台風16号、強烈な風だった。夜中じゅう、裏庭のトタン塀が揺さぶられてガタンバタン、ガタンバタン、なんとか持ちこたえたが、明日はないかも。補強ができないくらい支柱が腐っている。ところで日本では台風に名前を付けないが、ヤフー!・アメリカのニュースを見ると16号には
Chaba というニックネームが付いていた。茶葉?
『ちくま』9月号。ちくま新書創刊10周年特集の宮崎哲弥(聞き手=重松清)の新書分析には「学問体系把握の入門としての新書シリーズ」への望郷の念(?)が強く表れていて、《リゾーミックな新書状況》への批判(要するに岩波新書批判というか叱咤)になっている部分に興味が惹かれた。
『大阪人』10月号、出ました。特集・掘り出し大阪本。カラー図版がたっぷりでそれだけでも楽しめる。小野高裕さん「プラトン社、そのモダニズムとタニマチ精神」他、演芸速記本、立川文庫(たつかわぶんこ)、創元社、金尾文淵堂、青木嵩山堂、ひかりのくに、青心社、編集工房ノア、大阪の洒落本、「本屋仲間」、私のとっておき大阪本BEST3。一つだけ言えば、鍋井克之の本が出てこないのが寂しいねえ。また松本茂章氏の連載に山田伸吉が取り上げられており、これは貴重な資料である。
「早稲田古本村通信」42号。ブログになってリニューアルしたという「早稲田古本ネット」のぞく。そこから「ポプラビーチ」「古本道場」へと進む。第十回「夢のパラダイスよ、花の東京」の岡崎節を堪能する。ポプラ社といえば、今『フジサンケイ・ビジネスアイ』に第3代社長伝連載中(土曜掲載)だ。
今年も恵文社一乗寺店で冬の古書市開催予定(12月21日〜1月3日)という報せあり。すむーす堂も参加予定です。
カロさんで『エルマガジン』の取材があったとか。「ミカン ア・ラ・モード」紹介してくださったそうだ、深謝。
鍋井克之『和服の人』書物展望社、昭9
2004年8月30日(月)古扇に野分の運ぶ重き風
鍋井克之の「文筆随筆」(『富貴の人』)に、嘉村磯多の小説「足相撲」を読んで《外の小説家なんて死んで了へと感激》したことが書いてある。そこまで言われると「足相撲」が読みたくなる。探してみると筑摩の『現代日本文学全集34』にちゃんと入っているではないか。三ページほどの短編、《外の小説家なんて死んで了へ》とは思わないけど、たしかに面白い。Z・K氏(葛西善蔵)との出会いとその常軌を逸した振る舞いを淡々と綴っている。
すると今度は葛西が読みたくなって『哀しき父』(改造社、一九二七年、この本少々難があるが500円だった)を開いた。「仲間」という作品にこうある。《結局野田は老獪、丸山は険獪、正木は貯獪、私は遁獪と云ふことにされた。畫家の堀内も來てゐたが、彼は姦獪――それは姦しいと云ふ意味からで、そちこちと友人間を駈け廻つて相互の感情を攪乱する――それも大した成心があつての譯ではないのだが、兎に角に姦しいと云ふ意味で、女三つを獪の上に戴くことになつたのであつた》。「姦しい」は「かしましい」と読むようだ(「かしまし娘」は「姦娘」か!)。文中野田は広津和郎、丸山は宇野浩二、正木は三上於莵吉(?)か。大正前期、宇野の下宿に彼ら「仲間」がたむろしていた時代である。で、畫家の堀内というのが鍋井克之ということになり、これはちょっとした発見だった。
『VIKING』664号、中尾務氏より。中尾氏の論考、今回は村尾絢子という富士正晴が恋心を抱いていた女性画家を調べている。新制作派協会、女流画家協会で受賞しているのだったら、そのあたりを探れば略歴などは明らかになるのではなかろうかとも思うが、どなたかご存じの方はメールください。
葛西善蔵『哀しき父』(改造社、1927)
2004年8月29日(日)少女らは百年の時超え水浴す
古本市場で『よみがえる日本の近代 石塚三郎旧蔵
明治・大正ガラス乾板写真』(ニッコール・クラブ、一九九九年)入手、525円。巻頭写真(素裸で川遊びする七人の少女たちが笑顔を見せている、木の舟が半ば沈み、木立と川と野原しかない桃源郷である)が印象に残る。石塚は野口英世とともに学び、後に新潟県長岡で歯科医院を開業した人物で北越写友会を運営するアマチュア写真家としても知られた存在だった。コレクションは吉田東伍記念博物館所蔵。先年、新潟を訪れたときにこの近くを車で通ったので、なんだか懐かしい。
『BOOKiSH』の原稿、鍋井克之についておおよそ書き上げる。次号は画家の文業についての特集だそうだ。面白くなりそうな企画である。
『中等漢文読本巻三』明治書院、明治34八版
2004年8月28日(土)トウキビは壁に並んで吹かれている
昨日の朝日新聞に「花咲爺さん 犬の名前はどっち?」という記事があった。絵本はシロ、童謡はポチ。これは単純に犬の種類が違うから名前が違うのではないだろうかとも思われる。ポチは斑点のある犬、シロはもちろん白犬。ポチはフランス語のプチ
petit からきたという説もあるようだが、「小さい点」のことである。体の特徴から犬の名前を決めるというのは古代中国や日本では普通に行われていた。中国の有名な犬「黄耳」や「黒龍」、『南総里見八犬伝』の「八房」(頭から尾にかけて八カ所の黒い斑毛がある)などなど。
童謡「花咲爺」は明治三四年(1901)に富山房の幼年唱歌シリーズとして出版された。作詞者は富山房で坪内雄蔵の「小学国語読本」編纂に関係していた石原和三郎。石原は「うさぎとかめ」「はなさかじじい」「金太郎」「大黒様」など数々の童謡を生み、作詞家としても多大な功績を残したそうだ。なぜポチにしたのかは石原に訊いてみないと分からないが、これはおそらくスポット spot (アメリカで一般的だった犬の名前、小さい斑点のある犬)と関係があるのではないかと勝手に想像している。二葉亭四迷の『平凡』(明治四〇年)にもポチという犬が出てくる。また明治四一年初訳(日高善一)『フランダースの犬』では、パトラッシュが「ぶち」にされてしまった。原本の挿絵の犬に大きめの斑があった?
