《皆さんと別れてから一巡しましたが、朝の均一で体力は使い果たしていたようで早々に家に帰りました。ただし、赤尾照文堂の文庫の棚だけはチェックしました。家で点検すると均一本の中に『山梔子句集』大正13年初版句署名函なんてのがありました。キクオ書店の8000円の値札がついています。三好達治の『寒柝』も同じです。キクオさんがまとめて出されたものらしいです。午前中は他のも歌集などがありましたが、午後にはきれいに消えていました》
●十時少し前に下鴨神社着。ブル−シートがかけられているテント店を横目に百円均一コーナーへ直行。山本、扉野、にとべさん、Mさんらをはじめ大勢のファンがスタートの号砲を待つランナーよろしくテントの前で並んでいる。十時開店と同時にどっと古書に取り付く人々。ウンチクはちょっと迂回して北の端の方へ。人の少ないところを選ぶ。森鴎外『改訂水沫集』(春陽堂、一九〇五年)の奥付欠本は資料として。ちょっと嬉しかったのは『模範仏和大辞典』(白水社、一九二一年)。『白水社70年のあゆみ』には、
《殊に仏和大辞典は小生が白水社を興すに及び敢然として之が実現に向つて猛進し、自ら筆を執り、友人の助力を借り、巨万の資を投じて前後6年間不眠不休にて漸く完成し、小生はその為め重き病魔に襲はれ》
云々とある。いわば白水社が白水社らしい出版に踏み出した大きな第一歩がこの辞典なのだ。けっこう悦に入っていると、ヨコから「林さん、これ!」と雑誌の塊を差し出してくれる男性が・・・Mさんである。『書物展望』のバラ七冊。ありがたく受け取ってレジへ向かう。とにかく陽が射してきて暑いことこの上ない。狭いテントのなかに大勢の人で蒸し風呂状態だし、適当なところで切り上げる。
タテ190×ヨコ115ミリ、背60ミリ(!)
その後は各テントをゆっくり流して歩く。途中で扉野に出会うと、みょうに嬉しそうで「今日はもう買い物は終わりました」という顔をしているではないか。ヨッパラッて作ったこめかみの痛々しげなキズもどこ吹く風の様子だった(余談=京都テレビとMBSテレビが取材に来ていたが、帰宅してMBSニュースを見ていると、扉野が画面にチラッと写っていた)。
十二時少し前に本部近くの床几に八人ほど集まる[本部前に座るところがなかったので北隣、ヤマト運輸の斜め前になってしまいました。お会いできなかった方がおられましたら、申し訳ありません、お詫びいたします]。他に、岡崎武志が古本の取材を依頼されていた雑誌『Meets
Regional』(京阪神エルマガジン社)の編集者二人。下鴨本通りに面した「グリル生研会館」へ。
中尾務さん、聖智文庫さん、Mさん、にとべさん、ミーツお二人、山本、岡崎、扉野、林。食事が出るまで、それぞれの収穫を披露し合う。扉野がにやにやしていたのは田中小実昌の著書を七、八冊、各150円で買ったからだった。Mさんの角川文庫や新潮文庫(帯・グラシン付き、むろんカバーなどという無粋なものはない時代のもの)をまとめて安く買っておられたのも印象に残る。このあたりの文庫はすでにかなり高値になっているという聖智文庫さんの解説も。
会場にもどって預けた荷物を出していると、声をかけられた。プラハにいるはずの田中大さんだ。一時帰国されているそうだ。正午に本部前に来られたという。申し訳ない、外れにたむろしてました。ということで田中さんも加わって、八人でガケ書房へ向かう。ガケの外壁には「古本ソムリエ
山本善行の世界云々」という巨大な垂幕がかかっている。一同仰天。品揃えもかなりなもの。値段がまたいい線を衝いている。ここで佐野装幀の源氏鶏太『御身』(中央公論社、一九六二年)を入手(納涼会場では佐野本、青山本は見かけなかった)。そこを出て、六人でお茶を飲み、徒歩十分くらいのところにある山本宅を訪問。その蔵書を前にして感動のドラマが展開されたけれども、それについては、いずれ山本が書くと思うので、ここでは省略する。
●帰宅すると、みずのわ出版の新刊、南雲和夫『アメリカ占領下沖縄の労働史―支配と抵抗のはざまで』が届いていた。ウンチクの装幀です。林哲夫の装幀を参照ください。
2005年8月10日(水)太陽は山梨産とぞすもも市
●スムース文庫08『加能作次郎
