

ヨハネス・フェルメール(一六三二〜七五)は謎の多い画家である。というよりも、十九世紀後半に発見されるまで、彼はオランダの地方都市デルフトに生きそして死んだ一介の市井人にすぎなかった。そのような人物についての記録が乏しいとしてもそう不思議でない。乏しいと言っても、ひとたび発見されるや、あらゆる資料が探索され、現在では意外なほどに情報が蓄積されている。そしてまた、彼の作品に対する評価も、控え目にみて、常に第一級の巨匠だったレンブラント(一六〇六〜六九)と肩を並べるまでになっている。この評価の大転回なども大きな謎のひとつであろう。
ただ、生存中はそれなりに知られた画家であったという見方もある。一六六三年、彼の噂を聞いてフランスの宮廷人でコレクターだったド・モンコーニがオランダ旅行の途次フェルメールを訪れているからだ。ところが、このとき画家のアトリエには手持ちの作品がなかった。訪問者は近所のパン屋に案内され、パン屋が所蔵していた「人物一人を描いた作品」を見せられた。このパン屋はどうやら生涯フェルメールに絵と交換でパンを供給していたらしい。だとすれば、想像にすぎないが、ド・モンコーニが見た作品というのは『牛乳を注ぐ女』(一六五八〜六〇? 図■)だったのではないか。この傑作は「パンを毎日食べましょう!」というコピーが似合いそうなパンが主題の絵だからである。パン屋は四八〇ギルダーで譲ると持ちかけたらしい。しかし、ド・モンコーニはそれを法外な額だとみなして拒絶した。このとき買って帰っていれば、今頃はルーブル美術館に陳列されているはずだろうに。どうやら死後の評価の低さは、この記録によって、すでに暗示されているようである。
フェルメール忘却の理由はいくつか考えられるが、まず作品の数が少ないことが挙げられよう。寡作であるということは一般に認知されるという点では明かに不利である。そのせいか、彼はデルフトの聖ルカ組合(美術関係者の組合)の理事にまでなったれっきとした画家であるにもかかわらず、画作によって生計をたてていなかった、ばかりか、かなりな借金を残して死んだことからも想像がつくように、父から受け継いだ画商業に精を出した気配もない。どうも生活の面ではある程度裕福だった妻カタリーナの母親にずっと頼っていたらしい。一六六〇年頃から義母の家に同居していたそうだし、死後の借金というのも彼女に対するものが大部分で、一種の相続税対策だったとも言われる(註1)。
くり返し妻をモデルにしているように見えるところからすると、よほどぞっこんだったのだろうが、プロテスタントであったにもかかわらず、実父の死(一六五二)を見計らったように、カソリックに改宗してまで結婚した(一六五三)のは、フェルメールの性格の一端、こだわりのなさ、を示しているように思われる。『娼婦』(一六五六)という彼の作品の左端に描かれた伊達男、それが新妻を前にしてにやけている自画像だとすれば、享楽的で怠惰な性格を見事に現わしていると言えよう。美しいものを手に入れるためには改宗もいとわない、要するに、職人的な画家がほとんどであった時代において、彼はきわめてエピキュリアンな生涯を貫いた、貫こうとした、無意味の行為者としての「芸術家」だったのではないか、つまり、道楽者だったのではないか、という気がする。だから思う存分絵に時間を投入することができた。必然的に完成作は少なくなる。
しかし、二百年間ほとんど無視され続けた理由はそれだけではない。フェルメールが画面を組み立てることにおいて、まったくと言っていいほど、オリジナリティを持ち合わせていなかった、ように見えることが、かなりマイナスに作用している。フェルメールが何処でどういう絵画修業を行なったかは不明だが、ごく初期においてイタリア風なスタイルを試みた後は、同時代オランダの先輩たちから多くを学び取ったようである。デルフトに滞在していたこともあり、交友があったことは間違いないデ・ホーホ(一六二九〜八四?)やテル・ボルヒ(一六一七〜八一)あるいはヤン・ステーン(一六二五?〜七九)ら、そして他都市のハブリール・メツー(一六二九〜六七)、ヘラルト・ダウ(一六一三〜七五)、ファン・ミーリス(一六三五〜八一)など、中産市民の肖像や日常的な室内画を描いた同時代の画家たちと共通する、ほとんど剽窃と断定したくなるくらい似通った主題を、フェルメールは描き続けた(註2)。その結果、没後に誤ってデ・ホーホらの作と鑑定されてしまった絵も少なくない。今日の眼から見れば、フェルメールと他の画家たちとの差異は歴然としているが、主題の類似にごまかされてか、その質的なへだたりが永く問題にされなかったようだ。
