短詩、俳句
→ 折々の句
風車風が来るまで昼寝かな ?作 彼岸花起きて半畳寝て一畳 ?作(改Kim)
あざみあざやかあさのあめあがり 山頭火 うらを見せおもてを見せて散るもみじ 良寛
ラグビーの頬傷ほてる海見ては 寺山修司 木がらしや目刺にのこる海の色 芥川龍之介
《−− 終 電 −−》
新年や手の切れそうな白ノート
紅花が燃えているなか初神籤
春灯異国に出でし子の机
子供らの帰京せし後犬が逝き
春寒や小さなパン屋の灯が点る
独り咲く白梅眩し谷の畠
帰省路の花のトンネル雨温し
蝶々の川のきららに消え入りし
夜桜の深閑たる道通りけり
格子戸の幾何を欺く蝶の舞い
白紙折り花の中へと飛ばし見る
もつれ蝶犬の鼻先にて分かれ
皐咲く古事務棟に着任す
トンネルを抜ければ五月ペダル踏む
水無月や川岸の樹の風膨れ
通勤の襟に春風開き入れ
梅雨明けて豊かなる川青き山
水郷に水満ち緑盛るかな
荒梅雨や象の如くにトラック行く
幽霊の闇を抱えし大柳
梅雨明けの虹高く立つ町へ行く
夏蝶は草葉をバネに踊るなり
ロッキーの氷河のガイド黒眼鏡
信号を待つ朝木陰涼しかな
門前町氷の旗の翻る
山脈に夏雲並び何か言う
朝顔の簾越しなる豆腐店
鶏頭の爛れ顔良し残暑かな
露草の何ほどの幸空の色
山柿の燈火のごとき道を行く
影連れて七八枚の紅葉浮く
黄葉の大地を割ってジープ行く
赤花の倒れし夕べ風も無し
雑草のほけたるてっぺん空蒼し
冬の川町に有りては町写す
逆光を背にし友来る冬の街
エナメルのコートの似合う冬の町
ライターの火一瞬狐眼の女
終電や駅前街に光る雪
雪山の遠き尖影子を送る
ある朝の小さき町の細雪
妻とのみ幾年静か冷奴
| 新 葉 (折々の句) Kim |
作月 |
吹雪く里ラジオ聞く道昔今
雪花やセンター試験日の枯れ枝に
郊外や強き北風踊る枝
郊外や強き北風踊る枝
山白し握るハンドル南へと
雪雲や町の造作既に白
黒雲下入れば町も霙かな
冬の雨家山雲と息を吹く
冬空を筋雲一本伊吹山
寒陽射す枝木の山や和み湧く
寒の陽の澄み抜き切るや枝森を
冬空の澄み抜けたるや喜寿の年
冬月や早寝の窓に物言わず
下町や影の少なき松の内
幼児来て家中点灯松の内 |
01月 |
年の瀬や遠山稜線白光り
雨音に夜汽車も混じる年の暮れ
物言わず冬星一つ只光る
冬の陽や広き町道風強し
山小屋に人心見る冬来る
冬空や稜線画す村の山
ふと目覚む窓に一つや冬の星
黒雲下山茶花村に赤衣山
四季桜赤山を背に花葉散る
赤衣着て里山空へ大欠伸
雨の前里の草焼きあちこちに
冬の雨夜中に聞けば葬儀曲 |
12月 |
(私、ギリシャは短足なのである)
高屋窓秋 河終わる工場都市にひかりなく 渡邊白泉 街灯は夜霧にぬれるためにある
ちるさくら海あをければ海へちる 赤き犬ゆきたる夏の日の怖れ
ある朝の大きな街に雪降れる ねこしろく秋のまんなかからそれる
種田山頭火 また一枚ぬぎすてる旅から旅 荻原井泉水 私の首も浮かして好い湯である
墓がならんでそこまで波がおしよせて けふも我が机午前の青空をうつせり
まっすぐな道でさみしい 一路かがやき遠くより走り来たる子あり
尾崎放哉 板じきに夕餉の両ひざをそろへる 寺山修司 風呂は休業星がかがやく夕べの町
篠原鳳作 しんしんと肺碧きまで海の旅
Essays on HAIKU
詩語俳句
夏石番矢という人が纏めた「現代俳句・キーワード辞典」は、「歳時記」の向こうを張って、俳句の中核語による秀句を集め、現代俳句の活性化に資することを願ったと言っている。
何と凄いことか。大賛成である。俳句はすでに有季定型の次元を越えて、世界の人が謳うポエムになっている。英語の俳句のみならず、各国語の俳句がある。そう言う点から見れば、この本には、美しい句(詩語=キーワード=必ずしも季語ではない)が、一杯あって、ボーダーレスの俳句のためのアンソロジーである。楽しい。
例えば、キーワード「こころ:心」
心のところに青い寺赤い寺かざる 阿部完市
現代俳句−キーワード辞典 夏石番矢 立風書房
《−−大 緑 −−》