。
白という名は白い犬や猫に対して江戸時代からごく普通につけられていたようだ。白は冥界との関係を連想させる(死者の白装束)。「花咲爺」の話でも犬が殺されて埋められた場所に樹木が大きく育つというあたり、エジプト神話にも直結しそうだ。明治末期には、白はやや古くさく、ポチの方がハイカラな感じがしたのかも知れない。
『断腸亭日乗』昭和六年一〇月二二日、《お歌が家の小狗 名ポチといふ 七疋子を産みたりしは》・・・《今日まで定まりたる名もつけず、病院にて人々白とよびしがままやはり白となし置きたれど、いかにもありふれたる名なればせめて只魯といふ漢字を発音に宛て頸環に刻りつけやりぬ》とある。『新潮文学アルバム・永井荷風』に妾だった関根歌と二匹の犬(テリアだろうか)の写真が出ている。これがポチとシロである。
妻は昨日のスタンプ帖を持って桂駅へ。最後のスタンプを捺し、ポケモン・シールを持ち帰る。けっこう恰好いいシールだ。応募欄には息子の名前を記入し、年齢も七歳にした(二十歳ほどサバをよんだ)とか。ちなみに妻はチコリータがお気に入り。ウンチクのひいきはコダック。無能ふうなところがなんとも言えない。
菊池清『己が罪』秀英舎、明治34(発行者の捺印なき者は偽)
2004年8月27日(金)アイビー(蔦葛)の十にひとつは朱くなり
装幀の打ち合わせで大阪へ。阪急梅田駅の改札を出たところにあるポケモンのスタンプを捺してくるように妻に強要されていたので、親子連れに混じってスタンプを捺す。梅田、三宮、宝塚、桂の四つの駅に用意されたスタンプをすべて集めるスタンプラリーだ。スタンプ用紙にスタンプを捺し必要事項を記入して提出すると、ポケモン・シールがもらえ、抽選でゲームボーイ・アドバンスSPなどの賞品が当たる。
阪神百貨店前の萬字屋の平台のぞき、『十三の不気味な物語』(白水社、1974年八刷)200円、北園克衛装幀。『地上の糧―前田河広一郎伝』(游心社、1991年)500円。後者は550頁もある大冊なので、かなり迷ったが、小野松二の周辺資料として購入することに(案の定、帰宅するまでこの重さに泣かされた)。ここの平台の本は値段を記入した細長い紙片を表紙〜背〜裏表紙へと回して両端をビニールテープで止めてある。レジで店員がこれをバリッと取り外すのだが、たいていカバーや表紙の一部が剥がれてしまう。柔らかい鉛筆で見返しかどこかにでも書いてくれるほうがずっといい。で、「そっとはがしてください」と注文したところ「じゃ、このままにしときます」ということで、帰ってからゆっくり取り除けることができた。それでもちょっとだけ表紙が剥がれた。テープは使わないで欲しい。
EDIの函と同じ白板紙(白ボール紙、EDIはグレーの方を表にしている)を使いたいと思って、見本帳を用意してもらったところ、同じものがない。種類は多いのだが、みんなプレスが効いていて固くツルツルに加工されている。EDIのものはもっとラフな感じで、一見似ているのだが、テクスチャーも手触りもかなり違う。さすがのこだわりだ。
『香川景樹翁全集下巻』博文館、明治31
2004年8月26日(木)ペタンクの地を撃つたびに虫黙る
山本と電話で話す。お盆は本当に高知へ行っていたそうだ(まだ疑っていた)。向こうでも「ブ」かどこかで掘り出しモノを見つけたかと思ったら、古書断ちの一週間だったとか。
N村氏から『フランス料理研究』の表紙コピーが送られてくる。B4判で1400頁以上、重量10kgだそうだ。コピーするのもたいへんだったろう。N村氏は相当数の佐野繁次郎本を収集しているので、そのうちぜひ装幀本展をやりたいと前々から話している。
検印紙はまだまだありますが、適宜、書影などを入れていくことにしました。
辻静雄『フランス料理研究』大修館書店、1977、佐野繁次郎装幀
2004年8月25日(水)虫食いが梵字に見える秋の宵
南陀楼綾繁の日記で『彷書月刊』9月号89ページの大河堂書店の広告「古本好きへの作家名しりとりクイズ」が話題になっていた。吉行淳之介―[ ]―辻邦生と続くのだが、「け・・・・つ」という作家が誰だか分からないとある。たしかに「け」で始まる日本の作家は兼好法師、源信、建礼門院右京大夫、源氏鶏太・・・案外いないものだ。しかも「つ」で終わるのだから、南陀楼も挙げている車谷長吉か花村萬月かと考えていて、月ならば、玄月(げんげつ)さんが思い浮かんだ。『蔭の棲みか』で第122回芥川賞を受賞している大阪の作家だ。[玄月]でしりとりクリア?
『文学雑誌』の18号と24号をM岡さんからいただいた。三島書房を離れてしまってからの号なので、期待はしていなかったが、開けてびっくり。18号(昭和26年1月30日発行)に「創元書房・創元茶房」の広告が掲載されているではないか! 拙著『喫茶店の時代』では「創元」としているが、「創元茶房」が正式名称のようである。雑誌は広告だ!
オリンピックの野球、負けるのはいい、しかし負けて「申し訳ない」というのは、将軍様の国じゃないんだから、根本的に間違っている。そもそも
FOR THE FLAG とかナガシマ・ジャパンというのが問題だ。プロ野球という組織のゆがみがここにも反映しているのではないか。
『文学雑誌』18号、帝塚山学院短期大学出版部、昭和26年1月30日発行、表紙=小出卓二
2004年8月24日(火)秋の空 声なき叫びの木霊する
昨日のムンク記事はAFPの要約だったが、報道ステーションではオスロの国立美術館所蔵の「叫び」の裏にもう一点描かれていると言っていた。『ムンク展』(東京新聞、一九八一年)図録を見ると、その国立美術館所蔵の「叫び」(厚紙に油彩、カゼイン、パステル)が出品されていたことが分かる。ムンク美術館の盗まれなかった方の「叫び」(厚紙にパステル)も出品されている。それらの解説にも何点制作されたかまでは記載はされていないが、《このモティーフは、あまり手を加えることなしに、油彩、パステル、素描、石版などに表現されている》とあるので、かなりの数があるのだろう。1893年作というと明治26年だ。この不安、この表現、フロイトの時代をカンペキに予見している。
それにしても、白昼堂々とはこのことで、通行人が撮ったビデオ映像が配信されてみると、大胆というか悠々持ち去った様子がよく分かる。ビデオでは額縁は付いているようだった。二点で100万ドルとも値踏みされているが、こう有名な作品だと売りさばくのは不可能だろう。自分(または依頼人)の門外不出コレクションにするか、保険会社にアプローチするか(警報機もないぐらいだから、保険に入っていたのかどうか?)だろうか。