見逃してはならないのはレンブラントからの影響、というよりも借用、である。一六五〇年、レンブラントの弟子であったカレル・ファブリティウス(一六二二〜五四)がデルフトにやって来た。フェルメール十八歳。ファブリティウスは才能ある画家として衆目の認めるところとなるが、四年後に事故死してしまう。レンブラントに関する知識の多くはこの先輩から仕入れたに違いない。美術史家A・K・ウィーロックは前述した『娼婦』にレンブラント作『娼家での放蕩息子に扮したレンブラントとサスキア』(一六三六?)からの影響を指摘している(註3)が、この主題がひとつの流行だったとしても、たしかにこれらの二作の間にはそれ以上の類似がある。しかしもっと単純に、画中の人物のポーズだけを問題にしてみれば、フェルメールの頬杖をつく『眠る娘』(一六五七?)はレンブラントの『エルサレムの破壊を嘆く預言者エレミア』(一六三〇)に、『絵画の寓意』(一六六六〜六七?、図■)の少女は『フローラに扮したサスキア』(一六三四、図■)に、天球儀に手を掛ける『天文学者』(一六六八、図■)は『ホメロスの胸像を眺めるアリストテレス』(一六五三、図■)に、『地理学者』(一六六八〜六九?)は『ファウスト』(銅版画、一六五二?
)にそっくり倣ったように見えるではないか。
さらに、もっと重要なレンブラントとの関係は『士官と笑う娘』(一六五八?、図■)と『エマオのキリスト』(一六二九?、図■)との類似にある。普通『士官と笑う娘』の道具立てはデ・ホーホが一六五〇年代中頃に多く描いた室内風俗画から取られたとされる。女性、兵士、地図、窓、テーブルなどたしかにかなり直接的に借用していることは間違いない。だが、兵士を大きく影絵状に前面に配するという画面構成は『エマオのキリスト』に近似してはいないだろうか。フェルメールの描く士官と娘の大きさに落差があることから、ウィーロックは作者がカメラ・オブスクラ(レンズ付暗箱)を使用したと想定している(註4)。一理ある見解で否定できないけれども、全体の構成はレンブラントのこの作品を下敷きにしていると考えたい。「この若きレイデンの画家は因習にとらわれぬ大胆さによって、すべての先達を凌駕した」(註5)というテュンペルの『エマオのキリスト』についての感想を信じるとするなら、その斬新さにフェルメールが深く感応したとしても不思議ではない。
『エマオのキリスト』と同じ頃、レンブラントは『アトリエの中の自画像』というやはり前面にイーゼルに載せた絵を大きく逆光で描いた作品を制作している。この室内の光線や構図の枠組みも『士官と笑う娘』や『絵画の寓意』との本質的な関連を示唆するものである。フェルメールは生涯にわたって基本的にこの『士官と笑う娘』的な構成、すなわち画面前方に大きな遮蔽物を置き、その影に包まれた物体の向こう側に、絵の中心となる輝かしい人物を立たせるという方法を踏襲し続けた。『絵画の寓意』など最良の例であるが、『デルフトの眺望』(一六六〇?)も上空の低い雲によって翳りのなかに沈められた前景の建物群、その暗色の帯と対照的にきらめく新教会の塔と遠景の甍、風景画への見事な応用となっている。
『エマオのキリスト』でレンブラントが採用している人物などによって光源(一般に蝋燭などの人工光)を隠すという手法は明暗のコントラストを強く描き出すカラヴァッジズムの画家たちに親しいものである。テレビのホームドラマなどでは滑稽なほどカメラ前に人がいないことがよくあるが、絵画においても例えばダ・ヴィンチの壁画『最後の晩餐』(一四九五〜九八)のように食卓のこちら側に誰も人がいない構図は珍しくない。この演出の不自然さに挑戦した画家がカラヴァッジョ(一五七三〜一六〇九)である。彼はレオナルド=ラファエロ的な明暗法をいっそう卑近でリアリスティックな表現へと変容した異端児であったと思うのだが、その『聖マタイの召命』(一六〇〇、図■)では、画面中央に背を見せて座る人物を描き込み、よりリアルな臨場感をもたらすことに成功している。