三冊の遺著 その出版社・その出版人』とともにP-BOOKの注文が書肆アクセスさんより入り、おおわらわで製作に励む。01〜05まで合計120冊の受注で、完成まで数日かかりきりになる予定。
●午後、聖智文庫さん来宅。奈良、大阪と廻ってこられたとか。いろいろ道中の収穫を見せてくださる。さすがと唸るような品ばかり。『彷書月刊』にも告知が出ていたが、近々自家目録を刊行される予定とか。セドリにも熱が入っている。古書界の話をいろいろうかがって、「明日、下鴨で!」と別れる。
●カエさんより『広辞苑』の「あお」の項には《本来は灰色がかった白色をいうらしい》と出ていると教えられる。基本動作を怠っていたと、さっそく参看した。なるほど、だが、それにしても「らしい」という表現はいかがなものか。もし「らしい」ことを記載するのなら、《一説に》ではなく、はっきり出典を明記するべきだと思う。話は違うが、同じく『広辞苑』の「そうてい」を引くと、《本来は、装い訂(ルビ=さだ)める意の「装訂」が正しい用字》とあるが、これもいかがなものか。これは長沢規矩也の説である。「装訂」が本当に正しい用字なら、見出し語の漢字表記に採用するのが筋だろう。《本来は》はくせ者だ。
●スムース文庫08『加能作次郎
三冊の遺著 その出版社・その出版人』松本八郎著、本日できあがりました。今回は松本がEDIの機動力を駆使して製作、これまでになく美しい印刷に上がっています。ご注文は本日より受け付けます。書肆アクセス他、取扱書店に出回るのは少し日数がかかると思いますので、しばらくお待ち下さい。内容目次は以下の通り。
・加能作次郎との出逢い
・『乳の匂ひ』を出版した牧野書店の牧野武夫
・『世の中へ』を出版した桜井書店の桜井均
・『小品随筆 このわた集』を出版した大理書房の田中末吉
・複刻「文士、加能作次郎君」(『大正新立志傳』より)
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●郵政法案採決の際に、賛成「白色票」、反対「青色票」と言っていたが、テレビ画面で見るかぎり、青色票(標)は一般でいうところの「緑色」だった。「青梅雨」の「青」と同じ使い方である。
「青」という漢字は上部の「生」と下部の「丹」から成っている。「生」は声符(音を示す)だから、意味としては「丹」すなわち「硫黄」を指す。丹朱というようにそれは赤またはオレンジ色の鉱物なので、本来的には「青」は「赤」だった。青丹、白丹など丹にいくつか種類があり、青はその一種であろう(『字統』)。アカネ染めの布などを意味する漢字(糸ヘンに青など)に青の字が組み込まれる例からも青が赤だったことが傍証できるかもしれない。
『後漢書』や『淮南子』には立春の日に天子や百官がみな青衣を着て、乗るもの、旗、「青」ずくめにするという行事について述べられている。この「青」というのがおそらく「緑」だったのではないだろうか。植物が萌え出るときの色、黄色味がかった緑。
また「青」は「黄」だという報告もある。近世まで宮古島では、色はアカ、クロ、シロ、アオの四色しかなく、しかもこの「アオ」は黄色であった(谷川健一)。青ノ島(オウノシマ)という例があるそうだが、そういえば、神戸には「青木」と書いて「オウギ」と読ませる地名がある(フェリー乗り場)。「黄木」ということか。ちなみにゲルマン系のブルー(blue、bleu、blau、blaa)という語はラテン語のフラウス(flauus、黄色)が訛ったものと考えられている(柳宗玄)。このように黄を青と呼ぶ地域が残っていることからすれば、「青丹」というのは黄に近い朱、明るいオレンジ色だったのかもしれない。
現在、われわれが「青」と言っているのは、ラピス・ラズリやサファイヤなどの玉(ぎょく)の色である。ブルーではなくアズール(azur)、ペルシア〜アラビア語系になる。
●石塚友二の著書が少しずつたまってきたので、著作リストを作ってみた。石塚が運営していた沙羅書店の刊行書リストもついでにまとめておいた。補訂、ご教示歓迎。
◆石塚友二著作
俳句の話 1992年11月20日 宝文館出版 山田野里夫編
石塚友二の世界 1990年月13日 梅里書房 昭和俳句文学アルバム7