赤き実やたわわのままに去年今年
ろう梅や今も時告ぐ古時計
海町のバス停古び春の雨
麦秋の村の夕暮れ温きかな
何時の間に青葉道とはなりにけり
畝打てば母居る如し茄子の花
ダリア咲き乱れて静か廃工場
老兵の過去を吹け抜く涅槃西風
水田の苗は整列鷺白し
今年また山脈青し里の夏
雨降れば渺々たる湖菖蒲咲く
雑草の太きを切れば夏匂ふ
風鈴の一打が通る午後の町
サイダーのコップ泡立つ胡瓜園
カーテンの少しも揺れず油蝉
草抜けば音立て身を切る盛夏かな
盆過ぎてショップの日陰寂しけり
盆踊り皆々影と二人かな
大緑木下に水の臭い有る
赤りんご黄りんご点る坂の上
銀杏降る明るき道を踏みて行く
高々とススキ輝け長き夜に
古鏡台拭けば冬立つ庭写る
通り過ぎ後ろ囁く地の枯葉
清秋の道をトラック唯一つ
空部屋にみな花活けて年おくる
尾根画す線も薄墨冬の暮れ
冬枯れや固き空気を癒す雨
村老いて白峰のみの輝ける
蟹料理古町の夜は波の音
法事終ふ羽虫きらめく冬の川
冬の町業それぞれに灯しけり
孫抱けば赤き冬バラ香るなり
−−心に有る句 1−−
もちろん、佳句である、と言っている。では、龍太自身はそもそもどういう句を詠むのか、関心が開いた。そこで、思い出した。
涼風の一塊として男来る 飯田 龍太
これは「俳句的生活」(長谷川 、中公新書)のなかで、著者が句の「切れ」を語っている時の引用である。龍太は親父の残した「雲母」という俳句雑誌を受け継ぎ長く主催していたが、ある時すぱっと廃刊にした。だから著者は人生の「切れ」をもここに読むようだ。
それはともかく、私は新世界を垣間見たような気がしている。俳句を芸術と考えることや、高みへ向かって修練することなどとは離れたところで、軽やかに爽やかに付き合っていこう、と思う所以を上の諸句に感じたからである。例え、重大事なることに圧迫されていても、口から出る言葉は斯く有りてこそ我らの生き様じゃないのだろうか、そう思う。そんな目が開いたように思うのである。俳句とはそんなところへ心を引っ張っていってくれる有り難さが有る、そう思えるのである。ゆえに、素直に長く付き合うことができる、と。
年を重ねるに従って、衰弱が訪れる。芸に於いても、心に於いても衰弱があり、枯れていく。枯れずして老いはない。今更血みどろの闘いには踏み込まない。例えそういう羽目になっても、心はその上を浮遊する。ゆえに、口から出る言葉は軽やかに、枯れていく。俳句の付き合いとは、ここに於いてまことに性が合うではないか。この中に、私は限りなき美を思う。


俳句との付き合い 08.01.07
俳句に親しむようになってすでに二十年程にはなる。今でも趣味と言えば趣味ではある。若くから親しんでいるものではないから気楽である。人生の重心を掛ける気など全くない。ゆえに、矢っ張り一趣味である。その程度だからこそ長続きしていると思っている。
そもそも詩歌は技術屋の我らが力むような戯技ではない。がしかし、この短くて切れが有り、そしてリズムがある物言いは、むしろ我ら口下手の技術屋向き発露の技法であり、これを文芸というなら、親しめる文芸はこれ以外には無いとさえ思えて、実に有難い。俳句はまことに技術屋向きである、と思う。だから長く付き合える。
のみならず、長く付き合う気になれるのはこれだけではない。それについて述べてみる。これまでにいくつかの俳句関係書を読んだ。また今、読み直している。
秋冷の人の来そうな雨が降る 辻 蕗村
鉱脈の中押し通る寒夜の夢 伯耆 白燕
葉陰の蜜柑に雨がくる波がくる 小林 幸人
年迫る木影の澄める出入口 辻 蕗村
街から村へきらきらと十二月 広瀬 直人
例会の雑事の後の冬日向 浅利 昭吾
雪時雨していちじくの幹ばかり 渡辺 露山
氏神の森の木の葉が堰に満つ 三枝 たま
そして今になって改めて、これらの自由闊達の新鮮さというか溌剌さというか、軽やかさというか、そういうことに打たれている。
「俳句入門三十三講……飯田龍太」(講談社文庫)のはじめの方にある、龍太講評のなかで取り上げている作品群である。