テレビでもワイドショーやニュース番組の取材映像には肩越しの構図が頻繁に現われてくる。ドキュメントというか、観者をしてあたかも現場に立ち会っているかのような錯覚に陥らしめる、いわば、絵画空間と現実空間を均一化しようという企みである。ところが、カラヴァッジョはあまりにリアルに人物や静物を描いたものだから、それが狙いでもあったのだろうが、聖劇や神話的人物が俗っぽくなったり、血腥かったり、かえって嘘くさくなってしまった。彼の描法は宗教画ではなく風俗画に向いており、実際、彼が風俗画や静物画というジャンルを確立したと言うことができよう。
『イタリア絵画史』(筑摩書房)の中でロベルト・ロンギはイタリアにはカラヴァッジョの後継者はいなかったと書いている。だが細密描写の伝統のある北方において彼の描法は受け継がれた。なかでもフェルメールは最も重要な、模倣者ではない追従者ではなかったか。すなわちフェルメールは表面描写を徹底させることを控え、対象物を統一するために細部をかなり曖昧に仕上げた。ピントがわずかにズレた写真のような効果を意識している。対してカラヴァッジョ作品は大型カメラでスタジオ撮影したような被写界深度の深さをもつ。彼の代表作『果物籠』(図■、註6)の艶やかな果実とフェルメールの『開いた窓のそばで手紙を読む若い女』(一六五七?、図■)における果物とを比較してみれば相違は歴然としている。後者の空間の密度は、質感をそれほど重視せず、光すなわち陰影の階調の中に輪郭の鋭さを溶かし込むことによってもたらされている。そしてその曖昧な光輝もやはり暗箱の利用から導き出されたと考えられている。これが事実だとして、この事実を重くみるならば、あるいはそこから導き出された表現が、写真出現以前の鑑賞者たちに評価されなかった原因のひとつだと結論できるかもしれない。
それとともに、フェルメールの同時代人パスカルが「もとのものを人は少しも嘆称して眺めはしないのにそれに似ていることをもって人の称賛をまねこうとする絵画というものの何というむなしさ!」(『パンセ』断章一三四、津田穣訳)と記したように、十七世紀初頭における物質的繁栄を背景とした即物的リアリズムの台頭に対する根強い反感も存在していたことを忘れてはならない。
ベラ・バラージュはクロース・アップ、同一化、モンタージュなどを新しい形式言語としての映画の独自性として数え上げ「同一化に類するプロセスは、これまで、他のいかなる芸術形式のふだんの作用の中にもなかった。そしてまさにその点に、芸術哲学的にみた場合、映画のもっとも大きな特色があるのだ」(『映画の論理』佐々木基一訳、學藝書林)と主張しているが、慧眼なるジャン=リュック・ゴダールはフェルメールを「最初の映画作家」だと看破した(註7)。「同一化」とは先に述べた臨場感に通じるものであって、観客がまさに映画の一場面に参加しているかのような錯覚を起こす、観客の視角と登場人物の視角が重なっているような効果である。バーチャル・リアリティの原形だろうか。絵画ならば、線遠近法による空間把握、あるいは質感と陰影のマジックとでも呼ぶべきトロンプ・ルイユ(だまし絵、例えば絵を覆うカーテンを絵の中に描くといった方法)などになる。
フェルメールの場合、同一化は一種の「のぞき錯覚」として使用されている。『絵画の寓意』はもちろん『恋文』(一六六九〜七〇?)、『手紙を書く婦人と召使い』(一六七〇?)、『音楽のレッスン』(一六六二〜六五?)など、全てのぞき構造になっており、それによって画家は物語性と心理的な刺激を喚起しようとしている。また、一見平凡な都市景観と思える『デルフトの眺望』でさえその視点の高さからするとある建物の上階から眺められた(描かれた?)作品だと推測できるわけだから、そこでは窓という覗き穴が意識されていることになる。ただし、例によって、手法としての同一化はフェルメールの時代には流行のようになっていた。のぞき構図も彼の独創とは言えない。これが一番の謎なのだが、暗箱を覗き遠近法を研究した画家は大勢いたことだろうに、フェルメールのような画面を創造し得た者はない。手法や主題はまったくそっくり借物でありながら、そのアレンジメントの結果を見ると、数百年の後にようやく共感を得るような、群を抜く独自性を獲得している。時代を超越した、または時代から乖離した、感覚の非凡さである。