『彷書月刊』9月号、特集・印刷記。いい特集だ。巻頭、正津勉さんインタビューは「京都の双林プリントと詩人たち」、《佐々木たち同志社のメンバーと学校をフケて、寺町三条を上ったところの三月書房に向かう。本なんて買えないんですよ。お金ないですから。店主の宍戸恭一さんの顔を見て、本棚を見る。宍戸さんの機嫌がいいときには、向かいの喫茶店でお話してくださるんです。お話を聞いて夕方ぐらい。歩いて五十メートルほど、隣の筋の双林プリントに向かいます》。文中《佐々木》は佐々木幹郎氏、《三条上がった》は二条とするところ。《向かいの喫茶店》は「デコイ」か? 一九六〇年代後半の京都が浮かび上がる。
大槻如電『校訂曾史抄 下』富山房、明治31再
2004年8月23日(月)コーネルの葉書もしなう秋湿り
ムンク美術館の「叫び」(1893)と「マドンナ」(1894)が盗難に遭った。短銃で武装した犯人二人が額を外して持ち去ったという。入館者が多数いたそうだが、犯行に一分とかからなかった。一階の出口に近いところに展示されており、アラームもなかった。一九九四年(リレハンメル冬季五輪の年)、オスロ国立美術館からやはり「叫び」が盗まれたことがあって、これは三ヶ月後に見つかり、後に元サッカー選手の犯人も捕まった。なんだかやけにスポーツにかかわりが深い。なお「叫び」はムンク美術館にあと一点、個人蔵が一点、オスロ国立美術館の一点を含めて、計四点あるとのこと。ヒエ〜。
『石山本願寺合戦』銀花堂、明治31(講談本)
2004年8月22日(日)まつり果て地蔵も人も添景に
地蔵盆二日目、午前中に、供養、ビンゴ・ゲームなどあり。昼前にはテントなどの撤去作業終了。石仏に供えてあったビールや果物を下げて世話人一同で食する。夕方から雨、おまつりに影響なくてよかった。
「[書評]のメルマガ」176号、長谷川洋子さんの「下連雀しゃんしゃん日録」、独特の間があっていい文章なり。《『戦争の作り方』(冊子版300円/マガジンハウスから今出ている本の前身。新本。古本に非ず)は一日に1〜2冊売れて行く。若い人から年配の方まで。中には友人にプレゼントという人も。戦争を考える季節。夏休みに覚えた四字熟語、鼓腹撃壌などあり得ない。か?》の「鼓腹撃壌」を知らなかったので調べてみた。有名な話だった。
『十八史略』の「帝堯」に《有老人、含哺鼓腹撃壌而歌曰、日出而作、日入而息、鑿井而飲、耕田而食、帝力何有於我哉》とある。堯帝は言うまでもなく舜とともに中国古代の理想の帝王で、ここは堯が自分の政治がうまくいっているのかどうか、誰に尋ねても分からない、そこで自ら変装して野に出て庶民の様子を視察したところ、ある老人が「含哺鼓腹撃壌而歌」して「帝王さまのお力なんかおいらにゃまったく関係ない」と歌っていた。それほど平和だった。そこから鼓腹撃壌(こふくげきじょう)が天下太平を楽しむことの意味に用いられるようになった、ということである。
「撃壌」は壌(木製のくつの形をした土塊、本来の壌は柔らかい土を指す)を立てて離れたところからもうひとつの壌を投げて当てるという遊戯、または壌(きごま)を打ちつけて勝負を競う遊戯、という説もあるが、少なくとも『十八史略』のテキストにおいては「大地をたたく」(足を踏みならすということだろう)という意味である。「含哺」は口に何かを含む、「鼓腹」は腹をたたく、そして「撃壌」する、要するに老人はラッパーだったのである。
しかし、この逸話、堯帝の無能さを表しているとも考えられなくもない。五十年政治をやってきて初めて民衆の意見を聴こうとしたのだから。そしてこのラッパー老人は、選挙前の街頭インタビューに「誰に投票しても同じだよ〜」と答えるバカ者たちに似ていなくもない。「帝堯」は《堯子丹朱不肖、乃薦舜於天堯崩舜即位》と結ばれている。息子の教育もロクにできなかったようだ。ただし、凡庸な息子ではなく、舜を後継者に指名したところは賢明だった。舜は、父が後妻の子を溺愛したところから何度も殺されそうになったという苦労人だ。ところが舜の子の商均も不肖の子だった。親が立派すぎる(または周囲からそう思われている)と、子どもは育たないのかなあ。
石川英『唐宋八大家文講義第六編』興文社、明治31(著者の印紙)
2004年8月21日(土)手や缶をたたく音満つ地蔵盆
町内の役に当たっているので地蔵盆の設営のお手伝い。わが家の目の前が会場である。スイカ割りの代わりに、子どもたちが目隠しをして空き缶をたたくゲームから地蔵盆がスタート(命中するとスイカ一切れをもらえる、命中しなくてももらえるが)。明日の午前中まで賑やかだ。
一角に町内の子どもたちの絵を集めて展示してある。ポケモン人気が明らかだが、三十枚足らずの絵のなかで、おっと思うのが一枚あった。色遣い、配置のバランス、いきいきしたタッチなど、フォートリエとかアレシンスキーを連想させる。偶然ちょうどその作者、五歳男子がやってきて、尋ねられるまま、近くのおばさんたちに自分の絵について説明した。古代の恐竜が大好きらしく、描かれているのはみんな古代生物だそうだ。「これはね、アンキロサウルスで、こっちはブラキオサウルス……」、しかしながら「いや、おばちゃん、ようわからんわ」とアッサリ逃げられた。その後、妻が「トリケラトプスはいないの?」と一言かけると、おや、知ってるやん、おばちゃん、一杯いきねえ、じゃなくて、嬉しそうに一匹ずつの解説を始めたのであった。
『一寸』19号。岩切信一郎氏の秋朱之介についての記事を読む。秋朱之介は明治三十六年鹿児島県川内市生まれ(同郷者に改造社主・山本実彦)。二十歳頃、新橋の貯金局に勤務(同僚に龍星閣を興す沢田伊四郎がいた)。昭和五年、五十沢二郎とともに「やぽんな書房」を創立するも失敗。翌六年、横浜市で「以士帖印社」(以士帖は“えすてる”と読むらしい)を起こし、川上澄生、深沢索一の版画を出版する。昭和九年に裳鳥会を結成して『書物倶楽部』を編集発行。堀口大学『ヴェニュス生誕』に棟方志功版画の付録を付けて大学に激怒される。柳宗悦に出会う前の棟方志功はゲテモノだった。などなど。
オリンピック野球の対台湾戦、危なかったが、良い試合だった。福留の守備、中村ノリのバントにしびれた。サッカー女子の対アメリカ戦、オフサイドでしょう!