《−− 流 星 −−》
初場所や張り手の音の高く冴え
竹よじれ身悶えて泣く春の風
古希酒やゆったり打つべし春太鼓
夜桜の独り華やぐ古工場
海崖の廃屋烟る四月かな
春の夕突き刺さり行く飛行雲
黒旋盤厳しき火花老いて尚
曇天の広き菜畑人語無し
蝶追えば意外の強さよ空へ飛ぶ
麦秋や奥に輝く青き山
白道やオオバコの花凛と咲く
雲の立つ青山や我帰り得ず
五月雨やドクダミ強し香も茎も
重き影引きずりて行く夏の街
抜きん出て高き夏草ひとつかな
参道の氷の旗のだらりかな
敗戦忌泣けと朝から雷雨かな
焼け道を飛ぶが如くに伝令蟻
木蓮が大葉で雷雨受けている
最強となりし草刈る晩夏かな
定年や遠くひとすじ流れ星
僧のごと向日葵枯れて並び立つ
野の銀杏独りきららと落葉す
金泥の唐松林を振り返る
波三つにて消え失せし足の跡
木枯しや波頭の向こうに流れ星
尖塔の上で割れ行く冬の雲
枯木踏み音は虚空に消えていく
永らえて荒れ巣に孤高冬の蜂
雪原の古樹見得を切る黒々と
ゼンマイの時計や遂に冬のゴミ
今朝もまた白き山へと加速する
「おーいお茶」のメーカーが募集する「新俳句」が相変わらず大盛況だ。これは嬉しいことだ。特に中学生の応募が多く、それがいい。下手に人生論ではなくて、清純で新鮮な感覚で謳うのが非常によい。消防繰法大会を応援に行って、貰ったお茶にも、私好みの面白いものを見つけた。 090706
(第十九回新俳句大賞)
ざぶとんをちょっとはなれる猫がいる 中里 絵美 (16才)
悔しさは風にそっと流せばいい 中村麻沙里 (16才)
世界一大きい包み紙は母 坂田 雅英 (16才)
悩み事犬の隣で夜星見る 登坂 健太 (16才)
《−− 光 雨 −−》
友逝くや夕立弾く舗装道
新年や唯まっすぐな飛行雲
遠き子の幸有れとのみ初詣
雪の原孤樹枯れ骨の見得舞台
襟正す立春大吉光る雨
楽しいよ暮らしの報せ春立ちぬ
餅売りも我等も夫婦春灯
田舎道日々新しき春光る
雨垂れの光の向こう新芽有る
一瞬に花の吹雪に包まれる
庭隅に朽ちし犬小屋春溜まり
読了し閉づれば匂ふ沈丁花
寝ころんで底まで見たい4月空
ツツジ咲きトカゲの走る石参道
水田や新水満ちて蛙鳴く
トラックの跳ね水の中アザミかな
紫陽花も薔薇も雨の有情かな
白帽子蟻の行列見つめる子
山に立ち大声の雲夏土俵
炎える陽を求め一際高き草
古町の路地に迷いて涼しかな
万燈の雨に打たれて盆終わる
痩月や踊りの影も骨細し
遙かなる祭りの声やかき氷
白菊の花弁に現る小糠雨
時雨間の広き日差しや町光る
大往生猫も紅葉の国へ行け
時計また活動すこの電池にて
蟹茹でる湯気の落ち先薄氷
糸町のそこだけ旅篭の色明かり
雨の村たわわな柿の光る道
降る雪や鯖煮の味噌の匂い立つ
寒き朝なればこそ見ゆ遙かな塔
冬の町業それぞれに灯しけり
fr.義母の遺作 −−→
知らぬ間に書にして残してくれていた。謝謝。
(逆光を背にし友来る冬の街)
思い出 義母は早くから俳句に親しんでいたから、いわば私の大先輩である。と言っても、親しく俳句を交換したことも、教えを請うたこともない。が、何かの折りに、互いの句が知れ合うことはある。義母がかなり高年になった頃、フト漏らした……楽しかったよ、俳句を一緒に作っていた頃が……。これは嬉しかった。何か孝行をしてきたような……。その時、義母が口にした俳句……「夕風や吹くとも無しに竹の秋」。義母はこれを私の句だと言って褒め上げた。が、調べてみると、義母句。しかしこりゃあ、なんともまあ光栄な思い出だ。
−−心に有る句 2−−
海外俳句 …… 三行詩
海外でも俳句は大変に人気があるそうだ。TVでも紹介があった。特にベルギーなどで……。しかし、季語とか五七五とかは全く無視である。そりゃそうだろう、言語や文化が違うのだから。要は短い三行詩……、名詞止めや体言止めの言葉が三行並ぶ(句を始めた頃、我が師匠はこういうのを極限までコキ下ろしていたよ、俳句じゃないとね!)。それで、結構盛大な「句会」がある!ナント、師匠まで居る!