1 『ブルータス』第一七巻第一五号、一九九六年九月一日、小林頼子「フェルメールの財布の紐」
2 同時代オランダ絵画とフェルメール作品の比較検証は、ジル・アイヨー、アルバート・ブランケルト、ジョン・モンティアス共著、巖谷國士、真崎隆治、小林頼子、鈴木杜幾子、朝比奈弘治共訳『フェルメール画集』(リブロポート、一九九一年)に詳しい。
3 アーサー・K・ウィーロック著、黒江光彦訳『フェルメール』(美術出版社、一九九一年)二五頁。なおフェルメール作品の題名と制作年は本書に従う。
4 ウィーロック前掲書、六四頁。
5 クリスティアン・テュンペル著、高橋達史訳『レンブラント』中央公論社、一九九四年、五三頁。なおレンブラント作品の題名と制作年は本書に従う。
6 制作年不明。一六六〇年頃かそれ以前。カラヴァッジョ作品の題名はジョルジョ・ボンサンティ著、野村幸弘訳『カラヴァッジョ』(東京書籍、一九九五年)に従う。
7 前掲『ブルータス』、ピーター・グリューナウェイ独占インタビューより。
初出 『山崎書店美術書庫リスト』第三二号、一九九七年一一月一〇日
一万円のはずだった「農婦」が六千六百万円になった。二〇〇三年二月に銀座で行われたある競売会(オークション)でのことである。その作者不詳の油絵に付けられた落札予想価格(エスティメイト)は一〜二万円だった。ところが、実はゴッホの初期作品だと間際になって判明した。俄然、競売は白熱し、その結果、予想の何千倍で売れたわけである。古美術の世界ではさほど珍しい話ではないかもしれないが、絵の値打ちというものを改めて考えさせられる出来事であった。
それにしても、いつからこんなにゴッホが珍重されるようになってしまったのだろうか。蕪村をこよなく愛するUさんの事務所でこの話題が出た。
「ここに例の農婦が一万円で転がっていても、ぼくは買いませんけどね」
と水を向けたところ、
「でもゴッホやと分かってたら買うやろ?」
と返されて、「買わない」とは言えなかった。
一万円のゴッホはウルトラ掘り出しものだ、間違いない。しかし無名となると一万円か二万円にしかならない、同じ絵なのに。
例えば、天声人語(二〇〇三年二月一一日)は「農婦」が旧蔵者中川一政の手に入った経路は分からないとし、画家が《作品の魅力を鋭く見抜いていたのではないかと想像するばかりだ》と書いている。ゴッホ美術館の鑑定による見解は《オリジナルの特徴はほとんど失われており、ゴッホ特有の筆致は、部分的にのみ認知できる状態》(朝日新聞、二〇〇三年二月八日号)なのだから、その意味では、たしかに中川一政は鋭く見抜いたと言えるだろう。しかし、新聞紙上やテレビで見るかぎり、不細工な絵である。値踏みをしたオークション会社の担当者にいささかの同情を禁じ得ない。
後期印象派が本格的に評価され始めたのは二十世紀に入ってすぐのことである。パリでは、一九〇四年にルノワール、セザンヌ、ロートレックの特別展示(サロン・ドートンヌ)、一九〇五年にスーラとゴッホの回顧展示(アンデパンダン展)、一九〇六年にゴーガン、一九〇七年にセザンヌの回顧展(ともにサロン・ドートンヌ)が開かれている。これら一連の回顧展によってようやく後期印象派の輪郭が一般にも明瞭になり、さらにピカソを筆頭とする新しい画家たちは彼らの仕事を踏み台として二十世紀美術の新局面を切り開いて行った、そういうことになる。日本の暦で言えば、明治三十年代後半にあたる。
日本でも、いち早く後期印象派に夢中となったのはやはり若者たちだった。中川一政はこう書いている。《ゴッホを日本へ最初に紹介したのは武者さんである。「白樺」で私もゴッホを知った》(「ゴッホの画」、『うちには猛犬がいる』中公文庫、一九八八年)。武者さんとは言うまでもなく武者小路実篤のことで、彼は明治四十三年(一九一〇)に創刊された雑誌『白樺』誌上において、セザンヌ、ロダン、ゴッホなどを次々と紹介していった。武者小路と親しかった岸田劉生がゴッホばりに描き始めるのもまさに一九一一〜一二年頃なのだ。