竹貫登代多『高等小学筆算教科書巻之参』共益商社書店、明治30(著者、発行者、印刷者それぞれの捺印がある)
2004年8月20日(金)見返しを蜻蛉かすめる昼寝どき
モダンジュース・恵文社共同企画「鴨居羊子・細江英公
ミス・ペテン」(9月14日〜27日、恵文社一乗寺店)の案内が届く。いい写真だ。ロゴもさすが。
『斜陽館だより』62号届く。稲垣足穂の書簡6点(葉書4、封書2)126,000円、同じく絵入葉書2葉が94,500円。寺島珠雄書簡一括(葉書1封書5)6,300円、など買ってみたいなあ。現実には三島書房の本を注文する。巻末、店主のボヤキがいつも悲惨で面白い。
検印紙は、明治の初め頃には、巻頭に貼られていた。ここに掲げた本はポケット六法というか、刑罰一覧で、とても興味深い。明治三年の「新律綱領」と六年の「改定律例」を並べてあるが、改定後は、死刑が終身刑になるというふうに全般的に刑罰が軽くなっている。罰金刑も増えているようだ。
安井乙熊註解・青木輔清校正『新律綱領
改定律例 改正条例 伺御指令 袖珍対比註解』同盟舎出版、明治11(扉に印紙、「輔清」の割印、青木輔清は出版人である)
2004年8月19日(木)フリスビーに蜻蛉とまって小休止
小野高裕さんから《『大阪人』10月号(9月2日発売)は大阪の出版社を特集します.青木嵩山堂,金尾文淵堂,立川文庫,創元社,プラトン社・・・その他.ぼくも先日取材を受けました.ちょっとマニアックな『大阪人』になりそうです》という情報をいただいた。これはぜひ入手したい。
一方、『東京人』10月号は神保町ガイド特集。sumus メンバーによる古書店ガイドもありますよ、お見逃しなく。
マン・レイとハートペンスのつながりについて検索していたら、『Others』という詩の雑誌についてのサイトを見つけた。『Others』はアルフレッド・クランボーグ
A.Kreymborg が中心になって1915〜19年までNYその他で発行されており、ハートペンスも編集を手伝っていた。T.S.エリオット、エズラ・パウンド、カール・サンドバーグなどにまじってマン・レイも「Three
Dimensions」なる作品を寄稿しているらしい。記念撮影の集合写真がアップされているなかにはマン・レイ(?)やマルセル・デュシャンの姿も見える。
熊谷巌励『新撰碁学活法』吉岡平助、明治29(版元の割印)
2004年8月18日(水)練乳のチュウブから残暑しぼり出す
マン・レイのことを書くと、石原さんがどういう反応を示してくれるのか、いつもとても楽しみだ。17日の日録もすごい。《「 F.M.Naumannは書いている。」はモンテクレールでの『モダニズムへの変革;マン・レイ初期作品』展テキスト。この美術館にマン・レイ初個展のカタログを提供していたのは、わたしなんだけど----》、恐れ入りました。
絵葉書珍列館の原稿を書く。大正頃の実芭蕉(バナナ)の絵葉書について。生蕃屋商店発行「台湾乃果実」シリーズの一枚。現在、ごく一般的なバナナはキャベンディッシュという種類でフィリピンもエクアドルもみなこれ。しかし戦前は台湾バナナがバナナだった。台湾に香蕉(バナナ)を根付かせたのは中国人だそうだが、それを商品化したのは日本人で、明治三十六年に初めて輸入された。ちなみに日本人で初めてバナナを食べた(?)のは織田信長、ルイス・フロイスが献上したという。バナナ・サイトでは岡部昌平氏の夕焼けバナナ倶楽部のラベル・コーナーが圧巻だ。
柔道が頑張っている。つい外国人選手同士の闘いも見てしまう。劣勢になった選手を応援していると、妻がぽつり、「阪神ファン歴が長いから、弱いものの味方やね」。去年はぶっちぎりだったじゃないか(憮然)。
山田安栄校訂『諸子彙函 六巻』青山堂、明治26
2004年8月17日(火)大文字をインクの闇に眺めたり
ダニエル・ギャラリーとマン・レイの関係を『マン・レイ写真展』(東京新聞、二〇〇二年)の年譜(前田淳子編)で調べてみれば、1915年(初個展)、1916年、1919年と、三度の絵画と素描による個展を開催している。ところが評判は惨憺たるものだったようで、ダニエルの励ましにもかかわらず、ついに絵画をあきらめて、気晴らしにやっていた写真を本格的に開始したらしい。現在、マン・レイのこの時期の絵画はむちゃくちゃ高価になっているというから、世の常とは言え、短期的な評価に左右されてはいけない(いや、マン・レイの場合は良かったのかな?)。
ピーター・ブルーム画集のテキスト(by F.A.Trapp)によれば、画廊主のチャールズ・ダニエルは、ドイツ人移民のレストラン経営者の息子で、兄弟たちとともにマンハッタンの9th
Av.と42nd St.の交差点北西角でカフェとホテルを経営していた。そこは、ニュージャージーの Weehauken にあった芸術家コロニイへ通う芸術家たちが市電(9th
Av.線)を乗り換える場所で、ビールを一杯ひっかけるたまり場になっていた。そんな雰囲気のなか、チャールズはいつしか美術コレクションにのめりこんで行った。
そしてついに、1913年12月17日、2 West 47th St.にダニエル・ギャラリーをオープンする。十年後、600
Madison Av.のビルの十階に移転し、1932年に破産するまでそこで営業していた。チャールズは店員として詩人のアランソン・ハートペンス
A.Hartpence を雇い、セントラル・パーク南の馬小屋の上階に部屋を確保し、若い画家たちを集めてサロンのようなものを開いていたという(当時、セントラル・パークは乗馬にもってこいの場所だったそうだ)。そのハートペンスが1915年頃マン・レイをチャールズに紹介したと
F.M.Naumannは書いている。
1943年に親しかったアーティストたちがチャールズ・ダニエルのために感謝の晩餐会を開いた。その三年後、彼の所有していたすべての絵画が競売に付された。チャールズは短くこうコメントしたという。《家賃を払い、電気代を払い、マネージャーを雇い、アーティストたちに分け前を与え、ヨーロッパ行を援助したよ、自分はまだ行ったこともないのに》、まあ世の中そういうもんです。
ちなみにピーター・ブルーム
Peter Blume はピーター・ブルーム
Peter Bloeme (元フリスビードッグの世界チャンピオン)とは無関係である。
オリンピック、体操団体、最後の鉄棒の演技は感動ものだった。ドンマイ拍手は体操でもやっている。
『古今著聞集』博文館、明治24
2004年8月16日(月)長き夜にアテネの芝の緑沁む
ピーター・ブルーム
Peter Blume(1906-92)画集のテキストを読む。ロシア生まれのブルームは六歳のときに家族とともにニューヨークにやってきた。乗るつもりだったタイタニック号の完成が遅れたために古い客船モーリタニアで海を渡った。ラッキーだった。若くして画家を天職と決めており、1920年代にダニエル・ギャラリーの作家となった。ダニエル・ギャラリーは当時のニューヨークにあって、スティーグリッツの291ギャラリーとともに同時代のアメリカ作家を扱う数少ない存在だった。トーマス・ハート・ベントン、ヤスオ・クニヨシ、チャールズ・シーラー、マン・レイなど後に名をなす多く若い作家を抱えていた。
