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鏑木清方――ハートの美人絵葉書から
浅井 忠――大津絵と水彩風景をみる
藤島武二――『三光』の見事な出来栄
中沢弘光――花、名所、美人、歌劇……
梶田半古――明治の改良服を描く
佐藤生巣――アール・ヌーヴォーの女神たち
三宅克己――水彩画絵葉書の流行
上村松園――ピンクのロマンチシズム
一条成美――石版時代の画家、デザイナー
富岡永洗――江戸の雨と傘の画家
大下藤次郎――水彩の水辺と山
本多穆堂――キルヒナーと花の使者
和田英作――デザイン画家として
橋本邦助――おぼろげな明治都市の像へ
竹久夢二――絵葉書ブームを支えた男
荻原一羊――自ら絵葉書を作りはじめた画家
山本松谷――『風俗画報』と十二ヵ月
橋本雅邦――「画寶寸美」、最晩年の日本美
橋口五葉――絵葉書グラフィック
渡辺与平――夢二と並び称せられた挿絵画家
杉浦非水――松山が生んだ小芸術
平福百穂――描かれた農民たち、故郷の風景
斎藤松洲――俳画から和様デザインへ
榊原蕉園――乙女の夢とあこがれを描く
生田 誠 ikuta makoto
昭和32年、京都市生まれ。市立堀川高校卒業、東京大学文学部美術史学専修課程修了。サンケイスポーツ新聞記者を経て、産経新聞記者に。現在は、東京本社文化部勤務。日本の美術絵葉書の収集、研究を行い、平成13年に山田俊幸、野島寿三郎両氏と日本絵葉書会を設立する。著書に『落語家になるには』(ぺりかん社、1996年)。
山田俊幸 yamada toshiyuki
昭和22年、新潟県柏崎に生まれる。国学院大学卒業。現在、帝塚山学院大学文学部教授。日本絵葉書会会長。大正イマジュリィ学会常任委員。『一寸』同人。論文などに「装幀本の1910〜1911」(『帝塚山学院大学研究論集』第32号、1997年)、「装幀本の1912〜1914」(『帝塚山学院大学研究論集』第33号、1998年)、「橋口五葉とブック・デザイン」(『アート・トップ』1995年5月号)、「日本の文庫本」(『本の都』2001年8月号)、「戦後日本の文庫本」(『本の都』2001年12月号)、「絵葉書珍列館」(小川知子、林哲夫との共同執筆、『産経新聞』2004〜2005年)、「一葉の誘惑」『産経新聞』(2005年〜)、「幻のデザイナー・小林かいち」(『一寸』21号〜)。
08 加能作次郎
三冊の遺著 その出版社・その出版人 松本八郎著 2005年9月10日発行 64ページ
新刊 好評発売中
・加能作次郎との出逢い
・『乳の匂ひ』を出版した牧野書店の牧野武夫
・『世の中へ』を出版した桜井書店の桜井均
・『小品随筆 このわた集』を出版した大理書房の田中末吉
・複刻「文士、加能作次郎君」(『大正新立志傳』より)
松本八郎 matsumoto hachiro
1942年大阪市生まれ。武蔵野美術大学卒業後、誠文堂新光社、大日本印刷CDCなどに勤務。1971年エディトリアルデザイン研究所を設立(1982年に法人化)。1983年に出版部門を開設し、これを2000年に[有]EDI(イー・ディー・アイ)として法人化、「EDI叢書」「EDIアルヒーフ」などのシリーズや単行本を発行している。
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三上(馬上・枕上・厠上)ということを北宋の文人であった欧陽脩は言った。文章を練ったり、読書をするのに適している場所を挙げているのだが、今ならさしずめ、三中(車の中・ベッドの中・トイレの中)というところであろうか。ベッドとトイレはともかく、電車の中でさまざまな人間が思い思いの恰好で読書をしている図というのは、観察すればするほど興味が尽きない形態と生態を示している。そのせいか、古来「読む人」をモチーフにした絵画や写真なども決して少なくないと言えるだろう。
また、絵画の歴史というのは人間を描くことそのものだ。人間が描けなくて、どうして絵描きだと言えようか。手軽に人間を描く方法、それは街頭スケッチである。読む人は読んでいる(あたりまえ)。だから、動かない、あるいは最小限の動きしかしない。しかも本に集中しているから、こちらがスケッチしていても気がつかない。よって、気兼ねなく(でも多少は気兼ねしつつ)その姿を観察し、鉛筆を走らせることができる。