例えば、大正四年(一九一五)一月に出版された板垣邦器著『美術之新運動』(読書会、赤門叢書)には、ゴッホについて、《余りに自己に心を奪はれた結果、其の絵く画は只彼にのみわかるものであつて、次第に自然の表現から遠ざかつて来て、配景法もなく、其の作品は在来の絵を見て来た目には、支離滅裂なものである。全く妙な絵になつてしまつた》と否定的な解説が加えられている。板垣はゴッホが浮世絵から影響を受けたことを、身びいきからか、特筆しているが、持ち上げるにせよ、おとしめるにせよ、いずれにしても、武者小路も劉生も板垣も、当時はまだ実物を見ていなかったはずである。
ちょっと話が逸れるが、先頃、知人の中尾務さんより「キュビスム」について質問をいただいた。ふつう「立体派」と訳され、ピカソが一九〇七年に発表した「アヴィニヨンの娘たち」を嚆矢として、翌年、ブラックの絵に対して批評家がキューブ(立方体)という言葉を用いたことから、彼らの作風はキュビスムと分類されるようになった。一九〇七年のセザンヌ回顧展の影響がピカソやブラックの絵に現れたであろうことは容易に想像がつく。セザンヌの用いた形態を極端にした、立方体が連なったような画面である。しかし、これを「立体派」と訳するのは間違いではないだろうか。「立方体派」でなければならないのではないか? そういう意見をどこかで読んだ記憶がある。たしかにその通りだ。そんな返事を差し上げた。
そう思って、さきの『美術之新運動』をペラペラやっていると、「立方派」という章立てがしてあるのに気づいた。下世話な口調でこう書いてある。《キウビズムなる語は、日本では三角派とも、立方派とも、乃至賽の目派ともいつてゐる人はあるが、要するに三角形式のものが積み重なつて、絵のやうな形なり、彫刻なりが出来上つてゐるものと見れば、それで充分である……》。「キウビズム」の語から察すれば、英文の参考書があったのであろう。それにしても知らなかった、「賽の目派」とはケッサクだ。「立体派」よりもよほど忠実な翻訳である。いったい何時誰が「立体派」などと使い出したのか、どなたかお教え願いたい。
だいたい「ゴッホ」ていうのは何語だ? フランス語なら「ヴァン・ゴーグ」だし、オランダ語なら「ファン・ホッホ」だろうし、英語でも「ヴァン・ゴー」だろう(ちなみに「ダ・ヴィンチ」と言って「ヴィンチ」とはわれわれは言わない、これも不思議だ)。カタカナ表記の限界は認めるものの「ゴッホ」はないだろう。これも武者さんの発明か。とすれば、結局は日本語だ。
ともかくも、白樺派のバカラシいくらいの熱情によってゴッホは天才として認められた。棟方志功は「ゴッホになる」つもりで津軽から上京し、小林秀雄はゴッホの実物を知らずにゴッホの書簡集を読み、《絵にあらわれた天才の刻印が、手紙にも明らかに現れている》(「ゴッホ」、『人生について』中公文庫、一九七八年)と感じて、『ゴッホの手紙』(新潮社、一九五二年)を著した。小林は、その翌年、オランダでゴッホの大回顧展を見たが、ゴッホについて書くきっかけとなった麦畑の絵は、実際に見てみると色彩が生々しすぎた。《奇怪な事だが、その為に、絵としては複製の方がよいと、私は見てすぐ感じたのである。それほど、この色の生ま生ましさは、堪え難いものであった》(「ゴッホ」)。かえって本物の方がニセモノみたいに安ピカに見えたらしい。小林が複製のみによって《絵にあらわれた天才の刻印》を感じ取っていたとすれば、その天才は、言うまでもなく複製された天才なのである。実物の天才とは別物だ。要するに、天才なんてのはそう思う本人の勝手だね、という気がする。
中川一政は先の文章に、ゴッホの初期作品をパリの美術館で見て感心した、印象派に接してからの絵は好きになれない、印象派を知らないゴッホの成長を想像したい、と書いている。そういう下地があったからこそ、見る影もなく塗りつぶされた「農婦」にゴッホの片鱗を嗅ぎ取ることができたのであろう。
またちょっと話が逸れるが、中川がゴッホについて書いている文章を探していて、次のような、なんともいやな記述を見つけてしまった。昭和十六、七年頃、中川は伊豆半島あたりを写生して廻っていたらしい。
私は戦争がはじまつたのはよい時機にはじまつたと思つている。
倹約せねばならぬといふのも賛成である。
ダンスホールの制裁も賛成である。
銀座通りを歩いてゐるモダンボーイには、将来の国家は背負へないと思ふのである。
銃後の護といふが国民が一つの目的のために緊張し、家族が一つの希望のために戦ふ決心はいつも持つてもらひたい。(「安良里日記」『一月桜』錦城出版社、一九四二年)