玉縄抄以降 1987年 竹頭社
玉縄抄 1985年 四季出版
百萬 1980年11月10日 四季出版 処女句集全集第三回配本
自選自解石塚友二句集 1979年8月20日 白凰社 現代の俳句12
こゝろの山河 1979年 石塚友二先生句碑建立発起人会
自註石塚友二句集 1977年 俳人協会
句集 磊〓(石鬼) 1976年9月20日 五月書房
春立つ日 1973年4月15日 光風社書店
田螺の唄 1973年 永田書房
日遺番匠 1973年12月5日 学文社
文人俳句歳時記 1969年4月25日 生活文化社
曠日 1966年 鶴俳句会
俳句随筆とぼけ旅人 1956年2月25日 北辰堂
松風 1955年11月10日 角川文庫
句集 光塵 1954年6月25日 一橋書房
橋守 1948年 改造社
青野 1948年 海口書店
松風 1948年2月10日 松和書房
渚にて 1947年 角川書店
磯風 1946年 壺俳句会
一茶絵本 1946年 鎌倉文庫
青春 1944年 小山書店
冬鴬 1943年 協栄出版社
松風 1943年8月25日 小山書店
方寸虚實 1941年2月10日 甲鳥書林 昭和俳句叢書
百萬 1940年10月15日 三省堂 俳苑叢刊
◆石塚友二伝
石塚友二伝 清田昌弘 2001年12月20日 沖積舎
私の出版年鑑 清田昌弘 1991年8月16日 リーベル出版
◆沙羅書店刊行書リスト
松隈青壷句集 松隈青壷 昭和16
征旅 松隈青壷 昭和16
兵隊と桜 秋山紅蓼 昭15年1月
玉鳥集 伊藤 〓 昭14
鶴の眼 石田波郷 昭14年8月25日
四季の劇場 金杉惇郎 昭13
海堡 横山白虹 昭13年6月15日
室内 山下三郎 昭13 年4月5日
馬酔木年刊句集 昭和12年版 昭13年3月10日
金杉惇郎遺稿集 金杉惇郎 昭12年12月
岩礁 水原 豊 昭12年12月
菊舎尼俳句全集 川田 順 昭12年7月28日
魚鳥の句作法 水原秋桜子 昭12年7月10日
演劇明暗 西村晋一 昭12年7月7日
横光利一の芸術思想 由良哲次 昭12年6月20日
五十崎古郷句集 石田波郷 昭12 年6月(馬酔木叢書第13篇)
物置と納屋 和田 伝 昭12年4月1日
中尾白雨句集 石田波郷 昭12年3月15日(馬酔木叢書第15篇)
佐野まもる句集 佐野まもる 昭12年2月(馬酔木叢書第14篇)
馬酔木年刊句集 昭和11年版 昭13年2月日
俳句手帳 馬酔木社編 昭11
長子 中村草田男 昭11年11月20日
富ノ沢麟太郎集 横光利一 昭11年11月15日
生きものの記録 丸岡 明 昭11年9月5日
凍港 山口誓子 昭11年9月
純粋の声 川端康成 昭11年9月1日
葛飾 水原秋桜子 訂3版 昭11年4月
素顔 山本安英 昭11年2月
レヴユーをりをり 阪田英一 昭和10年
薔薇は生きてる 山川弥千枝 昭和10年9月日
花の句作法 水原秋桜子 昭和10年11月25日
石田波郷句集 石田波郷 昭和10年11月25日(馬酔木叢書第11篇)
子供と花 中野重治 昭和10年12月17日
山行 石橋辰之助 昭10年7月(馬酔木叢書第8篇)
覚書 横光利一 昭和10年7月10日
日輪 横光利一 昭和10年4月25日
2005年8月8日(月)書を移し涼しさ納める余白かな
●『一寸』23号届く。日本初の日本人による石版刷りは福地源一郎訳訂『外国交際公法』(私家版二冊、一八六九年)の題辞「観光問鼎」の藍刷りだとある(青木茂)。
●書斎の片付けをしているとウンチク・ボックスがひょっこり出てきた。ちょっとした耳学問を小紙片に書き留めて抛り込んである。例えば、梶井基次郎の初期のペンネームは「瀬山極」だった、「瀬山の話」という作品もある、瀬山はセザン(セザンヌ)、極はポール(pole、北極、南極の極。もちろん、ほんとは
Paul だけど)ようするにポール・セザンヌを漢字に移したものだった。一種の反名(かえしな)だろう。
【ナベツマ通信番外《SWシリーズ》】
以前、穿った感想を書いてしまったスターウォーズ ep3、知り合いのN氏から「今の米を憂いてなんて、それはマイケル・ムーアにやらしとけばいい。単純にSF娯楽大作でいいじゃないっすか!」なんていう見解の相違メールをもらってしまった。