三行詩は石川啄木がそうであり、フランスの詩人達も多く居た。之と俳句は何が違う?どうやら内容の雰囲気が「俳句らしい」と言うことか……。彼らは芭蕉を熱心に研究しているのだ。
世界に共通し、共感し合えるなら、そういう解釈でいいじゃないか、と私は思う。
そもそも、詩情があって、それが伝わるならばそれがこの世界なのであろう……
俳句って? 自由律俳句は五七五に拘らず、また季語にもとらわれない。まして切れ字や旧仮名遣いなぞ眼中にない、と言う。それはいい。では、何をもって俳句と言うのだろうか。そもそも俳句とは何か。その定義は無いも同然……。要は短詩であればよい‥‥というのが私の解釈……。次はたしか尾崎放哉の自由律俳句だったと思う。リズムも形も無いが、一応、詩心は伝わってくるじゃないの……。 咳を しても 独り
出来れば私も形やリズムや、季語や切れ字からフリーにありたいと思ってはいる。それがそこまで踏み込めないのが、市井人の限界である。俳句と言えば、形があり季語があると思わなくては言葉が出てこない。とは言え、やはり心底には抵抗がある。そのレジスタンスが句会や選句などを拒否することになる。面白いと思えばそれが我が特選句であり、それでもう良い。それ以上は醜くなろうというもの……という意識。先日、純情刑事物語のTVドラマで締めくくりとしてでていた句……、これも私にとっては特選句……。
携帯の向こうの幸せ握りしめ
【歌会始に思ったこと…… 】 1月14日には宮中歌会始のご披露があった(NHK)。和歌は俳句と違って、「切れ字」による事象の対峙というモノが殆ど無く、或る心情を直線的に述べていく。
俳句は超短文の定型であるが故に、事象対峙によって詩情世界を言葉以上の世界に広げる。私はこれが好きだが、行き過ぎるとまさに独りよがりの、他人の理解を超えた共感不可の世界に嵌り込んでしまう。
いろいろの宮中撰歌を聞いていると、その簡明、直裁、平易さの目立ちを強く感じた。これって、散文とそれほど変わりがねえじゃないか……、と、これは失礼。多くの学者選者達が選んだ格式高き撰歌なのであるから、こんなケチを付けたら、それこそ「不敬罪」か?
でも、反省したなあ、私の場合は、他人の理解しがたい、独りよがりの方にひどく傾斜しすぎては居ないか?「事象の対峙」でもって世界を広げることで、独り合点の勝手世界に酔っているのではないか?、と……。
秋元不死男の「俳句入門」を再読している。伝統に帰れと、そう言っているのかな?いや、そうじゃないが、俳句と言う形やリズム → 有季定形が、それでなければ醸し出せないそれなりの詩の世界があると言うことだろう。ならばもう一度、その有季定形を大事にして、その世界に浸ってみようか、と言う気になっている。
実際、自由俳句や短詩に大いなる関心を持ちつつも、自分の短詩はもうず〜っと、有季定形を離れることが出来なかったのだから……。
向日葵の大声で立つ枯れて尚 (秋元不死男)
こういう句を書きたかったねえ……。でももう書けない−−これは時代が違う。
蝶墜ちて大音響の結氷期 (富沢赤黄男)
心象風景が強烈で、直に心に響くから、こういう句が作りたいと言う憧れの句である。しかし、私らが安直にこういう作風に飛び込めば、多分、中学生並みの妄想空想の句に陥るのが関の山であろう。危ない危ない……。しかしかし、何とも強き……詩だ!
浮浪児昼寝す「なんでもいいやいしらねえやい」 (中村草田男)
破調で散文風ながら、リズムのある俳句である。それで胸に響いてくる。戦後間もない時でなければこういう風景は無いだろうが、しかし、路上生活者は何時の時代にも存在する。
芋の露連山襟を正しゅうす (飯田 だこつ)
実は、「心にある句」の筆頭に掲げて既に一昔……。古くなったので削ってしまっていたが、矢張り復活である。清廉にして爽やかな気持ちを謳うときの、我が愛句である。斯くの如き句を作りたい……。
−−心に有る句 3−−
近代俳句鑑賞
以下の俳句は有季定型に拘らない、と言うか、無視しているものであるが、結果として力強さと新鮮さを与えてくれた。これに惹かれる。作品は一段の高さを感じる。最近、山頭火の句集を入手した。何と100円ショップで売っていた。
| 新 葉 (折々の句) Kim |
作月 |
村の山花をも凌ぐ赤と黄よ
靄の村冬の雨道心道
ふと目覚む冬星光る夜明け前
雨音や寝返り打てば冬が来る
集落や朝日冷たく当たりけり
田舎屋も布団陽干しや冬の入り
雲の無き初冬の村や車出る
山の家柿が赤々色映えて
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11月 |