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2006年2月28日
(火)狗背(ぜんまい)の形して涙とまらず

『彷書月刊』三月号、特集・アドニスの杯。掲載されている書影から察するに、その手の雑誌はとても几帳面なレイアウトばかりである。「××文学の館」主宰・七面堂氏の掲げている雑誌が気に入った。『未刊江戸文学』は一冊架蔵(函蔵)していたような気もする。ヴァニラ画廊の広告が目立つので見入っていると、なんと吉田潤写真展「花咲く昭和ストリップ」とあるではないか。昨日一昨日と話題にした林忠彦の相棒(先輩)で、ルパンでの同席者である(フラッシュは吉田が焚いた)。二〇〇三年に九十四歳で亡くなられたとか。

『一寸』25号。奇遇にも、丹尾安典「秋艸雑記」が男色趣味についての考察。陸軍幼年学校で大杉栄と中村彝の兄が恋人だったとか、武林無想庵と和辻哲郎が恋人だったとか、会津八一の少年愛志向や密教と男色の関係(空海が「男色の祖」だそうだ!?)を論じ、そして会津の号である「秋艸道人」の「秋艸」は《菊ノ訓ヲバアキクサノハナトヨム》(畔田翠山『古名録』)からきているのではないかという新説を提出している。秋艸 → アキクサ → 菊 → 男色。連想ゲームのような穿った見方だが、大いにその可能性はあろう。

ウンチクもイギリスで中年のポッチャリしたおじさんから「ユー・アー・ビューティフル!」と誘われたことがある。キャー! 思いだしてもぞくぞくっとするね。



2006年2月27日(月)鳴り出せばみな走り出す立つ蕾

安吾の写真について阿瀧さんが、ルパンで撮ったものもあるはずです、と教えてくださった。そういえば、林忠彦『カストリ時代』(朝日文庫、一九八七年)を架蔵していたと思って引っ張り出すと、以下のようにあった。

《坂口安吾さんと最初に会ったのは、僕が戦後まもなく北京から引き揚げてきた直後だった。毎日のように通っていた酒場「ルパン」で知り合いの編集者に紹介されて撮れるようになった》p147

この後、林は安吾の自宅で催された「カストリを飲む会」に通うようになり、無理に頼み込んで、書斎で机に向かう安吾を撮影することに成功した。それがあまりにも有名な新聞紙やゴミのようなものが散らばっている部屋で原稿用紙に向かう安吾の写真である(初出は『小説新潮』一九四八年新年号)。この写真については安吾自身が「机と布団と女」という解題を執筆しているが、そのなかにルパンでの邂逅が語られている。

《林忠彦は私と数年来の飲み仲間で、彼は銀座のルパンという酒場を事務所代わりにしているから、そこで飲む私と自然カンタン相照らした次第で、このルパンでも、彼は四五枚、私を撮した筈である。小説新潮の太宰治の酔っ払った写真もここで撮したものだ。
 ルパンで撮した私の四五枚のうちに、一枚、凄い色男に出来上がったものがあり、全然別人の観があるから、私はこの上もなく喜んで、爾来この一枚をもって私の写真の決定版にするから、と林君にたのんで、たくさん焼増ししてもらった》(『評伝林忠彦』p162-163)

 写真=林忠彦、カバー装幀=森枝雄司

向井氏より嬉しいメールあり。《さて、本日、装丁家の多田進さんから本を贈った御礼のFAXが届きました。そこに「装丁がすばらしいです!!」(ママ)とのコメントがありました。というわけで、ご報告メールでございます。昨日、ラジオ(文化放送)で花田編集長が本を絶賛してくれたそうです。》・・・よっしゃあー、増刷だ!