だが、実は、本書を作ろうと思い立ったきっかけは、そういう人間に対する興味ばかりではなかった。 読む人を描くといっても、いくらなんでもスケッチブックを拡げてというのはマズイのである。例えば、川本三郎『雑踏の社会学』(ちくま文庫、一九八七年)を読んでいると、吉祥寺の名曲喫茶〈こんつぇると〉における禁止事項について語っているくだりに、《おまけになぜか「他人のスケッチをする方お断り」という注意書きまである》という一文があることを思い出す。川本氏はご存じだったのかどうか、実は吉祥寺には武蔵野美術大学があったのだ。画学生というのは喫茶店で他人の顔をスケッチしたりしたがるものである。人によってはそれを不愉快に感じることもあろう。だからそういう張り紙がしてあったに違いない。
また、学生時代に、国府津の辺りへ写生に出かけたときの思い出もある。砂浜に座って網を繕うおばさんがいた。横に小舟がある。ちょうどいい構図だったので、少し離れた後方から水彩でスケッチをしていた。すると、おばさんはこちらに気づき、すたすたと近づいて来て、休日でもないのに何でこんなところで絵なんか描いてる、しかも自分を描くなどもってのほかじゃ、消せい! とけっこうな剣幕なのである。あわてておばさんの姿を水刷毛でこすり取り、這々の体でその場を去った。世の中には、美術だのゲージュツだのと言ってもまったく通らない人々がいるのだということを、遅まきながら認識した、貴重な経験だった。もちろん、帰宅してから、おばさんの姿を復元したことは言うまでもないが。
これがトラウマのようになり、おおっぴらに街頭で人物をスケッチするのには抵抗を感じるようになってしまった。それでも、こそこそっと小さな紙片に人物を描き付ける習慣は失わないでいた。そういう気分に任せた即興スケッチというのはとても楽しい行為だからである。(あとがきより)
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バロン滋野のフランス空軍における活躍はもとより、藤田嗣治、山本鼎ら数々の滞仏画家たちの動勢を知る上で、まったく新しい資料の登場。
滋野清武 Shigeno Kiyotake
1882(明15)年、陸軍中将男爵滋野清彦の長男に生まれる。学習院中等科中退、広島陸軍地方幼年学校、東京音楽学校予科に学ぶ。1910(明43)年、音楽修行や飛行機への関心から単身渡仏。1912(明45)年、万国飛行免状第744号を取得し帰国。1913(大2)年、『通俗
飛行機の話』(日東堂書房)を上梓。1914(大3)年、再渡仏。第一次世界大戦の勃発に遭い仏軍飛行隊に従軍を志願する。翌年、陸軍歩兵大尉に任命され活躍。戦功によりレジオン・ドヌール勲章を受ける。1920(大9)年、ジャーヌ夫人を伴い帰国。1921(大10)年、「航空路開拓計画案」を陸軍省航空局に提出するも実現せず。1924(大13)年死去。42歳。
宇和川通喩 Uwagawa Michisato
1877(明10)年、函館市に生まれる。松本楓湖に師事し日本画を学ぶ。1903(明36)年、東京美術学校西洋画科を卒業。中学の美術教師となる。1909(明42)年、第三回文展に初入選。1914(大3)年、日本郵船鹿島丸で渡仏。1917(大6)年、戦火を避けニューヨークに一時滞在し、帰国。滞欧作個展を大阪三越で開催。1922(大11)年頃、再び渡仏。約三年間をパリに在した。1927(昭2)年、大阪市美術協会幹事。兵庫県武庫郡に在住。1942(昭17)年没。
築添正生 Tsukizoe Masami
金工家。1944年、茨城県生まれ。京都市立日吉ケ丘高校卒業。東京クラフト・デザイン研究所金工科修了。滋賀県大津市に在住。『虚無思想研究』に「祖父
奥村博史」を連載。宇和川通喩は画家、金工家であった祖父奥村博史の義兄にあたる。
「ヒコーキ野郎のフランス便り」、歯医者の待ち時間中に、ほぼ通読。おもしろいものですね。P50上段の〈二冊〉とも、新潮社からでた「情話新集」かな。第九巻田村俊子「お七吉三」T5・6・18、第十巻近松秋江「葛城太夫」T5・7・15(以下略)【大阪市、NT氏】
今回も封筒から出すと同時に「ウワッーおもしろそう!」という気持ちになりました。次回も楽しみにしております。【足利市、OK氏】
「バロン滋野」の藤田の書簡、始めて知るもので驚きました。【中野区、SS氏】
ヒコーキ野郎、表紙・内容共にフランスのesprit漂う好企画です。【福島市、KT氏】
どれもきわめて大切な作業と思いました。レイアウトも参考にします。【大阪市、NR氏】