それでもって、絵具箱を担い歩く画家の姿は《これも一個の兵士に似てゐる》と続ける。中川ファンには申し訳ないけれども、まったく困りものである。こういう絵描きにはなりたくない。
今、思いついたのだが、競売カタログの一〜二万円というエスティメイト、ひょっとしてヤラセでは? 最初から「ゴッホ作、全面に後年の加筆あり、×百万円」などとまっとうに記載していたら、あれほどマスコミは騒がなかったに違いない、……考え過ぎか。
それにしても、やはり、
「ゴッホだと分かっていても、あんな絵はほしくない」
きっぱりそう言い切ってみたかった。
初出『kucing』第一八号、二〇〇三年三月一日
洲之内徹をよく知る、ある女性が、かつて同人雑誌に発表した「帰らざる風景」を読んで、その感想をこう洩らした。
「林さん、占い師みたいだわネ……」
一瞬、どういう意味なのか解しかねた。さらにいろいろと話してみるうちに、どうやら、洲之内本人を知りもしないくせに、けっこうズバリと当たってるじゃない、そういうようなことらしい。
これは無論、ほめられたと取るべきなのだろうが、どうも素直に喜べないような気がする。
例えば、洲之内の人となりを知り、著作を隈なく吟味し、生地や関連する土地を踏査し、さらに血縁者や交友関係者らに詳しく話を聞いて廻る、こういう地道な土台の上に組み立てられた構築物こそ、洲之内徹論のあるべき姿であろう。そんな努力をひとかけらもせずに、一部の著作や他人の書き物をあれこれあげつらったような記事をでっち上げただけで、もしわずかでも洲之内徹の本質に触れられたとするならば、それはもう天空の星を見て地震の発生を的中させるような仕業にちがいない。一つや二つまぐれ当たりがあるにせよ、ないにせよ、占い師と呼ばれて当然であろう。
洲之内についてのみならず、本書に収めた大方の文章はそういった類の作物である。研究とか学問という場所からはほど遠いもので、「美術論」なる一語を副題に加えたのも、考えてみれば烏滸がましい。「論」とは「論争」を意味する。本書の意図は論争にはない。できれば、別の言葉を使いたかったが、適当なものも浮かばず、厚顔を決め込むこととした。門外漢ゆえ、常識の欠如や文献の誤読、時代錯誤的な誤りもないとは言えない。いや、きっとあるだろう。この点については読者諸賢のご叱正を戴ければと切に願うものである。
ただし、基本的に、本書は「占い」に類するものなのだから、当たるも八卦、当たらぬも八卦、根拠希薄な論理の飛躍をごく気軽に楽しんで頂ければ、それだけで著者としては十二分に満足である。
山崎書店の山崎純夫氏をはじめとする初出媒体の関係諸氏、単行本として纏めるという無謀を敢えて受け入れてくれた柳原一徳氏に深謝したい。
なお、本書のタイトルが旧漢字となっているのは、その文字を明治期の出版物から複写して使用しているためである。また、厚紙の書套は松本八郎氏の考案になる。付記して謝意に換える。
俳句をよくした古書店主、関口良雄に、読書人の性癖を巧くとらえた吟がある。願わくば本書もそのような一冊とならんことを。
書を曝すあるところより読みふけり 銀杏子
二〇〇五年二月 著者

本を作る。これがなかなか難しい。
子供のころからマンガを描くのが好きだった。藁半紙などに人気漫画のキャラクターを真似して描いて、折り畳んでホッチキスで綴じる、そんな本とも呼べない本を作っていた。中学生のときにはバレーボール部に属していたが、部活の出来事などをB5の紙に鉛筆と水彩を使って描いた似顔絵入りのマンガ新聞のようなものを発行していた。しかし、この頃から、マンガを描くという才能に疑問を持ち始め、というのは、マンガの命はけっきょくアイデアなのではないか、そしてこれといった独創的なアイデアを思いつきそうにもない、ということを自覚し始めた次第なのだが、徐々に純粋絵画の方向へと進路を変更しようという気持ちになっていたのだった。