2006年2月26日(日)新牛蒡忘れかけてたほろにがさ

『「本」に恋して』、とても参考になった。いちおう装幀の仕事などもしているが、実際に本がどのようにして作られるのか、ほとんど知らない。ルーティン・ワークというのか、こう指定すれば、こうなって返ってくる、そのような経験の繰り返しから、おおよそのことを想像しているだけなので、この本によって具体的なイメージを得ることができるのはとても有益である。

自動カバー掛け機械はカバーとオビを同時に掛けるそうだ(p76)。そしてオビについては、その巾が2.5〜13センチメートルの範囲内ものしか扱えないそうだ。これを読んですぐに思い浮かんだのが岡崎氏の『気まぐれ古書店紀行』。あのオビは既報したように137ミリである。ひょっとして手で掛けたのか(?)。

いちばん驚いた、というか拍子抜けしたのは、特種製紙株式会社の製品「ファンシーペーパー」のネーミング(特種製紙以外でも一般的に通用。日清紡績では「ファインペーパー」と呼ぶが、ほぼ同じような商品である)。まず「ファンシーペーパー」というのは「ファンがいっぱい欲シー」からだというし、その一種である「レザック」は「レザーライク」(革に似る)、また、ウンチクもよく使う「タント」は「たんとある」から命名したというのだ! たしかに色数はたんとある。全部駄洒落だったとは・・・(p121)

それから、日米貿易摩擦はインキにも影響していたということも印象に残った。インキの製造に用いる亜麻仁油が大豆油に変更になったという事実があるそうだ(p142)。亜麻から作る亜麻仁油はリンシード・オイルといって油絵を描く人なら使ったことがあるだろう。それがアメリカの穀物メジャーが圧力をかけて大豆油の輸入を増やすよう求めてきたらしい。これは日本の書類やノートがB判だったのが、80年代後半からアメリカで一般的なA判に切り替わってしまったことと同じような事情だと言っていい。映画のチラシは今もってB5が多いが、美術展のチラシはほとんどA4判に変わっている。どうも少し大きすぎる。

内澤さんのイラストが『印刷に恋して』(晶文社、二〇〇二年)と同様に、そのヘナチョコな線描がじつに意外にも、こういった精密機械の描写にぴったりはまっていることには賛嘆を禁じ得ない。工業的な工程説明だと製図のようなキッチリ几帳面な挿絵を付けたくなるところを、ヒョロヒョロした細いラインで淡々と描いてある。ある意味、ゲージュツ的。それでいて説明不足という感じはまったくしない。ときおり作業している人間が描かれているのが、ほんとに現場の雰囲気をよく伝えている。好著である。

 装幀=平野甲賀

『評伝林忠彦』(朝日新聞社、二〇〇〇年)を読んでいる。あまりに有名な例の酒場ルパンにおける織田作之助と太宰治の写真を撮影したときの状況が詳細に検証されていて、たいへん面白く感じた。例えば、『文士風狂録』(筑摩書房、二〇〇五年)には以下のように書かれている。

《「あれ、誰や。黙って撮らせてええのか……」
 織田が言うので、青山が振り返ると、衝立のような仕切の向こうで、カメラを構えた若い男がシャッターチャンスを狙っていた。織田が大きな声をあげたので、カメラマンは名刺を持って挨拶に来た。林忠彦だった。挨拶が済むと、織田は機嫌をなおして、スツールに足を投げ出したり、煙草を吸ったりしてポーズをとった。》p24

《青山は、太宰治がすねたように、ぽつんと座っていたのを覚えている。
「林さんが最初から織田ばかり狙って写真を撮っているので、太宰さんは機嫌が悪かった。とにかく、すねていたんですよ」》p24-25

『評伝林忠彦』では、そのとき(昭和二十一年十二月四日夜)の様子は、林忠彦と同行した吉田潤(林と二人で写真事務所をやっていた)の証言に基づいて、こういう風に書かれている。ジャーナリズムの仕事をしていたので林には編集者との付き合いが多く、その夜もルパンには顔見知りの編集者がいた。林は店にいた革ジャンパーの異様なムードの男が気になった。