ということで、SFが苦手で、主人公の名前すら覚えきれない蘊蓄を初めとしたみなさまに、かるーい『SWうんちくコーナー』。
まず、ルーク・スカイウォーカーが主人公なのは、28年前に製作された最初の「スター・ウォーズ」、これがエピソードの4にあたる。つまりルーク編が4〜6、でそのルークの両親編がエピソード1〜3。両親とは、のちのダースベイダーことアナキン・スカイウォーカーとナブー星の元女王パドメ・アミダラである。
今回のエピソード3は製作上の最終話であり、エピソード1で初めてパドメと出会った9才のアナキンの13年後のエピソード。つまり、アナキン22才でパドメが28才という設定(この年齢差については諸説あり)。すでに前作エピソード2の最後のシーンで秘密裏に結婚式を挙げたふたり。その3年後、パドメはおめでた(それにしても3年もジェダイ評議会にバレていないとは? 鈍いのかああ!)。
あとは・・・、まだ観ていない人も多いと思うので、あらすじはさておき、ダースベイダーに堕ちてしまうアナキンについて。
考えてみると、ジェダイマスターのクワイガンに見いだされ、9才で母の庇護の元を離れたアナキンは、まもなくクワイガンの死によりその弟子オビワンケノービにジェダイの騎士になるべき訓練を受ける。まあ、中高一貫教育を受けるために地元を離れ寄宿生活を始める今時の子どもたちより親元を離れるのが少々早かった訳で、その時期とオビワンの師匠としての弟子の育て方のまずさが、後のアナキンの成長に影を落とすことにもつながる。つまり、オビワンはあくまでも兄弟子であって父親代わりではなかった。まっ、ジェダイ自体、恋愛は御法度だそうだから、愛云々もしくは子育てということには無理があるのかも。
結局、エピソード4〜6において、ダースベイダーことアナキンは必然的に息子のルークにかかわり、最終的にルークを救うことによって、救うことができなかった母と妻というトラウマから解放されたのだ。

** SWにはまったく関係ないが、蘊蓄のモチーフとしてヤフオクにて落札した、英国製の瓶。うつくしい・・・。
2005年8月7日(日)水撒いて小さき虹を二つ三つ
●モッズ・ルックについて少し補足。まずは初期ビートルズのようなスタイルがひとつの典型。黒のタートルネック、細身のパンツに細身のテイラード・ジャケット、細いネクタイ。ファンの女の子はゴーゴーブーツ(つま先の尖ったブーツ)、ストレイト・ヘアー、Aラインのドレス、膝丈のスカート、男の子は髪を短くカットし、筒状のパンツに、やはり先の尖った靴をはいている。
一九五〇年代末から一九六〇年代初め、ロンドン以外の地方からコンサートなどにやってきて、お金もあまり持っていない若者たち(ベビー・ブーマー)が、洋服などを買うにも既成のファンション街には近寄りがたく、ちょっと外れた、レディメイドのニュー・ルック(といっても一九三〇年代のモダニズムがデザイン源でもあった、だから略して
mod)を売る小さな店が集まっているカーナビー・ストリートのようなところに群がってブームをつくっていった・・・そういう現象のことらしい。ちなみにミニ・スカートは1964年にクーレージュが『ヴォーグ』誌に発表してセンセーションを巻き起こしたという。
●YKさんが石塚友二の句集や『白水社70年のあゆみ』(白水社、一九八七年)などを送ってくれた。いつもお気遣い有り難うございます。『白水社70年のあゆみ』によれば、今も刊行されている雑誌『ふらんす』は第二次で、第一次『ふらんす』(一九二一年創刊)の後をうけた『ラ・スムーズ』(一九二五年創刊)が一九二八年十月に改題したものだそうだ。スムースじゃないよ、スムーズ(semeuse
種をまく女)。岩波書店のマークもミレーの「種播く人」だし、『種蒔く人』(種蒔き社、一九二一〜二三年)という雑誌もあるし、大正時代は種まき時代だったか。で、いったいどんな花が咲き、実がなったのだろう。