むろん、絵画というものがどういうものか、まったく知らなかったと言っていいし、知っていれば、そんな路に踏み迷うことはなかったろうが、その頃たしか、日本国内をドサ廻りをしていたパウル・クレー展を高松市の文化会館で観覧した記憶があって、どうやら、かなり潜在的に強い影響を受けたのではないかと思われる節が、今振り返ってみると、あるようなのだ。といっても、クレーのようにではなく、単純に美術大学の受験に受かるような絵画の訓練を高校時代に積んだわけで、そういうことに耐えられるということは、その程度の才能だったのだなとまったく一切の謙遜なくして思うのだが、大学を出て、ヨーロッパをふらふらしたあげくに京都に住み着いたころになって、ようやく、十年ほども忘れていた本造りに興味が戻ってきたのであった。
そのきっかけは京都百万遍の古本まつりで和綴本の作り方を教えてもらった、というか、そういう講座が開かれていて、見よう見まねで、みずからも試みただけのことだが、これは「綴じる」という本の概念の根本について画期的なアイデアを与えてくれた。
本を綴じる(ブック・バインディング)というのは、書物の歴史からすれば、巻物(スクロール)の足許にも及ばない幼いものだろう。しかし、情報伝達量に関しては綴じ本の圧倒的な勝利に違いない(むろんこれまでのところである。モニター画面のスクロールが逆襲する)。本を綴じるということは一頁単位のユニットを集合させるということである。ある意味でディジタルな思考が働いた結果だろうが、ペジネイション(頁付)や丁付(和本袋綴じの場合二頁が一丁)、そしてそれらを管理するノンブル(頁数)の存在が綴じ本の本質である。
ところが、どうやって本を綴じるかというのはけっこう厄介な問題なのだ。巻物は巻くだけ。これほどシンプルな書物の形はない。紙をつなぎ合わせて、要するに長〜い一枚の紙にして巻く、そして紐で括る、それだけのことである。だが、これを綴じるとなるとかなり複雑な工程が必要になる。さまざまな試行錯誤が行われてきたが、最近では、糊付けがごく一般的になってしまった。それまでは糸かがり、または針金綴じが主流であって、糊付けは表紙・見返しなどに限られていたのだが、接着剤の高性能化もあって今では糊だけで済ましてしまう。
和綴じ(と言ってもルーツは中国だろうが)というのはじつに合理的なシステムであって、手作り本にはもってこいだ。ただし昔はこの製本が大量生産の手段だっただけあって、かなりソフィスティケートされた技術でもある。無駄がなく丈夫、再製が容易。本文紙の他に、針と糸、こより、目打ち、カッターがあればオーケー。表紙用の厚手の紙があればなお良い。作り方は省略するけれども、この技術で自分の画集を作ろうと思い立った。
作品の写真を部数だけ焼き増しし、和綴じの本文に貼り込んでいく。解説はワープロで打ち出してコピーをし別丁とする。タイトル文字は木版刷り。目標三十部だったが、十部程度作ったところで挫折した。まあ、十部くらいしか配るところもなかったが。
さらに、神戸に引っ越してから、同じ和綴じでエッセイ集を作った。タイトルは『審判』。本文はワープロ・コピー、袋とじ(A4片面コピーを二つ折りにして綴じる)である。これも二、三十冊作ったろう。ほぼ同時に、綴じはステープラー、本文ワープロ・コピーの雑誌を何種類か発行し始めた。武蔵野武術大学将棋同好会の会報からスタートして、結局、林の個人雑誌になった『AM』などである。
そして風来舎の伊原さんと出会った。林と同い年の伊原さんは、学生時代から東京の出版社でアルバイトをしていたそうだが、卒業して神戸新聞の出版部門に勤め、その頃には独立していた。今はなき礼文堂という三宮の古本屋で店番をしながら、メシのタネに某出版社の校正をやっていた。古本屋なのでちょくちょく通っているうちに伊原さんから本の装幀を頼まれた。佐本進『天の劇場から』(風来舎、一九九一年)である。伊原さん自身とてもセンスのいい装幀をするのだが、たまには目先を変えたかったのかもしれない。記念すべき林哲夫装幀本第一号になった。その後も何冊か装幀をさせてもらい、さらにアブク銭が入ったことを機に自費出版として『林哲夫作品集
LES IMAGES ET LES MOTS』(風来舎、一九九一年)を作ってもらった。これは伊原さんと共同で編集・装幀したわけだが、実際の本を作る工程をひとつひとう勉強するとてもいい機会になった。地券表紙(セミハード・カバー)布装で、函も作ったし、箔押しもやった。作品撮影も大半はプロに頼み、図版の刷り出しにも立ち会った。布貼の帙に入った特装本も誂え、小さなエッチングも付けた。当時としてはやりたい放題やったという感じだった。