好ましい内容が破格の値段で読めることに驚嘆するばかりです。【安城市、SK氏】
05 一読書人の日記1935-84 林哲夫編 2004年2月29日発行 64ページ
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本書は作者不詳の六冊の日記をもとに編まれている。日記といっても、A本の巻頭に明記されているように「読書日録」と呼ぶのが妥当であって、特に戦前、ABC本のほとんどのページは読後感と感銘を受けたあるいは共感を覚えた文章の抜粋によって埋められている。日常雑記は戦後のD本にやや多く見られるが、晩年のF本となると、購入した書籍名の羅列に終始する。その意味からすれば、本書はこれら「読書日録」の全体像を示唆するのではなく、限られた記述から記者の生活と書物蒐集にたいする情熱を摘出することによって、彼の体験した半世紀にわたる読書界・古書界の変遷をたどろうとするものである。
むろん実在の人物の日記であるが、それが誰なのかを特定することはできない。一九九五年一月十七日、阪神淡路大震災によって、神戸周辺ならず、関西圏の相当数の書物が破壊され、その多数が破棄された。同じように数多くの歴史的な資料が庶民レベルで失われたのである。編者自身も当時、神戸市長田区に居住しており、震災の直撃をうけた。所有していた大半の書籍や、雨と泥によって汚損した書類などを処分せざるを得なかった苦い経験を持っている。震災後しばらくの間、被災世帯から運び出された多様な、そして膨大な品々が街頭のいたるところに放置されていた光景を今もまざまざと思い出す。そんな廃棄物の山のなかから、これらの日記帳は偶然によって拾い出され、ある意味で必然的に編者の手許へと届いたのである。
04 八木福次郎さん聞き書き「私の見てきた古本界70年」南陀楼綾繁編 2004年2月29日発行 64ページ
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『日本古書通信』の八木福次郎さんといえば、戦前から現在までの古書界をよくご存じの、いわば「生き字引」的な存在だ。八木さんは昨年(二〇〇三年)、八十八歳となられたが、現在でも毎日神保町の編集部に出勤し、毎号の記事を書かれている。おそらく、最長老の「生涯現役」編集者だろう。米寿を記念して、これまでの著書から選んだ『書国彷徨』も出版された。
一昨年の秋、『東京人』の取材でお会いして以来、ぼくは八木さんの話してくれる古書店や愛書家のエピソードと、その語り口に魅せられた。すでに著書にお書きになっているエピソードも聞いたが、直接対面しての語りには、文章とはまた違う、ざっくばらんで生き生きとした調子があった。その語りを聞き書きしてみたい、と思った。
どうせ、お話を聞くのであれば、聞き手が一人だけなのは勿体ない。そこで若手の古本屋さん三人(といっても、それぞれキャリアのある人たちだが)に同席してもらった。若い人たちを目の前にしてか、八木さんの青春時代の回想(棒高跳びをやっていたことなど)が聞けたのは収穫だった。
インタビューは昨年十月のある日におこなわれたが、あまりに興味深いお話にあっという間に五時間が経ってしまった。しかし、八木さんはまったく疲れた様子もみせず、その後、行きつけの喫茶店「さぼうる」に場所を移してからも、二時間ノンストップで語り続けた。(最後には、聞き手の四人が先にダウンしてしまったコトを告白しておく)
そのときの場の愉しい雰囲気が、本書によって少しでも伝わればいいと思う。(南陀楼綾繁)
注記 p34 で火金会でいまでも存命な人として大田臨一郎さんのお名前がありますが、2004年1月21日に亡くなっていました。101歳。著者校正のときに、八木さんはこの部分、ノーチェックでした。まだニュースが届いてなかったのか、それとも話した時点のこととしてあえてそのままにされたのか、判りませんが。(南陀楼綾繁)
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「それだけはかんべんしてくれ!」
友人の山本善行から、すむーす文庫のなかに、ぼくがむかしつくった手書きの詩集を入れると言われたとき、まっさきに口から出た言葉だった。冗談じゃないよ、と思った。