ブルームは食うや食わずの生活を続けていたが、金銭にはまったく頓着せず、絵が描ければ幸せだったようだ。ところが大恐慌のあおりを受けてダニエル・ギャラリーは1932年に閉店の余儀なきにいたる。クニヨシから影響を受けたとされる大作「スクラントンの南」(1931)は債権者に差し押さえられそうになったところをブルームが取り返し、1934年のカーネギー国際展に出品した。一等賞を獲得して彼の出世作となる。
しかしこの画集で見る限り、無名時代の1920年代後半の作品が最もつつましく好ましい。ブルームの代表的な大作「THE ETERNAL
CITY(Blumeをクリック)」(1934-37)などはたしかに一度見たら忘れられない奇想に満ちているが、すでに内面が壊れかけているなという感じがする。
オリンピックで気づいたこと。サッカーもバレーボールも失敗した選手がパチパチと拍手する。ドンマイという意味のなのだろうが、紛らわしい。
『稿本国史眼 七』大成館、明治24再版
2004年8月15日(日)いにしえの人を巡りて星月夜
オリンピック・ゲーム、ほとんど日本選手の試合しか放送されないのが物足りない。それにしても女子バレーボール、ガチガチだった。開会式が長い。
書肆アクセス半畳日録を読んでいると、真夏に読みたくなる漫画という話題が出ていた。ジサブロウさんのおすすめは竹宮恵子の短編「つばめの季節」だそうだ。ウンチクはやっぱりつげ義春の「海辺の叙景」かなあ。雨の海岸がとってもいい。mimibook(妻のペンネーム)のイチオシは望月峯太郎の「座敷女」。知り合いのある受験生が、親との関係がうまくいかなくて落ち込んでいたとき、このマンガを勧めたところ、メッチャ怖くてモヤモヤもすっ飛び、すっきりして試験に受かったというんだからすごい。ふ〜む、しかしウンチクは読んでいない。楳図かずおの「へび少女」がトラウマになって怖いマンガには弱いのだ。
明治本の奥付をチェックしていて『古今著聞集』にある陰陽師晴明の話が目に留まった。瓜(ウリ)の中に蛇が入っていたのを見抜いたというエピソード。それはいいとして、晴明の息子吉平も有名な陰陽師だったらしく、ある医師と酒を酌み交わしていたとき、吉平が「はやく酒を飲み干しなされ」と言うので医師は「え?」と思っていると、急に地震が起きて杯の酒がこぼれてしまったそうだ。ナマズなみの予知能力があったということだが、あまり役に立ちそうもない。
「ミカン ア・ラ・モード」の注文をくれた阪急ブックファースト渋谷店、いろいろなフェアをやっている。どのフェアに並ぶのかmimibookが気をもんでいる。ひょっとして夏の絵本フェア? 近くの方は覗いてみてください。
三島通良『はゝのつとめ』博文館、明治29八版(印刷された飾り枠の中に捺印「版権所有」)
2004年8月14日(土)森陰に古書を眠らせ虫の声
昨夕、下鴨の古本まつりをもう一度のぞいた。残念ながら五時に着いたので百円均一は終了していた。全体の店じまいは六時。森にかこまれているせいで、すでに薄暗く、裸電球がテントごとに書棚を照らしている。『ジャズ批評』26号(一九七七年五月)特集ブルース事典と滝井孝作『浮寝鳥』(石原求龍堂、一九四三年)のみ。後者は句集と随筆、「秋草や昼は障子をはづし置く」「汀にはいれば足にさはる鮎のやさしさ」「藤豆に手ふれて固き秋暑し」。
店じまいしてから、キトラ文庫さんの発行する雑誌『coto』の同人の方々と近所の高倉という小料理屋へ。高倉健のサインが飾ってあった。とんかつ茶漬けが絶品とのことだったが、そこまでたどり着かず。
『日本古書通信』901号、川島さんの連載、いつもながら面白い。志賀直哉の初版本は人気がないのか。小田光雄氏の連載「古本屋散策」は出版界を支えた(?)高利貸しについて。筑摩書房は市中金融で生き延びたそうだ。出版はギャンブルである。だから止められない、止まらない。
『gui』72号、奥成達氏の北園克衛を巡る連載はとりとめもなく面白い。浅薄なフォルマリスムと一蹴されていた北園が若い世代に評価され始めている最近の変化について感慨を込めて語っている。古書価はとっくにそれを示している。引用されている春山行夫の文がいかにもそれらしくていい。《北園克衛に初めて逢つた翌日、彼は僕の事務所の机に一通の紳士的な挨拶を送つた。僕が彼に語つたガラスのサボテンについて、彼は僕を一個の椅子という冷静な家具に譬へ、更に僕にクリティクの親愛を見ない》云々(北園克衛『白いアルバム』厚生閣書店、一九二九年、序文より)。
小池民次『尋常科初学修身書巻之五』前川善兵衛、明治26
2004年8月13日(金)荘八を夜食か飽かず眺め居る
美術関係のエッセイを清書してゆく。文章を直し出すときりがないのでそこそこに。年明けには形にする予定。
『日本古書通信』901号。小川芋銭の遺品整理の記事。画家よりも俳人としてその名が先行していた時期があったそうだ。例えば、蕪村が俳人として高名になったのは明治に正岡子規らが再評価してからで、生前は画家としてのみ認知されていたらしい。人生いろいろ。
池永厚『高等小学読本第八』普及舎、明治20
2004年8月12日(木)流行歌きれぎれ耳に盆休み
デイリー・スムースのトップページを模様替えしました。漱石『硝子戸の中』(岩波書店、一九一七年九版)。
徳島の小西さんより『創世ホール通信』115号。杉浦康平『宇宙を叩く』(工作舎、近刊)のチラシ同封。同じく『ブック・デザインの宇宙(仮題)』二巻も進行中、そしてGGGで雑誌のデザイン展開催(10月5〜30日)という情報もある。
007の生みの親イアン・フレミング没後40年。
昨日買った小糸源太郎『風神雷神』(読売新聞社、一九五四年)を読了。永井の『東門居句手帖文壇句会今昔』掲載写真に久保田万太郎らとともに小糸が写っていたので俳句をやるのかと思っていたところ、この本にいくつか挿入されていた。「短夜や祭に象の出たはなし」「生牡蠣の歯に沁むほどの日なりけり」など悪くない。久保田とは学生時代(久保田は慶応、小糸は美術学校)に知り合ったそうだ。《恰度その頃、雑誌白樺が、後期印象派の人たちの理論や作品を毎号掲載していた。鋭い気魄に満ちたゴッホや、セザンヌや、マチスの作品を見て、私たちは無暗に興奮させられたものである》《私たちは、教室ではおとなしいデッサンを描いていたが、一たび校門を出ると、なかなか我慢が出来なくなつた、丸善や中西屋へ行つて新着の洋書を漁るのが何よりの愉しみだつた》。丸善の美術史に果たした役割、一度、検証してみると面白いだろうに(中西屋は丸善の洋古書部)。
季村敏夫さんの詩集『木端微塵』(書肆山田、二〇〇四年)が届く。装幀間村俊一、写真鬼海弘雄。最近手にした詩集のなかでは最も美しく上質な一冊だ。活版刷りというのが間村さんのこだわり。表紙、箱、帯、扉、謹呈用紙にいたるまで細心の工夫が凝らされている。もちろん詩もいいです。
Apple
Store,Shinsaibashi がいよいよ8月28日にオープンするという。福袋は3万円で限定250個だそうだ。