《「あの人知ってる?」
 と林忠彦が編集者に訊くと、
「彼が人気作家の大阪の織田作之助だよ。撮っとくといいよ」
 林忠彦は近づいていって頼んだ。
「ひとつ撮らしてください」
「いいよ」
 野放図な妖気がファインダーのなかに立ちこめた。織田作之助は気前よく注文通りのポーズをとってくれた。白い歯を見せて豪快な屈託のない笑顔になったかと思うと、次の一瞬、沈鬱な表情にも早変わりする。まるで役者のようであった。
 すると、突き当たりの向こうのカウンターの隅から酔っぱらった男が急にわめきはじめた。
「おい、俺も撮れよ。織田作ばっかり撮らないで、この俺も撮ってくれよ」
 林忠彦が黙殺していると、またしても、叫ぶ。
「おい、早く俺を撮ってくれよ」》

で、その男が太宰治だと知らされた林は驚き、便所の戸を開けて便器の上に寝そべるようにして、最後の閃光粉(吉田によれば、林忠彦がフラッシュバルブというふうに覚えているのは間違い)を焚いて撮ったのだそうだ。たしかにやや下方から見上げた写真である。

とにかく回想というのは一人の話を信じてはいけない。この例でも、青山光二は林忠彦が織田作を知っていて撮ろうとしていたかのように記憶しているが、吉田潤によれば、織田作についての知識はなかったが、太宰治の作品なり名前なりは知っていたというふうに取れる。また、当夜は、織田、太宰の他に、坂口安吾も同席していた(織田「可能性の文学」)。林はどうして安吾を撮らなかったのだろうか、あるいは撮ったのだろうか? 

なお、ルパンは銀座五丁目にあり、昼間は一杯五円の菓子付きの珈琲を飲ませた。夜はハイボールと称して紅茶茶碗に炭酸で割ったウィスキーを入れて一杯五十円。ルパン主人の田中敏男はアマチュアの写真の評論などもこなして、林忠彦や秋山庄太郎は常連だった。

楢橋朝子さんよりDM、写真展「アフタ・フニフニ」がギャラリー冬青で開かれる(3/2-30、中野区中央5-18-20)。三月は、ウンチクも30日から4月5日まで銀座で個展を開くので、29日から上京する予定なのだが、他にも用事があり、ちょっと新中野まではキツイかなと思う。拙作個展については案内状などが出来れば、また改めてお知らせします。

【ナベツマ・ジャンク】本日更新!



2006年2月25日(土)窓を開け書の背を撫でる風を聴く

『季刊銀花』145号届く。京都特集。洛中洛外図、西陣・現代の風、西陣界隈の案内、風流道場・花人西川一草亭の生涯、京の仕出し文化、五条界隈昔探し、三井家伝来の応挙模様、図案家下村玉廣の絵本、京都建築物ウクレレ化保存計画、鈴木悠斎・花札「京どっせ」、そして林哲夫の書処遊覧(イラストから地図まで執筆しています。記事中にウンチクの姿が!)・・・。いまどき流行る京都特集、のなかでも、かなり目の付け所が良い内容になっている。京都レベル中級以上にとくにおすすめ。

 『季刊銀花』京都特集、本日発売で〜す。

埼玉県富士見市の佐藤藝古堂『古書販売目録』73号届く。寄席演芸、大衆芸能、スポーツ、趣味、風俗、戦記など、いわゆる「雑本」ばかりを拾い上げて、立派な目付、値付け。ご主人は元コレクターらしい。巻末に掲載されているエッセイがなかなかである。いちおうジャンル別に分類はされているが、例えば、こんな野放図な流れのところが面白い。
 955 木材の着色と塗装技術
 956 突破者
 957 たそがれ法師の物語 平家物語誕生異聞
 958 黒い十字架のアガサ
 959 文字の文化史
 960 総会屋 内幕をズバリ!
 961 気象診断
 962 関東震災画報1〜3輯
 963 新修・表具の志おり
 964 世界風俗往来(和本)
この混沌のなかに欲しくなるブツがいくつか紛れ込んでいる。その一つは松田伊之介『神ながらの人二宮金次郎』、松田に対する興味から心が動くのだが、2100円か・・・。