●恩地で思い出して取り出した『書窓』第七号(一九三五年十月)「特輯装本研究」。装幀特集、アンケートが面白いが、省略する。「雑用手帳」(編集後記)に発行者の志茂太郎が《こゝ数年来コケオドシな珍材料をムリヤリ本の表紙に貼りつけて豪華装幀と呼号する悪流行が一世風靡の観を呈しましたが、さすがの物ずき御連にも鼻について飽きられて来たのは何より結構な事です》とある。悪流行とはいわゆるゲテ装本のこと。ゲテ装本については大貫さんが熱く語っている。
恩地孝四郎装幀
2005年8月6日(土)蝉落ちて何事もなき佇まい
●ナベツマと京都駅前の近鉄PLATZへ(近い将来、ヨドバシカメラの所有になるそうだ)。無印良品を見て回る(muji
の店舗としては日本一のフロアー面積)。キャセロール一個、竹籠一個、購入。四条に戻って、東洞院を下がった中華料理店でランチ。昼間から黄色いガソリンをキューッと補給するなり。
食後、別れて府立図書館へ。検索では「貸出可」になっている資料がどうしても見つからない。ほぼ満席状態だったので、誰かが閲覧していたのだろう。あきらめて二条通を西へ歩く。ひと雨あったようで道路が濡れている。
雨のためか、水明洞は表の均一を引っ込めてしまっていた。中井書店はお休み。尚学堂にさしかかるころには陽が射してきて暑くなる。均一をゆっくり吟味していられないので、そのまま南下、河原町通へ出て、いつもは素通りの大学堂へ入る。得意客らしい「先生」が来店、帳場で丸善がなくなる話に突入、28億円がどうのこうの・・・。ここまでまったくの手ぶら。期待せずに赤尾照文堂へ。これまで全集を正面ショーウィンドウに積み上げてあったのを取り払い、小物の版画などを外からもよく見えるように並べていた。いいアイデアだ。入りやすくなっている。
まずは『近代の美術35 恩地孝四郎と『月映』』(至文堂、一九七六年)千円を発見、即決。さらに中公文庫のコーナーをざっと眺めると、やや、なんと、一年余り探している一冊があるじゃないか。ある人によれば、中公文庫のなかでは最も入手困難なタイトルだそうだ。その証拠に、文庫王・岡崎や古本ソムリエ・山本でさえ架蔵していない(とか)。見つかるときはあっけない、しかもこんな目抜き通りの店で。るんるんるんと帰宅。
●佐野表紙の『銀座百点』が二冊届いている。西村氏が重複分を譲ってくれたのだ。有り難い。その一冊143号の「銀座玄関の大壁画 新橋駅前ビル・佐野繁次郎画伯作品」というグラビア・ページに感激する。143号は一九六六年十月号だが、「モッズ・スタイル」が流行しているという記事もある。モッズ(mods)とは《男が花模様を着たり、女がズボンやワイシャツ、ジャンパーの類を着ること》(水野正夫)だそうだ。ロンドン、カーナビー・ストリート発祥と言われるが、ロンドンよりも日本の方がモッズ熱に浮かされていたらしい。
『近代の美術35 恩地孝四郎と『月映』』至文堂
2005年8月5日(金)「言海」は凝と立ち居り汗ぬぐう
●山本がガケ書房で蔵書大放出するということを知らせてきたとき、最近『三岸好太郎画集』(美術出版社、一九五〇年)を数百円で入手したという話を聞かされた。それ以来すっかり力が抜けて、やる気がなくなってしまった。
【ナベツマ通信/ささやかな抵抗】
ナベツマは、ヤフオクにて再びスタート価格でルクルーゼのプチココット(正確にはオーブン用キャセロール)を落札した。このココットの色は「マリーゴールド」とも「パンプキンイエロー」とも言われているが、その派手さから、日本ではあまり人気がないようだ。
さて、このココット、届いてから気づいたのだが、蓋の取手の内側にぽつりとイボがあった。いわゆる窯傷(カマキズ)のようなもの。商品紹介にはそのことについては全然触れておらず「こんのおお!」とプチッときたが、もう一度写真をよく見てみると、ちゃんとそのイボがくっきり写っていた。しゃーない、気づかなかったこっちが悪い。でも見てろよー、と復讐に燃えるナベツマはあれやこれや色々悪だくみを考えてみた。が、所詮「いいひと」なので、実行にうつすのはムリポ。
でどうしたか。評価を入れるのを止めたのだ。こちらが出品者に悪い評価を入れれば、相手も同じ評価で返してくるのが常套手段。なら、ささやかな抵抗で評価をしないこともできる。
さて、このあと予想もしない展開により、ナベツマは復讐を遂げることになる。そのお話はいずれまた。ほほほ。