新保磐次『日本読本第三』金港堂、明治20(金港堂の印が出版人のところに捺されている)
2004年8月11日(水)木漏日の糺の森へ人急げ
十時少し前に下鴨神社(賀茂御祖神社)の森に到着。やはり山本の姿は見えない。何はともあれ百円均一のテントに向かう。森の外れのせいか、ここだけ日光が直射し長時間立っていられない。それでも明治の教科書の検印をチェックしながらいくつか買うことができた。いろいろな検印のスタイルが面白い(八月はこの図版で通します)。
扉野良人、荻原魚雷の二人に会う。扉野に佐野繁次郎デザインのパピリオのクリーム瓶をもらう。これがとてもいいのだ。聖智文庫さんも来ていて立ち話。すでにサンリオ文庫などをしっかり購入している。
キトラ文庫でアカギ叢書を六冊(各二百円ほど)、これが今日の収穫だった。その他、ぶらつきながら、ピーター・ブルームの輸入画集と『昭和十年新版大日本画家名鑑』(大日本絵画講習会代理部)を二冊五百円、菊池寛作・木村荘八画の「天誅組罷通る」新聞切抜スクラップ帳五百円(掲載紙不明。単行本は大日本雄弁会講談社から昭和十六年に刊行されている)など。今年はけっこう買った。
中尾さん、前田くん、魚雷といっしょに扉野の教えてくれた「グリル生研会館」で昼食(扉野はお勤めのため寺に戻る)。ランチ980円もあるが、カツカレー1000円にしたところ予想以上の味に満足。山本が来ていないのはさびいしいという話題で盛り上がる。じつは変装して来てるんじゃないか、とか、初日に来られなかったことをネタにして三ページは書けるで、など。
夕方から『BOOKiSH』の集まりがあるそうで、誘われたが、都合により失礼する。
帰宅してみると、会場で会ったM岡さんからメールが届いていた。《赤尾の3冊5百円にたくさん出ていた句集の中から永田耕衣の『葱室』を買えたのは嬉しかったです。しかも後から見ると署名入りでした》・・・負けた。
亀谷省軒『修身児訓』浪華文会、明治13(版元ではなく著者の名前入り検印紙)
2004年8月10日(火)夕顔を植えて細竹見つからず
満州文藝春秋社は、国内の用紙制限令をうけて、永井龍男が企画したものだそうだ。しかし満州へ渡ってみると、現地の出版社の共同戦線により(甘粕の冷たい態度もその結果だったらしい)創立は難航した。内地の文藝春秋社は急速に右傾化し、池島信平、徳田一彦、千葉源蔵らの自由主義的とみられていた社員は次々と満州へ送り込まれたが、それはある意味で追放されたに等しかったという(永井龍男「私の履歴書」より)。満州文藝春秋社は、小尾十三『雑巾先生』、井伏鱒二『花の町』、倉光俊夫『連絡員』などを刊行している。芥川賞受賞作を含む『雑巾先生』は稀覯本として知られ数百万円の値が付くらしい。稲毛恍『古書ハンター』(青弓社、二〇〇三年)にはこの書物にまつわる小説が収められている(装画=林哲夫です)。
「はせ川」の跡地が現在どうなっているかは「東京紅團」坂口安吾のページに写真が出ている。長谷川画廊である。
明日は下鴨の納涼古本まつり初日。赤貧山本は旅行のため不参加だそうだ(!)、嵐になるかも・・・。
『尋常小学書簡読本巻之一』笹田弥兵衛、明治25
2004年8月9日(月)六道は古書の道かと思いつき
「はせ川」のことが出ていないかと永井龍男の『東門居句手帖文壇句会今昔』(文藝春秋、一九七二年)を繰ってみる。開店を昭和二年と誤っているが、長谷川春草について《たしか籾山梓月の経営する俳書堂に勤めていたのを、なにかのいきさつから退職後、夫婦二人切りの前垂れがけでこの店をはじめたばかり、梓月も春草も共に新潮社の日本文学辞典に名をとどめている俳人だが》《如才なく見えながら云い出したら枉げぬという、かたくなさを蔵した下町育ちであった》云々とある。春草は明治二十二年生まれ、昭和九年歿。『春草句帖』(素商書店、一九二九年/「素商」というのは季語で「秋」の別名)、『長谷川春草句集』(さつき発行所、一九三六年)がある。「沙魚(はぜ)焼くや深川晴れて川ばかり」「繭玉やそよろと影もさだまらず」
永井は昭和十八年、満州文藝春秋社創立のため、満州へ渡り全満文化界を牛耳っていた甘粕正彦に協力を依頼した。名刺代わりに二十周年記念号(昭和十七年)のために作った浜田庄司の湯飲みを贈った。《いまも強く残っている印象は、この人が遂に初対面の私の顔を正視して話をしなかったことで、横を向いたままお前らにやる紙は満州にないという結論であった》という。敗戦とともに甘粕は服毒自殺をしたが、そのとき、浜田庄司の湯飲みを使ったそうである。
「さんちか」の目録で注文していた古山高麗雄『プレオー8の夜明け』(講談社、一九七〇年)が届く。駒井哲郎装幀。《人間がコロコロ、死んで行く。それが平常化しているので、誰も何とも思わない。昨日だって、何十人という白人やグルカが、一瞬のうちに死んだというのに、誰も何とも思わない。私も何とも思ってやしない》・・・今だって変わらない。
『美術世界第十八巻』春陽堂、明治25
2004年8月8日(日)立秋に水なす二十箇届きたり
ビデオで「フリーダ」(ジュリー・テイモア、米、2002)を見る。フリーダ・カーロの伝記的映画。カーロ(サルマ・ハエック、製作・主演)とディエゴ・リヴェラ(アルフレッド・モリーナ、「ショコラ」でレノ伯爵に扮した)の恋愛を中心に描いている。とにかくハエックとカーロがよく似ているのに驚く(じっくり見比べるとそうでもないが、映画としてはカンペキだ)。ただし英語なのがまったくそぐわない。メキシコ語(スペイン語)でやって欲しかった。音楽だけが見事な本場の感じを出している。情事の相手としてトロツキーが登場するが、他にブルトンやイサム・ノグチ、エイゼンシュテインらとの関係もあったらしい。70点。カーロの展覧会を一九八九年に大津西武で初めて見たときはショックだった。今でもはっきり覚えている。
「郵便配達夫シュヴァルの理想の宮殿」のオフィシャル・サイトというものを見つけた。他にも空想建造物のサイトでも詳しく紹介されている。
『新撰小学地理書 七』吉川半七、明治23
2004年8月7日(土)暑き日に旅上の凍へ思はるる
アンリ・カルチェ=ブレッソンの死亡が、フランスでは、かなり大きなニュースになっている。HCBと親愛を込めて略称されたそうで、写真家たちは「親を亡くしたような」哀しみを感じているとか。最初は絵を志していたらしく、晩年になると初心に戻ってか、絵画やドゥローイングに専念していた。手元の図版で判断すると、裸婦のデッサンなど、ルシアン・フロイドを思わせるところもあり、絵描きの道を選んでいたとしてもきっと大成しただろう。「決定的瞬間」があまりにも有名だが、彼の作品はどれもみんな作り物ぽい。報道写真でありながら映画的というかドラマ性を狙っている。ちょっと決まりすぎかな、という写真が多い。なかでは「マドリッド
1933」が好きだ。
四条烏丸の市営駐車場に車を入れて、味禅で蕎麦を食す。暑いときに熱い鳥なんばもいいものだ。黒七味をたっぷり。汗が噴き出る。ここでウンチクを垂れると「なんば」というのはネギを意味する。かつて大阪難波が葱の産地だったところからきたという。さしづめ京都なら「くじょう」であろうか。