『早稲田古本屋日録』の日垣隆氏による書評コピーが右文書院青柳さんから届く。絶賛である。掲載紙は『ゲンダイ』だそうだ。「こんな時代だから爽やかな感銘を受けた古本屋ぼんぼんのエッセイ」という題(たぶん記者氏が付けたんでしょう)。

《いい本を読んだ。私の薄汚れた血が、この読書中、しばらく澄んできたようにすら思う》《毎日遅くまで一生懸命に働き、仲間たちと実に楽しく日々を送り、一攫千金はないが儲けることは好き(上手くはない)。おそらく、印刷部数も多くはないであろう。古本好きにそれなりに売れれば、ということなのかもしれない》《著者の文章は、すこぶる上手い。そして何より、現場からの視線がいい》《出会ったことはないけれど、この青年に私の死後の全蔵書を(タダで)託すことにした》

向井くん、楽しみが増えたね!

松田哲夫・内澤旬子『「本」に恋して』(新潮社、二〇〇六年)も届いたのだが、詳しくは後日。とっても勉強になる。本ていうのは、ほんとに、多くの人の手によってできあがっているものだ。



2006年2月24日(金)朝まだき北窓開く静けさや

「北窓開く」は冬中塞いでいた窓を開く意味。トリノでもやっと窓を開いた感じだ。

わけあって借覧中の林芙美子『宿命を問ふ女』(尾崎書房、一九五〇年)を掲げる。吉原治良の装幀である。昨年の回顧展で、ちょうど敗戦後のこの時期、表紙にあるような家族的な人物像を描いた作品を見たのを想い出す。尾崎書房は児童雑誌『きりん』(一九四八〜七一年)の版元。大阪梅田と東京浅草に会社があったようだ。この他に以下のような書物を発行している。

林芙美子 『舞姫の記』(一九四七年)、『野麦の唄』(一九四八年)
木々高太郎
『エキゾチックな短篇』(一九四七年)『緑色の目』(一九四八年)
丹羽文雄 『似た女』(一九四七年)
竹中 郁 『動物磁気』(一九四八年)
芹沢光治良『女の運命』(一九四八年)
向後英一 ヨーロッパ特派員の手記』(一九四八年)
北条 誠 花日記』その1、2(一九四九年)
獅子文六 『青空の仲間』(一九四八年)、『てんやわんや』(一九四九年)
竹田敏彦 明星を与えん』(一九四九年)
城越健次郎故郷の藜』(一九五〇年)
『全日本児童詩集』(一九五〇年)




2006年2月23日(木)立ち止まり耳そばだてる半仙戯

先日来、レシートの計算をしていた。古本のレシートばかりが山をなしている(ふーッ)。日頃使わない脳ミソを使うとみょうに疲れる。本日、税務署に提出した。

蔵出しならぬ、箱出しパート2。西村冨次郎『少年教育博物ばなし』(西村書店、一八九〇年)。見開き右ページが文章、左が絵という構成で、「奥山の紅葉を観て感あり」「花より団子」などという教訓話を二十一篇収めている。そのなかにイソップの話がいくつかあるので、犬と肉の寓話を掲げてみた(天草本では「犬が肉を銜(ふく)んだ事」、万治絵入本では「犬、肉(ししむら)の事」、渡部温訳では「犬と牛肉(にく)の話」、../../www.geocities.co.jp/Bookend/9563/dog_meat/dog.htmlがたいへん詳しい)。


肉を銜えて川を渡るというシチュエーションが、明治になると(英語版からの翻訳だが)肉屋から盗み出して、という風により悪辣になっている。それぞれ、時代によって最後に付け加えられている教訓もビミョーに異なっているのが面白い。

天草本では《貪欲に引かれ、不定なことに頼みをかけて、わが手に持つたものを取りはづすなというこどぢや》(岩波文庫一九三九年版)、万治絵入本では《他の宝を羨み、事にふれて貪るほどに、忽ち天罰を蒙る》(岩波文庫二〇〇〇年版)、渡部温訳では《浮雲(うき)たる富を慕ひては。固有せる真の宝を失ふ 浅ましき事ならずや》(東洋文庫、二〇〇一年版)。西村書店版では《人ハ余り欲を深くしないが宜しいことであります》。