この本はけっこう好評で、三百と部数も少なかったけれど、五千円という値段にもかかわらず、短時日におおよそ売れてしまった。先日もどこかの古本屋で手に入れたという見知らぬ人からeメールが届き、こう書いてあった。《先般、貴兄の「作品集」入手。お気に入りの1冊になり、拙宅の、植草甚一、野呂邦暢の著作の隣りのお気に入りコーナーに配架しました》。素直にうれしいものだ。
その後、『BRACKET』『ARE』そして『sumus』という一連の同人雑誌に関わり、自ら編集した。何を隠そう、この『kucing』もまた『BRACKET』以来の塩見女史との交流から形になった媒体である。また青弓社と編集工房ノアから刊行された三冊の著書はほとんどすべてそれらの雑誌に発表したエッセイが母胎になっている。ただし、それらはいずれも古書を中心にした内容であって、『喫茶店の時代』も言ってみれば古書の中の喫茶店コレクションなのだから、自らの職業を「画家」と名乗っている手前、虚勢は張ってみるものの、どうしても門外漢のおぼつかなさを抱え込んでいたように思う。
しかしまた一方で、美術や絵について得々と語る、著述するということについて、専門の分野であるゆえの、ためらいのようなものがあったのも事実だ。ためらいながらも、それでも結局は、頼まれたら書いてしまうサガのようなものから、けっこうあちらこちらに書き散らしてきた。そうやっているうちに、だんだん本作りの道楽心が頭をもたげてくる、美術エッセイだけをまとめて一冊にしたい、などとわがままをささやき出す。
しかし「作品集」のときよりも、ある意味、経済的には逼迫していた。一時は家計を支えていた妻の仕事もぱったりなくなった。カルチャーの講師も父の死後、郷里との往復が頻繁になることを理由に辞めてしまった。自費で、というのは不可能だった。といって誰が美術エッセイなど本にしてくれようか。
そんなときに、みずのわ出版という、ちょっとヤケクソのような出版社が存在することを思い出した。元々は装幀を頼まれたことから付き合いが始まって十数年になるのだが、売れない「いい本」をつくるのが得意な男なのである、ワンマン社長の柳原氏は(一人で経営してるからワンマンです)。それなら林が売れそうな本を書いて助けてやろう、というのならまだしも、翔んで火入る夏の虫を火だるまにして灰にしてしまうかもしれないというくらいなものを持ちかけたわけで、何故か売れないことに関して異常に嗅覚の発達した柳原氏は「出しましょ!」と二つ返事で引き受けてくれたのだった。思わず、心の中で手を合わせた。「ありがたや、ありがたや」そして「ご愁傷さま」と……。
また、これが伊原さん同様に凝る男だった。こっちも嫌いじゃない。判型も変形だし(といっても詩集にはよくあるタテがA5、ヨコが四六)、不思議な板紙のカバーを掛けてある。これは松本八郎氏のアイデアをパクッた。本体を角背のハードカバーにするかフランス装にするか少々迷ったが、厚紙のカバーとのバランスから上製本とした。奥付が見物である。完ペキに旧漢字使用、版元の住所まで旧表記(!)。まるで戦前の本のようである。これは甲鳥書林の堀辰雄をパクッた。そして甲鳥書林に負けないように、今ではどこにも見かけなくなった検印紙(明治初期から昭和三十年代まで用いられていた)を貼り込むことにした。さらに栞にも工夫を加えた(お楽しみに)。やっぱり今回も、「作品集」よりもややストイックではあるが(これは三十代と四十代最後の違いかもしれない)、二人して好き放題やった感じである。
さて、この拙著新刊『帰らざる風景 林哲夫美術論集』は、この原稿を書いているまさに今日二月二十四日に、製本所から出来上がってくる予定になっていた。しかし、なんと、製本途中で本文に不可思議な印刷ミスのあることが発覚し、あえなく刷り直しとなってしまった。ああ、無情。ほんとうに無事仕上がってくるのかどうか、乞うご期待というところで、ご予約受付中です。本体三千円也。
■読者の皆様よりのお便り
●林さんの本を拝読して痛感している事があります。林さんは、辛口だしイヤミもおっしゃるのに、文章全体になんとなく品位が漂っているのです・・・・博学や教養などでは説明がつかないので、とても不思議な感じです。Let
me know~[塩見真知子]