たしかにぼくは過去に、「風来坊」という総タイトルで、手書きをコピー刷りした詩集を作っている。それは間違いない。逃げも隠れもしない。たしか限定十部。身近な友人数人に手渡して、それっきり。以後、自分の所持分はどこかへまぎれてしまったし、懐かしんで読む、という寒い趣味もなかった。深く記憶の底に封印したつもりだった。
山本は悪い男で、二人のバランス関係でぼくが優位に立つことがあると、「おれは岡崎の手書き詩集を持ってるぞ」と脅しをかけるのだった。言われるとぼくも降参して黙り込んでしまう。詩を書いていたということが、これほど恥ずかしいこととは思ってもみなかった。いや、立派な作品なら堂々としていればいい。書いたものに関してまるっきり自信がなかったのだ。
それならなぜ出した、と詰問されると、若気のいたりというしかない。山本に渡したのはつくづくまずかった。弱味を握られてしまったという感じである。しかし今回、その過去の悪事を山本は強硬に晒すと言い張る。
これには参ってしまった。なおも躊躇するぼくに、彼はこう言い放った。
「そういうけど、そしたら岡崎、いま同じものは書けへんやろ?」(岡崎武志「あのころのぼくは若すぎて」より)
02 借家と古本 荻原魚雷 2003年10月1日発行 64ページ
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一九九八年の秋、近所に住んでいる友人の河田拓也クン(自称・拳銃社長)のホームページに間借りする形で、「文壇高円寺」を書きはじめた。しめきりもなく、テーマも字数自由。いちおう「青春の総括」をするつもりだった。しかし、気がついたらこんなものを書いていた。
その後、高円寺の行きつけの飲み屋の常連だった岡崎武志さんから同人誌『sumus』にさそわれた。
最初に書いたのは尾崎一雄。実は「文壇高円寺」の最終回も尾崎一雄だった。ようするに場所をかえておなじことを続けていたわけである。
個人的な文章を書くと「そんなものは日記で書け」という人がいる。
しかし、日記で書けばいいようなものを人前にさらしたおかげで、ごく少数だけど、自分と似たような琴線をもっているとおもえる人からの反応があった。たまに会って酒を飲みながら本の話ができるなかまも増えた。
今回この冊子には収録しなかったが、「文壇高円寺」をさかのぼること三年前、『ロケット』(一九九五年九月発行)という一号でつぶれた雑誌を仲間とつくった。その中で私はこんなことを書いている。
「口ではかっこいいことを言いつつ、情けないこともたくさんやってきた。そういうことをサラっと書けるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。自己嫌悪は果てしなく、だから途中でやめてしまう」(新しい頽廃の創造――革命、今何処?)
はたして私はこの八年ですこしは成長したのだろうか? それとも後退しているのだろうか?
したいことはできなくてといいながら、ずっと時間かせぎをしている気がしてしょうがない。 二〇〇三年九月 荻原魚雷(あとがきより)
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ようやくにして『複刻ふるほんやたいへいき』を刊行することができました。ただ、予告より一年半、吉川登の解題が、アクシデントにより、どうしても整わないということで、本文のみの複刻となりました、お許し下さい。せめてもと、索引を用意しましたが、人物名等の読みについては、暫定的に配置した例がいくつかあります。読者諸賢のご叱正をいただければ幸いです。
元来の印刷があまり上等とは言いかねますので、複写では読みづらい部分も多々あるかと思いますが、どうぞご寛恕下さい。内容はとても興味深いものです。ただし、丸善の項目など、他書を参照しますと、多少の誤りを含んでいるらしいことが想像されますけれども、それはそれで大庭柯公という人の性格がうかがえるようで、趣も一層深くなるのではないでしょうか。
大庭柯公 oba kako
1872年(明治5年)、山口県長府町(現下関市)生まれ。本名景秋。1896年(明治29年)、ウラジオストクに渡り、ロシア商務館勤務などの後、参謀本部通訳官となり日露戦争に従軍。1906年(明治39年)に大阪毎日新聞記者。さらに東京日日新聞、東京朝日新聞を経て、東京読売新聞の編集局長兼主筆として活躍した。雑誌『外交時報』などを主宰、新聞記者組合の提唱、著作家組合の設立、日本社会主義同盟の創設に参加。1921年(大正10年)、シベリアを経由してモスクワに至るも、スパイ容疑で逮捕され、以後消息を絶った。