西村書店版は明らかに渡部訳を下敷きにしている。なお、渡部訳にある《固有せる真の宝を失ふ》(原文は lose the substance)というのは、ちょっとどうなんだろう? 元々は盗品という設定なのだ。《固有せる》じゃないでしょ、お宝には違いないけど。

一枚刷りの木版画も所蔵している。「澄生画刻」とあるところからすると、川上澄生『イソップものがたり』(吾八、一九七六年、限定180部)か伊曽保の譬ばなし』(吾八、一九八〇年、再刊本、限定100部)のなかの一枚であろうか? どうして一人歩きしているのは分からない。




2006年2月22日(水)春日やホースとぐろを巻いている

カエさんよりナベツマに興味深いメールがきていたので無断転載する。

《ネット見てると、昔の知り合いを見っけたりする。 http://blog.eplus.co.jp/bosco 一志君とは学生の頃、一緒に雑誌を作ってたことがある。彼は坪内祐三さんとめちゃ仲良しのようです。私は坪内さんとは縁がなかったけど、学年は一緒だったのだね。1978年の穴八幡交差点あたりで擦れ違っていたのかもしれない。》

で、これを引用したのは、この一志(いっし)さんは、昨日届いた小林勇『随筆書畫一如』に出ている「一志茂樹」と親戚か何かにあたるのではないだろうかと思ったからである。

《信州の兄の仲間たちは師範を卒業し、小学校の教師になった。私の書店員であることを利用して謄写版刷りの雑誌を活版印刷に改め、『創作』と名づけて、大正十一年から発行した。表紙は岸田劉生が描いてくれた。その頃私はまだ岸田に面識はなく、多分仲間の長老格の一志茂樹が頼んだのだろうと思う》p11-12

この一志茂樹は信濃史学会会長を務め、ネットで調べると長野古代史関係でよく名前が出てくるが、刀水書房の「20世紀の歴史家たち(5)日本編 (続)」のなかにも選ばれている歴史家である。こういう偶然は大好きだ。

そして、一志さんが坪内氏と雑誌をつくっていたのなら、『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』(新潮社、二〇〇五年)で出ているのではないかと思ったら、案の定、こういうくだりがあった。坪内青年は速水由紀子(桜井亜美)氏の一言で雑誌『マイルストーン』のサークルに入る決心をする。

《藤原と一緒のサークルに入りたいこと、それが一番の理由だった。
 二番目は一志治夫さん(現在ノンフィクションライターとして活躍)にあこがれたことである。
 一志さんは、『人生劇場』に夢中になっている他の部員たちとは距離を置き(一志さんはそんな野暮ったい芝居には参加しなかった)、クールで都会的で、かっこ良かった。》p256

ミニコミつながりまである。文中「藤原」は坪内氏の友人で『プレジデント』編集長藤原昭広氏。他にノンフィクション作家の岩上安身氏もその頃(一九七八〜九年頃)の早稲田ミニコミ界で活躍していたという。さすがマスコミの早稲田だけある。

Mさんより『ユリイカ』と『蘆刈』いただく。先日の拙作作品集に署名をするお礼とのこと、有り難すぎます! これまで『蘆刈』は二冊か三冊買ったはずだが、すべて湯川さんにお譲りした。限定十部の特装版を作るために捜しておられたので。また見つかるだろうとたかをくくっているうちに数年経ってしまった。加藤一雄の著書が知らぬ間に集まってきて、残るは、日本美術社版『無名の南画家』(一九四七年)だが、これは難物だろうなあ。