**直径14cm、容量0.5L、重量1.0kg、ほんとに一人分のちびキャセロールなのだ!
2005年8月4日(木)貝の殻置かれたままの文庫本
●沖縄からマンゴーが送られてくる。Jさんのご高配である。有り難く頂戴する。また山梨のネクタリンをごっそり、TMさんよりいただく。たちまち古家にうるわしい果実の色彩と香りが充ちあふれる。深謝深謝。
●ラジオ・フランスのフランス・キュルチュールでは、今週、ヒロシマ追悼週間となっており関連番組が放送されている。山端庸介(やまはた・ようすけ)の写真の紹介もあったようだ。山端は原爆投下直後の長崎、広島に入って貴重な写真を残している。日本では、広島被爆四日後の宮武甫によるパノラマ写真が発表されて話題になっているが、すさまじい。これを見ると、ここまでする必要はなかった、投下は原爆実験以外の何物でもないと思えてくる。ドレスデンの空爆はバクダンの在庫一掃だったらしいし、まったく人間(連合軍に限らない)は何をやるか分かったものじゃない。

島木健作『生活の探求』河出書房、一九三八年53版 装幀=青山二郎
2005年8月3日(水)炎天は釣銭の冷え指尖る
●ナベツマは今日も外出。静かでいい。レディースデーのため1000円ポッキリで「スター・ウォーズ
ep3」を観たそうだ。感想は下記ナベツマ通信にて。なお、夫婦で観れば、どちらかが五十歳以上の場合、二人で二千円になるとか。ご存知のように該当してるわけで、くやしいから夫婦では行かないのだ。
●阿川弘之『志賀直哉』(岩波書店、一九九四年)上下二冊を各105円で買った・・・はずだったのだが、つい先日、上巻を読み終わって、下巻を取り出したところ、それは下巻ではなく上巻だった。なんたるちあ! 上巻が二冊並んでいたのを上下と思って二冊買ったのだった。さすがにこんなドヂは初めて。同じ本を二度買いすることはしばしばあるけれども。サッカクイケナイ、ヨクミルヨロシ。
『志賀直哉』は『図書』連載時にあるていど読んでいたはずだが、あまりに長々しいので、ほとんど憶えていなかった。直哉とは関係ない考証が面白い。なかでも難読の人名にいちばん興味をもった。直哉の父は直温で「なほはる」(自らは履歴書にシカチヨクオンと振り仮名を振ったそうだ)。奥さんは康子(さだこ)、旧姓は勘解由小路康(かでのこうぢさだ)、父が勘解由小路資承(かでのこうぢすけこと)、妹が好子(いつこ)。資承の姉秋子(なるこ)が武者小路実篤の母になる。柳宗悦(むねよし)の姉が直枝(すえ)、兄に墾雄(はるお)、悦多(よしさわ)、楢喬(ならたか)がいる。宗悦の息子が宗理(むねみち)、宗玄(むねもと)、阿川は《三番目》に宗民(むねたみ)がいるとしているが(p250)、正確には三番目は宗法(生後三日で死亡)で四番目が宗民である。他には久里四郎(くのりしろう)、正親町公和(おほぎまちきんかず)などという難読友人も出てくる(読みは阿川の表記に従う)。
中国には春秋時代(紀元前770〜403)頃から「実名敬避」という習俗があり、日本でも、例えば平安時代の女性の実名が伝わっていないなどは実名敬避の結果のようであるが、ただ単に敬して避けるというのではなく、古代人は自分の本当の名前が分かってしまうと敵方から呪術によって攻撃を受ける危険が生じるのが心配だったのである。だから名前(とくにその発音)は秘密にしておくのだ。あるいは名前をたびたび変える。おそらく漢字表記と読みのズレも実名敬避の影響だろう。