仏光寺通を烏丸通から西へ入ると与謝蕪村の邸宅跡がある。終焉の地だそうだ。天明三年(1783)十二月二十五日没。うかつにも今日通りかかって初めて知った。墓所は東山の金福寺。辞世の句は「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」。ま、それはオマケとして目的はストアデポ四条烏丸店でOPPフィルムパックなどの文具を仕入れること。ここは文具事務用品のまとめ買いにいい。
昨年、一誠堂が創業百年だったそうで、最近「古書肆100年」という冊子が編まれた。一誠堂は店員が近くで独立することにまったくこだわらなかったので、神田には一誠堂出身者が多い。悠久堂、一心堂、山田書店、弘文荘、八木書店、小宮山書店、崇文荘、三茶書房、沙羅書房、けやき書店(むろん神田以外にも数々の出身店がある)、う〜む、一大古書シンジケートと言えそうだ。松本清張が資料収集を任せていたというのは有名だが、生前、松本は「俺が死んだら、本は一誠堂さんにみんな売る」ともらしていたそうだ。実際には記念館に納められた。死んだら売れないよねえ。
以前録画したところ最後の10分ほどが切れてイラついた映画「危険な遊び」(ジョセフ・ルーベン、アメリカ、1993)が京都テレビで再放映された。マコーレ・カルキン(「ホーム・アローン」1990)とイライジャ・ウッド(「ロード・オブ・ザ・リング」2001)の二少年が好演。上出来のミステリーだ。10分間のラストだけ見る。力業だね、ちょっと苦しいが、でも80点。
『新撰小学地理書巻之四』吉川半七他、明治21
2004年8月6日(金)納涼の近づき目録気がのらず
11日から下鴨神社の納涼古本まつりが始まる。世界遺産の森で古書にひたるというのは格別だ。
『城北古書会展』目録届く。石神井さんの頁に『あまカラ』『これくしょん』『銀座百点』『茶の間』『うまいもの』などが揃いで出ている。『銀座百点』は創刊〜577号まで15万円。また、頭突書店(インパクトのある名前!)に塚本邦雄63冊一括18万9千円というのがある。一冊3000円割。頭突書店の出品は面白い。『雑誌
温泉』(昭33)、『神秘流催眠術教授書』(日本帝国神秘社、昭15)、『正座のすすめ』(大日本正座会、昭19)、『ヘリコプターの工学と操縦』(酣燈社、1989)などなど。川越の本屋さんだ。
『本』第10号(特集・小林秀雄)、西村孝次「古い炎―「批評」の頃」に、「はせ川」で雑誌『批評』(1929〜49)の創刊号のために小林秀雄を囲む座談会を開いた思い出が語られている。「はせ川」というのは東銀座七丁目出雲橋ほとりの小料理屋、久保田万太郎の弟子長谷川春草が経営していた関係から文藝春秋の関係者たちのたまり場となっていた。昭和五年暮れに開店し戦後も焼け野原から再開したが、後には画廊になったそうだ(〇二年の『古本共和国』17号に海野喬氏が「ピノチオ・はせ川特集」を執筆しているので参照されたし)。久保田万太郎は「出雲ばしはせ川開業」として「霙 釜めしもみぞるゝものゝひとつかな」「煮凝 煮凝にかなしき債(おひめ)おもふかな」「年忘 やがて入り来る四五人や年忘」「ふきこみし柱の艶や年わすれ」などの句を作っている(『吾が俳諧』春陽堂文庫、一九三三年)。
『本』は11号から中綴16頁の小冊子になってしまう。《理由はかねて計画の出版部の準備の為であります》《雑誌編集は十年の寿命を縮めると申しますが、意気地ないことながら私のよく耐え得るところではありません》と麦書房店主・堀内達夫は弁明陳謝している。その出版においては、立原道造手製詩集復刻版『ゆふすげびとの歌』A版パーチメント装28部、B版123部を皮切りに、四十点弱の書物を一九九一年まで三十年近くに亘って刊行し続けた。『本』連載をまとめた富士川英郎『江戸後期の詩人たち』(一九六六年)は高村光太郎賞他を受賞している。堀内は九二年没。享年六十四。
街の草さんより電話あり。間島保夫さん追悼文集の発起人になったそうだ。
「[書評]のメルマガ」175号を読んでいると塩山さんが織田作が勤めていたのは日刊工業新聞じゃなくて日本工業新聞だと書いておられるので、あわてて七月のデイリー・スムースをチェックすると間違ってました。即訂正。
アクセスさんより阪急ブックファースト渋谷店からフェア用「ミカン ア・ラ・モード」の注文が入ったとの連絡あり。何のフェアなんでしょうね。
『小学作文書 八』金井弥助、明治17
2004年8月5日(木)妻鳩の瞬き近くアイスティー
妻とともにカロさんへ「ミカン ア・ラ・モード
3」を納品に行く。古本市開催中。北園克衛装幀の阿部昭『未成年』(文藝春秋、一九六八年)他、欲しい本がけっこうあった。が、結局は新刊の『本屋さんになる!』(メタローグ、二〇〇四年)を購入する。カロ店主石川あき子さんの開店日記も掲載されている。ざっと掲載店の写真などを眺め、つまみ読みすると、本をオブジェの一種と見なしている店が多いように思えた。妻は「今日のはなを通信」創刊号100円を見つけてゲット。
そこへひょっこりひょうたんからにとべさんが来店。二人して「お、お〜」と声を上げる。先月の海文堂書店sumusフェアーをのぞいてくれ、飲み会にも参加したそうで、賑やかだった様子などを聞く。「ミカン
ア・ラ・モード 3」お買い上げいただく。1〜3揃いで所蔵の奇特な方の仲間入り。ミカンといえば、その海文堂書店フェアーの飲み会で、ミカンには原稿の遅い同人によく吠えるという能力(調教?)があるんじゃないかという話が、山本と扉野から出たということを聞いて苦笑い。誰が激しく吠えられるかは言うまでもないが。
カロさんの窓際のカウンターでブラッディ・オレンジジュースを飲んでいて、ふと、窓の外の電柱に目をやると、土鳩のつがいがタコ足状になった太い電線のすき間に箱のような空間を見つけ、そこで巣作りを始めているではないか。オスがしきりに往きつ戻りつ紐のようなものを探してくわえてきてはメスに渡し、メスはそれを敷き込んで座布団のようにしている。ビルの谷間にベイビー誕生も間近だろうか。これは必見ものです。Calo Bookshop and Cafe
その後、妻と別れて梅田の産経新聞社へ。「絵葉書珍列館」連載の執筆者三人と担当の○氏と打ち合わせ。まずは好評で来春までは続くようだ。産経新聞社は来年七月に難波へ移転するとのこと。
『純正蒙求校本 下』柏原政治郎、明治15
2004年8月4日(水)日盛りをバイクの荷箱に「主婦の友」
立石書店より『新宿駅八十年のあゆみ』(一九六四年)届く。二幸(現在のアルタ)のところに大正十四年〜昭和五年まで三越があったことを知る。もう一点申し込んだ『関口良雄さんを憶う』1,500円には三十人以上もの注文が殺到したそうでトーゼンながらハズレ。
『未来』8月号、向井氏の連載はあの「いこい書房」。セドローくんのネタ袋のような店主だが、じつは一誠堂出身なのだ。特集は「暗黒日記」。まずは旧知の細見和之さんの読書日記を読む。ふーむと唸る。