・ユリイカ 39号 書肆ユリイカ 一九五九年十一月一日 表紙=久里洋二 カット=真鍋博
・蘆刈 加藤一雄 人文書院 一九七六年


二十代の大岡信と東野芳明の対談「世界は大きな疑問符だ」掲載。写真が新鮮すぎる。話題は東野が一九五八年のヴェネチア・ビエンナーレに副代表として参加したことで、ヨーロッパ美術事情を語っている。このときのベニスでは、トビーとタピエスが《大賞なんかより注目を集めた》といった話から始まる。みんな若かった(当たり前! ウンチク四歳)。

高橋新吉が大阪の松屋町筋にある「白雪糖」という菓子の老舗で働いたことなどを回想している「ダガバジ・ジンギヂ物語」がたいそう面白い。調べると、これは一九六五年に思潮社から単行本として出ているが、けっこうな古書価がついている。

【ナベツマ・ジャンク】本日更新!



2006年2月21日(火)安吾忌に席を欠きたり薄き墨

17日は安吾忌だったそうだ。新潟の人が葉書をくれた。安吾は新潟出身だそうだ。あまり読まないので知らなかった。

小林勇『随筆書畫一如』(求龍堂、一九七二年)が届く。小林勇の本はけっこう出ているが、そう大した値段ではない。ただこの本は体裁が立派なせいか、そこそこ、一万円弱くらい付いていることが多い。これはぐっと安かった。単純にうれしい。


小林は裏表のない人物で、そこが魅力であり、少し弱点でもある。洲之内徹が柳瀬正夢をめぐってケンカを吹っかけているのは、洲之内のチンピラ根性が、小林の晴明さに苛立ってのことではないかと邪推してみたりする。例えば、小林は

《坂本繁二郎画伯が、世の喧噪からのがれて一人静かに制作に没入し、そのアトリエに人が入れば空気が乱れるといって許さなかったという話に私は感動した。画家としての一つの優れた生き方だと思う》

などと本書の後記に書いているが、坂本繁二郎の晩年を身近に知っていた野見山暁治によれば、お気に入りの若い娘だけはいつでもアトリエに入れたし無理も聞いていたそうである。野見山もチンピラ仲間だ、シビアな見方をする。だが、実際問題として《世の喧噪からのがれて一人静かに制作に没入》などという境地でロクな絵が描けるとは思えない。若い娘が好きな爺だからこそ、艶のある作品ができるに違いないのだ。またアトリエに人を入れないのは、未完の作品が恥ずかしくて人に見られたくないだけであろう。あるいは見られたくない本でも隠していたとか。

といって小林はおぼっちゃまでも何でもなく、世間の苦労も経営の難しさも知り尽くした人間である。筋金入りの素直さなのだ。晩年のガンコ爺になっていた露伴に可愛がられたのもそういうところではないか。

必要あって書箱を引っかき回していると、みょうな刷り物が出てきた。袖珍本のギャグネタ集、明治の銅版刷りだが、内容は十返舎一九や式亭三馬の明治版を合冊したもののようだ。いつ買ったのだろう? 忘れた。『道外節用小野愚謔文尽』(愚には竹カンムリがあり「とうけ せつよう おのがばかむらうそじつくし」のルビ。木村文三郎、明治十七年、元版は文化三=一八〇六年)。


右ページ上段右端は、大きい月の字に「大さか」とルビ、そのこころは「月代(さかやき)の月(さか)を大きく畫くなり」。次は「五十夕日武」に「いそばたもりもの」とルビ。そのこころは「武士(もののふ)」「晦日(つごもり)」・・・といった調子。これはバーナード・ショーがやはり ghoti と書いて fish と読ませたという頓知を思わせる。enough、women、ignition の発音を集めて、gh=f、o=i、ti=sh ! 蛇足ながら、三馬の方がショーよりも八十年先に生まれている。

漢字を格子のなかに並べてあるのは、前ページから権米種万(ごんべいたねま)ときて、久(く)嘉(か)良(ら)寿(す)我(が)甫(ほ)自(じ)九(く)類(る)・・・とつづく。古事記のように漢字を発音に当てはめた、今時なら雅虎(ヤフー!)みたいな表記法。