というようなことをメモした帳面を調べていると、樋口一葉のペンネームの由来が書き留めてあった。「一葉」とは達磨がインドから中国に渡るとき一枚の芦の葉っぱに乗って行ったという故事にちなむのだそうだ(和田芳恵『樋口一葉』)。そのこころは、達磨だけに「おあしがない」(=貧乏)・・・・お後がよろしいようで。

河上徹太郎『読書論』雄鶏社、一九四九年 装幀=青山二郎
【ナベツマ通信/SW ep3】
さて本日映画館はレディースデイ、千円ぽっきりで鑑賞できるわん。ほほ、ありがたーい日でしたわん。ということで見てきましたよ、しょっぱなから「あー、金かかってる、
人手かかってる!」という感じでした。
これは痛烈なブッシュ批判映画ですなあ。恐怖と不安をあおって、人民を「武力による平和」という名の圧政に導くのだ。「これで自由は死んだのね」と嘆くパドメ。うん、そーなんよ、言論の自由も、国連という協議の場も非常に危ういアメリカそのものじゃないか!!
ほんとうのアメリカは、西部東部の都会を除いた中部なんだよね。信心深くて、良心的アメリカ人。つまり、洗脳されやすい人たちのこと。いろいろ考えさせられたNツマでした!
2005年8月2日(火)水彩の乾きまつひま立版古
●ナベツマはハガレンのスタンプラリーのためにこのド暑い中(京都・大阪
35.2度)宝塚〜梅田と駆け巡る【夏休み阪急電車スタンプラリーのコンプリートごほうびもらいに三番街にも行ったのだ。去年はポケモン、今年はハガレン。阪急電車はそのノリで、ハガレンのラガールカードまで販売している。もち買ったもんねー。by
Nabetsuma】。
こちらはアトリエに籠もって水彩画を描く。9月12日〜20日、新潟の絵屋で風景画展を開催予定なので、その追い込み。油彩、水彩など、久しぶりにすべて風景でまとめる。
●『芸術新潮・イタリアの歓び』でタルクィニア(イタリア中部)のエトルリア人について紹介している記事が目に止まった。中田英寿の移籍で有名になるずっとずっと前に、しばらく滞在したことのあるペルージアは、エトルリア人の作った城郭都市で、洞窟のような遺跡が残っていることがたいそう印象的だった。ペルージアで本物のエスプレッソを生まれて初めて飲んだし(今でも最も鮮烈なるエスプレッソ体験として消えない)、モッツアレラを主食のようにして食べる人々に初めて出会った。まるでトウフを食べているように見えて不思議だった。
それはともかく、エトルリア文明についてはあまりはっきりとは分かっていないようである。紀元前九世紀頃、東方からやってきた民族が定着したらしいという説が有力とのこと。金属加工技術がたいへんすすんでいた一方で、「鳥占い」をはじめとする占術によって政治や軍事を決定していたらしい。「鳥占い」というのは鳥の飛ぶ数や飛ぶ方向によって行うもの。ローマ建国神話にも出てくるように、ローマ時代へと受け継がれていったようだ(ちなみにロムルスとレムルスは双子の兄弟でも仲が悪かった。こういうのをカイン・コンプレックス=近親憎悪という)。
またエトルリア人はギリシャ陶器を蒐集し、没後はそれらを墓に埋納した。その結果、現在世界中の美術館に収蔵されているギリシャ陶器の八割はエトルリア遺跡から発掘されたものだそうだ。逆に言えば、エトルリア人のコレクション癖がなければ、今日伝わるギリシャ陶器の八割は失われていたことになる。コレクション万歳(!)