このところのアジア杯サッカーで中国人観衆の日本チームへのブーイングが話題になっている。あるワイドショーで、ブーイングの理由のなかに「日本が嫌い」の他に「日本が強すぎる」というのがあると報道していた。強けりゃあんなに苦労はしないと思うけど。で、ぜんぜん脈絡はないが、秀吉が朝鮮出兵したときに明朝の人々は秀吉を悪魔のごとく恐れて数々の奇怪な伝説が生まれたという話を思い出した。《関白というのは、身のたけ数丈、腰の太さが百まわりもあるという妖怪でね、その首を斬ったら、重さが数千斤からあり、粉々にうち砕かないことには持ち挙げられなかったそうだ》(『笑府』松枝茂夫訳、岩波文庫)。これぐらいの諧謔があればいいのだが、どちらの国も・・・(いや、国があるからそもそも間違いの元か)。
「女はみんな生きている」(フランス、2001)ビデオ見る。TSUTAYAがレディース・デイだというので妻がまとめ借りしてきたなかの一本。フランスでは大ヒットした作品という。サスペンスを軸にコミカルに男の無能さを描いて辛辣。売春、浮気、母への無関心、無能・・・これは娯楽でまぶしたウーマンリブ(ちょっと古い言葉かもしれないが、世界はまだまだ古いのだ)の映画であろう。テンポはすごくいい。ただ、欲張りすぎたため、あらすじの説明が続くところが難。奮発して80点か。なお、主人公夫妻のアパルトマンにかかっていた書の額「福」が逆さまでした。
『小学修身書 六』原亮三郎、明治14(割印の跡がある)
2004年8月3日(火)蚤あとも古人の手垢もブックマーク
南陀楼綾繁「帝都逍遙蕩尽日録」にアンダーグラウンド・ブックカフェのレポートがアップされた。もう懐かしい出来事になっている。
『本』第九号から栗田勇の「読書無法」というエッセイ。《今後も、私は、手あたりしだい本を買い入れ、眺め、持ち歩き、なかなか読まないだろう。本ばかり、いたずらに部屋を埋めてゆく、住む場所もしだいにせばまり、さりとて、どうしても本を売る気にいまのところなれない。末が心細くなる》、そんなとき中村真一郎と銀座のバーで飲んだ。中村は突如《「いくら頑張ってもあと三十年。それしか本が読めないんだと思うと、残念で、毎日読んでいるんだが、もういくらも読めないなあ」》と言い出した。《瞬間、私の目の前には今後三十年間に読まれるはずの書物の漠大な山がどっとおしよせた。目の前が暗くなった》そうである。この号は一九六四年五月発行。中村が没したのは一九九七年だから三十三年読み続けたことになる。
舟越桂が資生堂のCMに出ていたのでちょっと驚いた。
31日に来た書肆アクセス畠中さんのメールを紹介し忘れていた。《昨日、河上進さんのイベントが千駄木であり参加させていただきました。「カロ」さんの本棚の前で林哲夫さんが本をご覧になっている絵葉書が切符になっていました。とてもいい雰囲気でした》ご報告ありがとうございます。催しは22日までやっているらしいが、絵葉書が早く見たいもんだなあ〜。
謡曲本『雲林院』糸舎市兵衛、正徳2(1712、発行者の印章)
2004年8月2日(月)図書館の本のポケット夏休み
図書館の本、今はたいていすべてコンピュータ管理だが、ちょっと前までは巻末の見返しあたりにポケットが張り付けてあったものだ。そこに借りた日付を記したカードが差し込んであった。誰も借りてないな、などと一目でわかった。そんなことすっかり忘れ去られる日が来るのだろうか。
品川力「織田作之助の手紙(二)」(『本』第五号)より。織田作、軽井沢へ行く。《林の中のバンガロー風の珈琲店でコーヒーをのんでゐると、川端康成が白い帽子に白いワイシヤツ、グリーンのチヨツキ、ゴルフパンツといふ異様ないでたちで現はれました。/異様といへばぼくの服装もかなり異様で、青いワイシヤツの上にジヤージの派手なジヤケツを着て、手拭を首に、黒い帽子、黒いズボン、パナマの草履、色眼鏡、白樺のステツキ、といふ風でとりとめない恰好で、流石の川端氏もギヨロリとした眼でギヨツとしたらしく、ぼくも些かあはてました。/すると前の道を萩原朔太郎がひよろりひよろりあはてた恰好で歩いて行きました》(昭和十四年九月十七日)。川端年譜には昭和十四年九月軽井沢滞在の記事はない。
夕食、雑誌に載っていたラーメン屋へ。まずい。出てきたときに湯気が立っていない(どんぶりの縁が冷たい)。チャーシューも冷蔵庫から出してきたばかりのように冷えている。いくら猛暑だからってこれはないだろう。しかもスープがめちゃ塩辛い。さらにBGMがモダン系のジャズなのだが、ラーメンに合わないし、音量が大きすぎる。紹介雑誌を見せるとサービスしてくれる白飯がまずい、こういうものにかぎって量が多い。待ち時間にアンケートをやらされる(途中で放棄)。「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」の声がでかすぎ。久しぶりに嘔吐しそうになった。
カロさんのニュースより●ナタリー・アラール アーティストトーク/8月5日(木)18:00〜19:30 会費1000円(1ドリンク付)/会場・申込:Calo Bookshop and Cafe/※まだお席に余裕がございます。ご予約時にお名前とお電話番号をお知らせください。
青山BCは洋販(日本洋書販売)が支援して営業再開の目途が立ったらしい。
『牧野信一集』創元選書、昭23
2004年8月1日(日)祭の灯
消えても子らの去りかねて
学区内の夏祭の日。少年補導という係にあたっているので、午後二時に桂川小学校へ集合。焼きそば屋台の準備を十人余りの人数で行う。こういう肉体労働はウンチクの担当。妻は集会担当。妻によれば、最初の会合に出たとき、少年補導の歌(ラジオ体操の歌みたいなもの)を全員で起立して斉唱したそうで、ぶっ飛んだと言っていた(しかも三番まで!)。模擬店の準備は毎年やっている班長さんが取り仕切る。こちらは適当に言われたことだけやる(ベンチを運ぶとか)。350人分ほどの焼きそばを四時間近くかかって焼いて、パックに詰めていく。そのうち忙しくなって分配係を仰せつかる。今日は台風の余波がまだ少し残っており、ときに小雨が降り、曇りがちで涼しかったのが救いだ。
五時に祭が始まる。生徒たち有志による太鼓の演奏、クイズ大会(高校生クイズみたいな○×のやつ)などからスタート。五時半に模擬店が開く。すべてチケット制なので手間はない。PTAもいろいろな店を出している。金魚すくいはもちろん、ストラックアウトとかペットボトルのボーリングとか。古本屋も出してほしかった(文化祭を期待しよう)。それにしても盆踊りのBGMが「炭坑節」と「マイムマイム」(マイムとは、ヘブライ語で水という意味だそう。砂漠の中で水を見つけて大喜びしている様子を歌っているとか)というのは、これまたなんとも変わりばえがしない。「マツケンサンバ」とかないのかい。
花火は校庭をはみ出さない程度のささやかな規模だったが、やはり夏の空にはよく似合う。清涼感がある。となりのおじさんとおばさんが「チョロいなあ」といいながら、淀川の花火は2万発だとか、琵琶湖は1万8千発だとか、余所の花火の話に花を咲かせていた(ここは100発ぐらいだったかな?)。「うちの田舎では花火の翌日は必ず雨になったもんや」とおじさんがつぶやいた。そこで一句「夏草に花火終わりて恵みあり」。午後九時終了。後かたづけ。帰宅は十時。めったにやらない労働で疲れ果てる。
里見勝蔵『赤と緑』昭森社、昭17