●テレビ録画「蝶の舌」(ホセ・ルイス・クエルダ、1999、LA
LENGUA DE LAS MARIPOSAS)を見てしまう。スペイン内戦が始まる一九三六年、ガリシア地方(イベリア半島の北西端)のちいさな町の少年と老教師の交流を描きながら、政治混乱期における人間の愚かさを浮き彫りにする佳作。サキソフォンを習っている少年の兄が町の楽団に入る。その楽団が外国(ポルトガルのこと?)へ公演旅行に出掛ける。中国人の女性にあこがれていた兄はそこで理想通りの中国娘に出会う。村祭りで兄は心を籠めて娘のために演奏するのだが・・・。
その縁日のような祭りに「小鳥占い」が出ていたのである。ただ、おめかしをした中国娘に占い師が呼びかけるシーンだけで、実際どういうふうに占うのかは分からなかった。例えば、台湾には、名前と生年月日を告げると、文鳥が花札のようなカードを三枚つついて、過去・現在・未来を読みとるという「小鳥占い」があるそうだ。そういう類かもしれない。

小林秀雄『作家論』民友社、一九四六年 装幀=青山二郎
《志賀直哉氏の問題は、言はば一種のウルトラ・エゴイストの問題なのである》(p9)
2005年8月1日(月)八朔や半日かけて紅しぼむ
●八朔に京都では紋服で挨拶回りをする風習がある(芸者さんらがご贔屓筋をまわるニュース映像を見た)。暑中見舞いの日。中元はこの日から始まるとか。また稲の初穂を献上する行事(田実の節=たのみのせち、たのむのせち、田面の節=たのものせち)も行われる。
●いつもより一時間ほど早く起きて、運転免許の更新に出かけた。メガネを替えたのもそのため。ただ、遠方に対する視力は良くなったのに反して、近くの文字が読みにくくなった。遠近両用を薦められたが、次は考えないといけないかも。いちおうゴールド免許なので手数料も講習時間も多少優遇されていた。ちなみに京都府内の昨年中の交通事故死者は130人。全国第21位。1位は北海道の387人、以下愛知、千葉、大阪、埼玉、東京(303人)・・・。全国の交通事故死者数は昭和45年の16,765人をピークに下降し昨年は7,358人、ただし発生件数・負傷者数は過去最多だった。死者は高齢者(65歳以上)が圧倒的に多く、その六割以上は道路横断中の事故による。
●「ストレート・ノー・チェイサー」でモンクがチェイサーとして飲んでいたのはコーラのようだった。ミニ・ボトルの強い酒をあおってから、瓶入コーラをグイッと飲む。それを交互に繰り返す。ある公演旅行のとき、旅行カバンに重量超過料金を払った。税関で開けてみるとカバンにコーラの空き瓶がびっしり詰まっていた。「どうして?」と問われ、奥さんのネリーが「瓶代を返してもらうのよ」と答えたそうだ。モンツマもおちゃめだったのね。
●『恐るべき子供たち』(日比谷出版社、一九四九年)より菊岡久利の終戦の日。《八月十五日、敗戦による陛下の御放送のことがあつた時。僕は東京で、頭山秀三先生と共に、先生の背後に、緒方哲夫と並んで承はつた。その時も僕は、慟哭や、歔欷[きょき]といふことを、時間が経つてから反省したのだつた。/陛下のお言葉でさへもはやなく、陛下の御声そのものが哀しかつた。/しかしもつと直接自分を、歔欷から、次第に慟哭へと導いたものは、頭山秀三先生の後姿であつたとあとになつて思ふ。》(p258)、頭山秀三は頭山満の息子。
また、こういうくだりもある。横光利一の書斎「雨過山房」について。《ピアノの上の佐野繁次郎の絵、まだ無名だつた館慶一君を激励して彼の絵をかけたまま「アネモネ」があり、青山二郎がもつてきたといふ壺、それから横光さんが最後まで気に入つてゐた、もう十年も前に僕の妹の波多野雛子が贈った血の燃えるやうなエヂプトの布でつくられたクッションがあつた。》(p256)
この佐野繁次郎の絵は「アトリエ」という『旅愁第一篇』(改造社、一九四〇年)の装幀に使われた初期作品。また青山二郎から買った壺は宋の磁州窯というふれこみで「銘/自働電話函/青山」と箱書きがあるけれど、図版(『横光利一と川端康成展』世田谷文学館、一九九九年、p98)で見る限り、どうもあやしい、ガンブツくさい品である。

菊岡久利『恐るべき子供たち』日比谷出版社、一九四九年 装幀=青山二郎